2018.05.27
リバタリアンのジレンマ
『中央公論』6月号、渡辺靖さんの連載、「リバタリアン・アメリカ」でアイン・ランドがとりあげられている。
この回で、渡辺さんは、ハワイのオアフ島のリバタリアンで『のんきなジョナサンの冒険』の作者、ケン・スクールランド氏と、カリフォルニアのARI(米国アイン・ランド協会)を訪問されている。
リバタリアンのアメリカを本当に知ろうと思ったら、足で訪ね歩くというアプローチはたぶん正しい。一見普通の常識人にみえても、やはりどこか感性が違う。ものごとのとらえかたがちがう。パラダイムが違う。その肌感覚みたいなものがわかる。
とはいえ、広いアメリカ。自分の足でいろいろ訪ねるのは難しい。
カリフォルニア州アーバインのARI(米国アイン・ランド協会)を訪れて、じっくりスタッフに話を聞いたというのは、日本のアメリカ研究者の方としては初めてでは?
記事にあるように、1970年代以降のリバタリアンのムーブメントは、ランドの作品が大きな原動力となっている。まさに、「ランドなしにリバタリアン運動は存在しなかった」。
一方で、ランドは、いわゆる「リバタリアン」を毛嫌いしていた。彼女が目指したのは無政府・無秩序の世界ではなかったし、単なる文化的リベラルのヒッピー的な世界観とは相いれなかったこともあるだろう。
何より、ロシア革命後のソビエトロシアで育ち、圧倒的な全体主義国家の暴力支配を目の当たりにしてきたランドにとって、無政府の理想郷など寝言でしかなかったのかもしれない。
だから、彼女はアメリカの保守派に共感し、ゴールドウォーターの大統領選など自分でも積極的に政治に関わり、リバタリアンではなく共和党の保守派と交流を持ち、結果として、共和党の思想基盤に大きな影響をもつにいたった。
同様に、現在のARIもオフィシャルには、リバタリアニズムとは距離を置いている。
客観主義は、リバタリアニズムとは似て非なるもの、というのである。
渡辺氏の記事に登場するエラン・ジョルノ氏は、前所長のヤロン・ブルックと同様、イスラエル生まれ。(なので現在のところARIの外交政策研究は中東研究が中心と思われる)
「国家」や「政府」を敵視し、警戒しても、それを不要とみなすことはない。
渡辺氏が分析されているとおり、「リバタリアンといっても内実は既存のイデオロギー分類では上手く整理できないほど多様」であり、ARIお墨つきの客観主義は、そこには分類されない。
実際、いわゆるリバタリアンは、皆が個人主義者だけに、「自由が大事」以外の主義主張が実はばらばらであるだけでなく、組織としてもまとまりにかけ、アメリカのような大きな国で政治勢力となるには、、いいかげんすぎる。
私自身は、ARIのスタッフたちのような筋金入りのアイン・ランド主義者というよりは、ゆるいリバタリアンに近いような気がするのだけど、それでも一昨年のリバタリアン党の大統領候補だったゲリー・ジョンソンの「アレッポって?」には大きな不安を覚えた。
単なる自由至上主義者には、自由世界は守れない。
リバタリアンのジレンマがそこにある。