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BLOG

2022.08.05

耐えがたき責苦の果てに──マリリン・モンローの死 
Through Your Most Grievous Fault — The Death of Marilyn Monroe

Category : 人物
Author : 宮﨑 哲弥

 ウィリアム・フォークナー、F・スコット・フィッツジェラルド、ナサニエル・ウェスト、レイモンド・チャンドラー、オルダス・ハックスリー、リリアン・ヘルマン、クリフォード・オデッツ、アーサー・ミラー等、ハリウッドと関わった有名作家は数いれど、さまざまな意味において、アイン・ランド以上に黄金時代の映画産業と深く関わりをもった作家は誰もいないといってよいだろう。その関わり方自体、他の作家とはまったく異なるレベルのものだった。

 ロシア時代に出版された彼女の最初の著作は「ハリウッド:アメリカの映画都市」と題した、サイレント時代の高い人気のあったポーランド人女優ポーラ・ネグリ(ドイツ時代のエルンスト・ルビッチ作品に主演し、渡米後は伝説的な二枚目俳優ルドルフ・ヴァレンティノとの共演で知られる)をめぐる論考だった。(おそらく、ネグリがハリウッドに招かれた最初のヨーロッパ人女優だった点が、ランドの興味を惹いたのではないか)。
 ランドは1926年1月に単独でロシアからアメリカに渡り、シカゴの親類の家に寄宿することになるが、寄宿先となった親戚の家が映画館を経営していた事情もあり、半年間で138本のサイレント映画を見て、詳細なメモを取っていたという。多くの作家が「映像で思考する」ことができない一方、ランドの書く小説の並外れて視覚的(映画的)である理由は、こうした経験がものをいっているのかもしれない。

 ハリウッドで脚本家として成功することを夢見ていた彼女は、親戚に書いてもらった推薦状と親戚の家で書きためた原稿の束を抱え、ハリウッドの黎明期から活躍し、当時、映画界の頂点に君臨していた大監督セシル・B・デミルのスタジオ(パラマウント映画の前身)の門を叩く。スタジオの秘書は、自分を売り込むランドの話に興味深そうに耳を傾けていたものの、話を聞き終わるや否や彼女をドアの外に追い出した。すると、スタジオの門を出ていこうとする彼女の前に、黒塗りのオープンカーに乗ったまま誰かと話し込んでいるデミル本人がいるではないか。話に夢中になっているデミルをランドはじっと凝視し続けた。その尋常ならざる“目力”に興味を惹かれたデミルは、彼女に話しかけた。ランドが自分はロシアから来たばかりで、脚本家を目指していることを強いロシア訛りの片言の英語で告げると(両者がユダヤ系であることも関係していたのだろうが)、デミルは彼女の境遇に興味をそそられ、自分の車に彼女を乗せ、ハリウッドの市街を案内してくれたという。(註1)そして、別れ際に、翌日クランクインする、キリストの生涯を描く新作『キング・オブ・キングス』にエキストラとして参加してみないかと言われたとき、彼女が天にも昇る気持ちだったことは想像に難くない。(デミルはそのとき、ランドに「キャヴィア」というニックネームをつけた。)

 翌日、スタジオに向かうバスの中で、背の高いハンサムな青年を見かけたランドは、その青年が自分と同じく、『キング・オブ・キングス』のエキストラであることに気づく。彼がやがてランドの生涯の伴侶となるフランク・オコナーだったという話は、偶然にしてはできすぎているようにも思えるが、実際に『キング・オブ・キングス』の1シーンで、甲冑に身を包んだローマ軍の兵士役のオコナーと、キリストに向かって歓声を上げる群衆の一人として、若き日のランドの姿を確認することができる。(ちなみに、オコナーは、D・W・グリフィス監督の多くの作品に端役として出演しており、後年「グリフィス先生と私」というエッセイを発表している(もっとも執筆者はランドだという説もある)。)

 デミル・スタジオでエキストラとして雇われたランドは、毎朝6時半にスタジオに入り、入念にメーキャップと衣装合わせをした上で撮影に臨んだ(ほとんど出番はなかったのだが)。やがてデミルの好意によって下級シナリオライターの職を得ることになったランドは、映画ビジネスに携わる若い女性のための寮「ハリウッド・スタジオ・クラブ」に身を寄せていたが、採用されたシナリオはひとつもなく、満足に家賃も払えないほど生活は困窮をきわめていたといわれている。共に入寮している、明日のスターを夢見てレッスンにはげむ若い女優の卵たちを尻目に、寝る間も惜しんで自作の小説の執筆に励んでいたというから、相当な変わり者とみなされていたことだろう。この変わり者の少女が、やがて全米を席巻する大ベストセラー作家になるとは周囲の誰一人として想像できなかったにちがいない。

