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2022.11.06

気候変動は「永遠の終わり」?──「脱炭素教の教祖」ブライアン・イーノと環境原理主義  
Brian Eno: “Guru of Decarbonization” and Eco-Fundamentalism 

Category : 思想アート
Author : 宮﨑 哲弥

 今日から18日まで、COP27(国連気候変動枠組条約第27回締約国会議)が、エジプトの高級リゾート地シャルム・エル・シェイクで開催されている。

 COPはこれまで、狡猾で共産主義的な体質をもった共同体であるEUを中心とする先進国が、温暖化による気候変動対策の強化──すなわち化石燃料からの脱却──を訴える一方で、インドなどの途上国が慎重論を唱える対立の場だったといわれている。化石燃料を使うことで経済発展を遂げ、気候変動を引き起こした先進国が、開発途上国に対して、莫大なコストがかかる上に安定的な供給ができない再エネへの転換を唱え、現実的にもっとも安価なエネルギー資源である化石燃料の使用を控えるようにいくら要請したところで、そもそも説得力をもちえないのは当然だろう。途上国の事情を考慮せずに、脱炭素こそが「集団的正義」だと唱えるのはあまりにも傲慢な態度に思える。

「我々には電力不足の問題があります。ナイジェリアは石炭に恵まれているので、石炭火力発電所を作りたいのです。それを建設することに意味があることは、天才でなくとも分かるはずですが、グリーンでないからということで、邪魔されてきました。これはいささか偽善ではありませんか。西側の工業化はまるごと石炭エネルギーによるもので、それが彼らの使ってきた競争優位なのに、こんどアフリカが石炭を使いたいというと、その連中が、おやまあ、きみたちは太陽光と風力(再生可能エネルギー)を使いなさいと言い出すのです。しかしこれらはきわめて高価なエネルギーであり、自分たちは何百年も環境を汚染してきたのに、それがこんどはアフリカが石炭を使いたいとなると、それを否定するわけですか?」(ナイジェリアの財務大臣ケミ・アデオソンによる発言)

「結局、太陽光は太陽が照っているとき、風力は風が吹いているとき、水力は川に水があるとき、それぞれ機能するのだ。だから石炭がないとダメなのだ。インドの人々は、普通の生活を望んでいる。中断のない電力供給による、子供たちのための仕事、学校や大学、病院を求めている。そのためには、大量のベースロード電力が必要であり、それは石炭からしか得られない。この状況の正当性を考えてほしい。ヨーロッパもアメリカもオーストラリアも、世界と地球をめちゃくちゃにしておいて、インド人は 1 日 8時間しか電力が使えませんよ、と言っているのだ。それ以外の時間は暗闇の中で暮らさなければならないとでも言うのか!」。(インドの鉄道・石炭大臣ピユシュ・ゴヤルによる発言)

 上記のような途上国側の訴えは、完全に正当な主張であり、不合理な点はいささかも見受けられない。

 いっぽうで、スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリに象徴される過激な「環境原理主義者」は、温暖化防止を絶対視しながら、脱炭素化の流れ(2050カーボンニュートラル)を、分析したり疑問を抱くことも許されない「それ以上遡れない第一義(irreducible primary)」とみなし、資本主義による経済成長こそが環境を破壊し、気候変動を引き起こしている最大の要因だと──唸るような憎しみを込めて──声高に非難する。

「あなたたちは空疎な言葉で、私の夢と子ども時代を奪い去った。でも私は運が良い方だ。人々は苦しみ、死にかけ、生態系全体が崩壊しかけている。私たちは大量絶滅に差し掛かっているのに、あなたたちが話すのはお金のことと、永遠の経済成長というおとぎ話だけ。よくもそんなことが言えますね!(How dare you!)」(グレタ・トゥーンベリによる国連気候行動サミットにおけるスピーチより抜粋)

 (ヨーロッパでもっとも経済的に裕福な国の人一倍裕福な家庭で、資本主義による恩恵を存分に享受しながら、貧困がもたらす苦しみを何一つ経験することなく育った)彼女曰く、右肩上がりの経済成長などまったくの「おとぎ話」にすぎず、いまや地球は死にかけており、生態系は大量絶滅に向かって一直線につき進んでいるのだから、化石燃料を使うことを止めるだけではなく、それを利用してきた経済システムそのものを止めるべきなのだと。
 畢竟、地球環境を守るためなら人間は産業革命以前の原始社会に戻ってしまえばいいという、こうした極端な「脱成長論」は、あたかも、瀕死の重病人に対して輸血をストップしろ、あるいは、健康になるためなら死んでもいいと言っているに等しいのではないか。
 なぜなら現在、世界の人口は80億人を突破し、産業革命期の人口の6.7倍になっており、たとえ脱成長をとげたとしても必然的に当時の6.7倍のエネルギー資源が必要であり、人類はそれを生産するためのシステムを維持しなければならないからだ。
 彼女は、人口が右肩上がりで増加しているのも「おとぎ話」だというのだろうか。

 気候変動と資本主義をめぐるこうした議論について、先日来日したヤロン・ブルック博士(米国アイン・ランド協会理事長)は、思想史家・経済学者の柿埜真吾氏とのトークイベントの冒頭で次のように語っていた──

「こうした議論のなかで完全に無視されていることがあります。
 それは、化石燃料にせよ、工業化にせよ、資本主義のシステムがこれまで人類にどれだけの恩恵を施してきたかということです。この非常に安価で効率のよいエネルギーをすべて止めて、風力や太陽光などの代替エネルギーに変えることのコストがどのくらいになのかという議論が抜け落ちています。
 もうひとつは資本主義の全般的なメリット、これによって人々の生活水準が上がり、豊かな生活、繁栄がもたらされてきたという事実に対して、それを置き換えるシステムがどれだけ生活水準を落とし、豊かさが犠牲になるのかという議論が抜け落ちているのです。
 資本主義というものは自由をもたらすものですから、それで何が犠牲になるのかというと、気候変動による甚大なる被害を避けるために資本主義を止めろということは「自由を犠牲にしろ」と言っているに等しいわけです。
 実は気候変動にかぎらず、国家主義、独裁主義の権力をもつ者たちは、さまざまな危機をでっち上げては、それによって自分たちの力を強くし、人々から自由を奪おうとしてきました。その意味では破滅的な気候変動というのは一つの例でしかありません。社会主義者のエリートたちは、こうした架空の危機を演出してはそれによって人々の自由を奪うということを今までずっとやってきたのです。
 ここでもし気候変動による危機が本当に破滅的で対処が必要なものだと仮定するならば、自由こそが私たちが奪われてはならないものであるはずです。そしてもし危機が本当に実在するとすれば、それにどう直面すればいいのかといえば、人々が自由に、創意工夫によって、起業家精神をもってそれに対処していける自由こそが大切なはずです。そして、もし危機が実在するならば、自由を尊重する資本主義のシステムこそが求められているはずです。資本主義というのは単にいいときだけのシステムではありません。困難に直面したときにそれを解決し、生活水準や豊かさ、富を守り、増やすためのシステムなのです」。(Evolving主催「気候変動と資本主義 資本主義の真実に迫る」(2022年9月17日)にて)

 アイン・ランドは、「個人の権利」が「小さな政府」によって守られる社会こそが健全であり、一人一人の個人が理性による合理的な判断で「自発的な交換」をすることで成り立つ資本主義こそ人類史上もっとも道徳的な社会システムであると説いた。
 かたや「利他主義」に染まった集産主義者たちは、「大きな政府」によって統制を強固にし、人々から「自由」を奪い、強制することでしか健全な社会はつくれないと考える。挙句の果てに気候変動を止めるためには脱成長政策と国家統制が必要なのだと主張し、「多様性」が大切だと謳いながら、脅迫的な言葉で自分の考え方を人々に押しつけ、主義・主張のちがう人間を徹底的に否定し抹消しようとする。