 映画界の底辺から自力で這い上がり、自作の映画化によって大成功を収めることになる彼女のサクセス・ストーリーは、まさにアメリカン・ドリームを地で行くものだったといえるが、当時から今日にいたるまで、彼女に対する悪意に満ちた誹謗中傷の数々(そのほとんどは、“リベラル派”を自称する左翼知識人によるもの)をみるにつけ、彼女の姿は、人々の目に、映画『イヴの総て』(1950)で、アン・バクスター(ちなみに彼女はフランク・ロイド・ライトの孫娘である)が演じたイヴのように、自分の目的達成のためには手段を択ばないほどの狡猾さと、人並はずれた意志の強さを備えた、自己本位の権化のごとき、人間らしい感情を欠いた冷酷非情なエゴイストとして映っていたのだと思わざるを得ない。
 「人並はずれた意志の強さ」という点だけは当たっているともいえるが、彼女の言葉を借りるなら──「一般的な使用法では「自己本位(セルフィッシュネス)」という言葉は悪の代名詞になっています。そのイメージは、自分の目的を達成するために死体の山を踏みにじってのし歩くけだものであり、生きとし生けるものを関知せず、目先の無意味な気まぐれを満たすことだけを追い求める人非人といったところでしょう」。
  

 利他主義は、他人の利益のために行う行為は善であり、自分の利益のために行う行為は悪であると宣言します。したがって、行動の受益者が道徳的価値観の唯一の基準であり、その受益者が自分以外の誰かである限り、何でもありなのです。

 それゆえに、利他主義倫理のあらゆるバリエーションの下で、歴史を通じて人間関係と人間社会を特徴づけてきた、あきれるほどの不道徳、慢性的な不正、グロテスクな二重基準、解決できない対立や矛盾が生じてきたのです。

 今日の道徳的な判断の下劣さをよく見てください。財を成した実業家も、銀行を襲った強盗も、どちらも自分の「利己的な」利益のために富を求めたのだから、同じように不道徳であるとみなされます。親を養うために出世をあきらめ、食料品店の店員以上にはなれない若者は、苦しい闘いに耐えて個人的な野望を達成した若者よりも道徳的に優れているとみなされます。独裁者は、言葉にならないほどの残虐行為を行っても、自分のためではなく「国民」のためになることを目的としていたため、道徳的に優れているとみなされるのです。(アイン・ランド『自己本位の美徳 エゴイズムの新しい概念』1964年)

 
 ハリウッドにおける「暴君ネロ」とも称されたセシル・B・デミルが本人役で登場するビリー・ワイルダー監督・脚本(脚本はチャールズ・ブラケットとの共同)の『サンセット大通り』(1950)は、映画界の内幕をかなり露悪的に誇張して描いたことによってカルト的人気を得ているが、同じ年に作られ、同様に演劇界の人間模様を赤裸々に描いた名匠ジョセフ・L・マンキーウィッツ監督・脚本による『イヴの総て』もまた、(ワイルダーの露悪趣味とは対照的に)洗練の極みともいえる機知に富んだ台詞と、(ルビッチの弟子を公言するワイルダー以上に)ルビッチ的な抑制の効いた演出で、その年のアカデミー賞の主要部門を独占した非のうちどころのない名作である(実際、マンキーウィッツが最も敬愛する監督は、MGM及びパラマウント時代の上司だったルビッチだったという)。この映画でアカデミー助演男優賞を受賞した、狡猾で冷笑的な英国紳士を演じさせたら右に出るものはいない名優ジョージ・サンダース(1906-1972、サンクトペテルブルク生まれ)は、その自伝『プロフェッショナルな卑劣漢の回想録』(未邦訳)のなかで、本作にまつわるこんな話を披露している。