 そして脱成長論による「反-産業革命」を目論むリベラル派の環境原理主義者たちがなによりも敵視するのは、気候変動の要因だと彼らによって決めつけられている資本主義による経済活動である以上、必然的にその最大の擁護者たるアイン・ランドに怒りの矛先が向けられる。
 世の中に自分と異なる価値観をもつ人間が存在すること自体が許せないかれらは、ランド憎さのあまり──牙をむきだしながら──人間の意志(volition)は無力であり、人間は理性ではなく感情(feeling)によってしか物事を判断できないのだから、身をゆだねる(surrender)ことこそが最善の道であると唱えるようになるわけだ。まさしく『水源』に出てくるエルスワース・トゥーイーのように。

 アンビエント・ミュージック(環境音楽)の創始者であり、近年ではミュージシャン、プロデューサーとしてだけでなく、環境活動家、政治活動家としても知られるブライアン・イーノは、まさしく反アイン・ランド派の環境原理主義の急先鋒と言ってよいだろう。

 先月発売されたばかりのイーノの新作『FOREVERANDEVERNOMORE(永遠そして永遠の終わり)』は、「気候変動」がテーマだという。気候変動によって「永遠(に続くはずのもの)が永遠に終わる」、すなわち人類が絶滅するということをこのタイトルは示唆しているらしい。

 本作のセルフ・ライナーノーツで彼は次のように述べている──「他のみなさんと同じように──どうやら世界のほとんどの政府を除いて──私は狭まっていく不安定な未来について考えていて、この音楽はそうした考えから、より正確に言うならば、おそらく私がそれについて感じてきたこと……そしてその感情(feeling)から生まれたものです。私たちを取り巻く世界は目まぐるしく変化していき、そしてその大部分が永遠に消え去ろうとしています……だから、アルバム・タイトルにしたのです。
 このアルバムには、何を信じ、どう行動すべきかを伝えるプロパガンダ・ソングはありません。その代わりに、私自身が自分の感情を探っているのです」。

 イーノはまた最近のインタビューで次のように語っている──「アートの何がいいって、いつでもスイッチを切ることができるんだ(笑)。そこが大事なところだね。その場にいなくても世界が味わえる。その世界が気に入らなければ差し替えればいい。他に行きたいところがあるなら、ギャラリーを出ればいい、またはラジオやテレビを切ってしまえばいい。だからこそアートは有効なんだよ。そこからいつでも逃げ出せるとわかっているから、そのなかに身を任せる(surrender)ことができる。アートが身を委ねる場を与えてくれるわけだ。
 そして、人間は身を委ねるのが好きなんだと思う。自分たちの身に起きるいわゆる『超越的な行為』、つまりセックス、ドラッグ、アート、宗教というのは、全て身を委ねることと関係している。どれも『世界は自分を中心に回っている』という考えを手放すことに関係している。身を委ねることで、自分が世界の中心でなくなるかわりに、世界の一部となるんだ。誰もがその感覚を知っている。だからみんなセックス、ドラッグ、宗教、アートを通じて、それを探そうとしているのだと思う」。(ローリングストーン ジャパン「ブライアン・イーノが語る、ポストコロナ社会への提言とこれからの音楽体験」2021年1月4日配信)

 なるほど、彼の主張するように「人間は身を委ねるのが好き」なのだとしても、「セックス、ドラッグ、宗教」と「アート」を同列に論じるのはいかがなものか。「セックス」はさておくとしても、いったん「ドラッグ」や「宗教」にはまってしまえば、「スイッチを切ること」はきわめて困難である(「はまる」のは自由だが、「スイッチを切る」自由はない)ことは「理性」を備えた人間ならわかるはずだ。「意志」を放棄し、「降伏」(surrender)せよという考え方は、人民を無力化することで全体主義的な支配を目論む「エリート」の典型的な発想につながる。要するに、集産主義者である彼としては、世界は「個人」ではなく「集団」を中心に回っている──すなわち「個人」という概念など存在せず、あるのは「社会」だけだと言いたいわけだ。