「『イヴの総て』は、マリリン・モンローが私の女友達役として初登場した(註:デビュー作ではないが、モンローがはじめて大きな注目を集めた作品だった)ことも特筆すべき点だった。彼女は、私が連れ歩いていた、とても間抜けな女優志望の女性を演じていた。当時から、彼女は作家を捜しているような性格で、最終的に(アーサー・)ミラー氏を見つけたのは喜ばしいことだ。彼女はとても美しく、好奇心旺盛で、まだ書かれていない劇中の人物で、全体のプロットにおける自分の役割に確信が持てないような状態だった。私の記憶では、彼女は謙虚で、時間に正確で、短気なところなどなかった。彼女は人に好かれたがっていた。
 私は、彼女には輝かしい未来があると思ったが、他のみんなもそう思っていたようだ。こうした状況において、モンローがすぐに、私たちが予見した輝かしい未来を手にしたとしても、驚くにはあたらない。
 この映画の製作中、私は彼女と一度か二度、昼食を共にしたが、彼女の会話には思いがけない深みがあった。彼女は知的な話題にも興味を示し、それは控えめに言っても面食らうことだった。彼女の前で冷静でいることは困難だ。
 マリリンがいずれ成功すると確信したのは、彼女が明らかにスターになることを必要としていたからだ。このような問題では、本質的な才能よりも必要性が重要なのだ。世の中には、才能のある人がいても、なかなかその道の頂点に立てない人がいる一方で、そうでない人もいる。そのような人たちは、たいてい頂点に立ちたいという深い心理的欲求があり、そのために本来の能力以上の力を発揮するのだ。マリリンは、幼少期を孤児院や里親のもとで過ごしたと言われている。彼女は、15歳の時にセーターを着るまで、誰からも顧みられず、愛されていなかった。(中略)マリリンのような生い立ちの少女にとって、映画スターになることは、誰からも愛されることを意味していた。
 孤児院出身の愛されなかった少女が、当時の傑出したラブ・シンボルになったのは、明らかに偶然ではなく、物事の心理的な仕組みの一部なのだ」。

  
 サンダースは、モンローがその見かけのイメージとは裏腹に、きわめて知的で聡明な女性であることに「控えめに言っても面食らった」と正直に述べている。この本が発表されたのは1960年だから、このときモンローはまだ生きていたことになるが、彼女の存命中にここまで的確に彼女の認識心理を指摘した発言は珍しいといえるかもしれない。   
 サンダースは続けて、自分自身についても、スクリーンでの冷酷非情な卑劣漢のイメージとは異なり、本来自分がいかに純情で涙もろい人間であるかを告白し、そうした表向きのイメージは、傷つきやすい本来の自分を守るための仮面なのだと語る。さらに、さまざまな有名俳優の実名を明かして、かれらのスクリーン上の虚像と、その実像がいかにかけはなれているかを長々と説明している(彼はその後、自殺してしまったが、単純に傷つきやすいタイプというよりは、非常に複雑な性格の持主(内なる矛盾を抱えた人物)であったことは確かなようだ)。

 さて、サンダース以上に、というより、誰よりもモンローの本質を正確に見抜いていた人物こそアイン・ランドだった。今からちょうど60年前のモンローの死に際して、ロサンゼルス・タイムス紙に掲載された彼女による追悼文(「最も耐えがたき責苦の果てに」Through Your Most Grievous Fault)は、数あるモンローに関する発言のなかでも、傑出した洞察力と慈悲深い情感にあふれ、読む者の心を深く打つ。その悲劇的な死から60年を経た命日にちなみ、今回、その記事全文を紹介したい。

  

 マリリン・モンローの死は、他の映画スターや有名人の死とは異なる衝撃を人々に与えました。世界中の人々が、「なんてことだ!」という世界共通の叫びのような、個人的な関与と抗議のような独特の感覚をおぼえました。
 人々は、彼女の死に何か特別な意味があると感じ、解読できない警告のようなものを感じたのです──さらに、名状しがたい不安、何やら恐ろしい間違いに巻き込まれたという感覚がありました。
 人々が感じたことは正しかったといえます。
 銀幕のなかのマリリン・モンローのイメージは、純粋で無邪気な子どものように、生きる歓びを感じさせるものでした。彼女は、苦しみとは無縁の輝かしいユートピアに生まれ育ち、醜さや悪を想像することができず、自信をもって人生に立ち向かう人間の感覚を映し出していました。子どもや子猫のように、自分の魅力を世界に提供できる最高の贈り物として喜んで披露し、傷つくことなく称賛されることを期待しているような、自信と慈愛と歓喜に満ちた自己誇示をしていたのです。
 現実は、マリリン・モンローが自殺した可能性が高く──もしくはさらに悪いことに、事故死かもしれず、彼女にとって、そのちがいは重要でないことを示唆していますが──それは、私たちが、彼女のような精神や彼女が象徴していたものが生き延びることが不可能な世界に住んでいるという宣告なのです。
 社会の犠牲者がいるとすれば、マリリン・モンローはその犠牲者です──苦しみを救うことを公言しながら、歓びを殺す社会の犠牲者です。
 人道主義者たちの優しい思いやりの対象となっている非行少年少女たちのなかにも、マリリン・モンローほど、劣悪でぞっとするほどの幼少時代をすごした人はいないでしょう。
 それを乗り越えて、彼女がスクリーンに映し出したような精神──ごまかしのきかない、明るく慈愛に満ちた生命感覚──を維持することは、想像を絶するほどの心理的達成であり、最高のヒロイズムを必要とするものでした。彼女の過去が残したどんな瑕疵も、それに比べれば取るに足らないものといえます。
 彼女は悪夢のような闘争を経て、自分の人生観を守り抜き、頂点への道まで闘い抜きました。頂点に立った彼女を打ちのめしたのは、彼女が捨て置いてきたものと同じようなあさましい悪を発見したことでした──さらに悪いことは、おそらく、それが理解できなかったことです。太陽の光に到達することを期待していた彼女は、代わりに底知れぬ悪意の沼地を見つけてしまったのです。
 それは、非常に特別な種類の悪意でした。それを理解しようとする彼女の手探りの努力を見たいのであれば、『ライフ』誌の1962年8月17日号に掲載された素晴らしい記事を読んでみてください。これは記事ではなく、彼女自身の言葉をそのまま記録したものであり──ここ数年で発表されたドキュメントのなかでもっとも悲痛な内容となっています。それは助けを求める声でしたが、その声に応えるには遅すぎました。
 「有名になると、人間の本性と生々しいかたちで出くわしてしまうものなのね」と彼女は語っています。「名声は妬みをかきたてるのね。出くわした人たちはこう感じるのよ、さあて、あんたは誰だっけね?──自分をマリリン・モンローだとでも思ってるのかい? かれらは名声のある人に近づいて何でも言える特権があると思ってしまう、どんな性質のものでも──まるで自分の服について話しているように、そのことで相手の気持ちを傷つけたりするはずがないと(……)なぜ人はもう少しお互いに寛大になれないのか、私には理解できない。こんなことは言いたくないけれど、このビジネスにつきものの妬みが怖いの」。
 「妬み」とは、彼女が直面したおぞましきものをあらわす唯一の名称ですが、それは単なる妬みよりもはるかにたちの悪いものでした。それは、人生に対する、成功に対する、そして人間的な価値に対する深い憎しみであり──他人の不幸を聞いて喜ぶような、ある種の凡庸な人間が抱く類いのものでした。それは、善きものが善きものであることに対する憎しみであり──能力に対する、美しさに対する、誠実さに対する、ひたむきさに対する、偉業に対する、そして何よりも、人間的な歓びに対する憎しみだったのです。
 ライフ誌の記事を読んで、それが仕組んだことを、そして、それが彼女に何をもたらしたかを確認してください。
 熱心な子供は、その熱心さを叱られました──「(里親の)家族が心配していたのは、私が大きな声で陽気に笑っていたからなの。きっとヒステリックに感じたのね」。華々しい大成功を収めたスターは、雇い主から「君はスターではないことを忘れるな」と言われ続けました。かれらは、彼女に自分の重要性を認識させないようにしていたのです。
 輝かしい才能を持つ女優が、疑惑の当局から、ハリウッドから、マスコミから、「演技ができない」と言われ続けたのです。
 情熱的なまでの真剣さで自分の芸術に打ち込んだ、一人の女優は──「五歳の時──女優になりたいと思い始めたのはその時だったわ」──「遊ぶことが大好きだったの。自分の周りの世界は、なんだか重苦しくて好きになれなかったけれど」──「でも、私はおままごとが大好きで、そうすることで自分の境界を作ることができるような感じがしていたの」──自分の境界を作るために地獄を見た人であり、自分のビジョンの太陽のような宇宙を人々に提供する人でした──「それは、ある種の秘密を自分のなかに持っているようなものね、演技のなかで一瞬だけ全世界に打ち明けるような」──しかし、彼女は、真面目な役を演じることを望んでいたことで嘲笑されたのでした。
 罪悪感に侵されていないどこかの惑星からやって来たかのような、輝くばかりの無邪気な性的魅力を投影することができた唯一の女性は──自分が猥褻なシンボルとして評価され、喧伝されていることに気づきましたが──「人はみな生まれながらにしてセクシャルな生き物であるのは、ありがたいことよね。でも、多くの人々がこの天賦の才を軽蔑し、潰してしまうのはもったいないとおもうわ」と宣言する勇気を持ち合わせていた人でもありました。
 純然たる偉大さを誇りに思い、あなたの足元に狩りの獲物を置いていく子猫のように、自分の成果を世界に向けて発信していた幸せな子どもは──それがじつは、彼女の業績を否定し、卑下し、嘲笑し、侮辱し、破壊しようと申し合わせた反対運動に報いていたことに気づいた人であり──痛めつけられたのは最悪の状態ではなく、自分の最高の状態であることに思い至らなかった人であり──こうした状況下で、言葉では言いあらわせないような邪悪さに直面していることを、どうしようもない恐怖で感じ取るしかなかった人でもありました。
 そんな状況に人間はどのくらい耐えられると思いますか。
 そうした価値観に対する憎しみは、いつの時代でも、どんな文化でも、一部の人々のなかに存在していました。ただし、百年前は隠すことが求められていたのでしょう。今日、それは私たちの周囲に顕在化し、この世紀のスタイルやファッションとなっています。
 傷ついた魂が安息できる場所はどこにあるのでしょうか。
 文化的な空気の邪悪さは、それを共有するすべての人々によって作られるものです。善きものが善きものであることに対して憤りをおぼえ、そうした声を上げてきた者は、誰であろうとマリリン・モンローの殺人者にほかなりません。

  
 この記事は、モンローの死から二週間後の8月19日にロサンゼルス・タイムス紙に掲載されたものだが、モンローに対するランドのかぎりない賛辞と切実なまでの共感の前には、通り一遍の美辞麗句を並べ立て、上っ面だけの同情心で書かれた浮ついた批評など、完全に色褪せてしまう。ランドとモンローの間には、何か特別なつながりがあったのではないか、そう思えてくるほどだ。
 実は、前述した、若き日のランドが暮らした、女優の卵のための寄宿舎ハリウッド・スタジオ・クラブに、若き日のマリリン・モンローも入寮していた。おそらく、ランドは、自らの下積み時代の姿と重ね合わせて、そこから巣立っていったモンローの活躍ぶりを母親のような気持ちで見つめていたのではないだろうか。魑魅魍魎の跋扈する映画業界のなかで、一人の女性が、強大な権力を握るスタジオのボス(ダリル・F・ザナック)と闘いぬいて頂点に上り詰めた、彼女の比類のない偉業を貶めようとする「底知れぬ悪意の沼地」の正体を、モンロー以上に知り尽くしていたからこそ、ここまで心のこもった追悼文が書けたのだともいえるだろう。

 ランドは終生、自分を最初に認めてくれたセシル・B・デミルに対する恩義を忘れず、晩年のデミルとも親しく文通していた記録が残っている(ただし、ランドがもっとも敬愛していた監督はフリッツ・ラングとエルンスト・ルビッチだといわれているので、デミル作品に共感を寄せていたということはなさそうだ)が、いずれにせよ、理性だけしか認めない冷徹な客観主義者としての世間一般のイメージとは裏腹に、彼女が、義理堅く、人の縁を大切にする、人並外れて情感あふれる女性だったことはこの記事を読んだ人なら納得できるのではないかと思う。

  
(註1)セシル・B・デミルは、映画黎明期からトーキーを経て、カラー・大型画面の時代まで、常にヒットを飛ばしつづけ、映画産業の第一線で活躍し続けた稀有な(おそらく唯一の)大監督だが、インテリの批評家や研究者(教授職の傍らに映画を論じるような知的スノッブ)からは、悪しざまにけなされる(あるいは意図的に無視される)存在でもある。一方で、デミルと仕事を共にした(『サンセット大通り』でも共演している)サイレント時代の大女優グロリア・スワンソンは、次のように語っている。「デミルは私が心から尊敬する人よ。彼は規律を尊び、それを全員に徹底させた。彼のもとで働いた三年間、いやなことひとついわれた覚えはない。彼は紳士で、全力をつくす人間には正当な評価をしてくれる」。サイレント映画研究家ケヴィン・ブラウンロウによれば、「デミルとことばを交わした大半の人間は、彼をおもいやりのある親切な人物と見てとった」「仮に大衆の好みが芸術性を計る物差しであるとすれば、セシル・B・デミルこそ史上最高の芸術家ということになるだろう」と述べている。

 
(参考文献)
Burns, Jennifer. Goddess of The Market: Ayn Rand and the American Right (Oxford University Press, 2009)
Rand, Ayn. The Voice of Reason: Essays in Objectivist Thought (Meridian, 1990)
Sanders, George. Memoirs of A Professional CAD (Dean Street Press, 2015, First Published in 1960)
ケヴィン・ブラウンロウ『サイレント映画の黄金時代』(宮本高晴訳、国書刊行会、2019年)

(オマケ)