 イーノが提唱する「オブリーク・ストラテジーズ」(実際に発案したのはイーノ本人ではなく、彼の友人で若くして亡くなった画家のピーター・シュミットだけれども)や、作者の「初期設定」に基づいて永遠に続く偶然性によって変化するという「ジェネラティヴ・ミュージック」の発想もまた、「意志」を放棄させ、偶然性に身を任せることを「強制」し、人間から本来的な「自由」を奪った上で、予測のつかない場所に連れて行こうとする、全体主義的な考え方と共通する考え方を含んでいるといえるが、そうした危うさにほとんどの人は気づいていない(もし作者の「初期設定」──すなわち、その「前提」──がまちがっていた場合、人はどこに連れていかれてしまうのだろうか?)。

 今やすっかり英国のリベラル左派の重鎮となった感のあるイーノだが、かつて、英国実験音楽の父といわれ、自身の師匠にもあたる作曲家コーネリアス・カーデュー(1936-1981)について、彼が後年、毛沢東、レーニン思想を支持し、極左グループに加わって、英国革命共産党を創設したことについて、「私の個人的な意見では、彼にとっての毛沢東主義は非常に大きな間違いであり、それは彼の音楽の価値を大変に引き下げてしまった」と語り、「音楽家が公然と政治的になった場合、彼らは必然的にあまりにも言葉に頼りすぎるようになり始め、これは実際には彼らの本来の使命を否定することになる」(エリック・タム著/小山景子訳『ブライアン・イーノ』、水声社、1994年、150頁)、というのがイーノの考えだったという。
 それが今や率先して「公然と政治的に」なり、自ら「本来の使命を否定」し、180度異なる意見を唱えるようになったという次第だが、「彼にとっての環境原理主義は非常に大きな間違いであり、それは彼の音楽の価値を大変に引き下げてしまった」(かつては純粋な思考が導く幾何学的精神に基づいて、輪郭のはっきりとした明晰な光にみちた透明感あふれる音楽をつくっていたのに、それが今や「輪郭が溶け出し、実体が互いに流れ込み、言葉が何かを意味しながら何かを否定し、色彩が物体なしに浮遊し、物体が重さなしに浮遊するような“神秘的な”濁りの様式」(ランド「芸術と生命感覚」)に堕してしまうようになったのだろうか)と指摘する者は(今のところ)誰もいないようだ。

 最近のインタビューで、彼は次のように資本主義の終焉を声高に唱えている──「私が一番願っているのは、我々がこの40年間生きてきた社会に象徴される資本主義社会の崩壊だ。いい加減終わりにしなければいけないし、これ以上長く維持するのは不可能だ……この40年間見てきた、資源採取の激しい無駄を数多く生む消費資本主義が、このようなパンデミックが起こる絶好の環境を生み出してしまった。もちろん他の環境問題もしかりだ……環境保護活動という、人類史上最大の社会変革運動が今起きていると信じている」(前掲ウェブサイトの記事より)

 地球温暖化もコロナ禍も(最近ではさらに移民問題もつけ加えて)、すべては資本主義のせいだと一方的に決めつけ、「資本主義社会の崩壊」を直ちに渇望しているように読めるこの物騒な発言は、ブルック博士が指摘するように、文脈の一部が抜け落ちている(context-dropping)ばかりか、そう断言するに足るいかなる根拠も代替案も示されていない。
 資本主義を「これ以上長く維持するのは不可能」であると断言するに足る因果関係を示さず、「人類史上最大の社会変革運動が今起きていると信じている」との発言は、ただ「感情的」に、資本主義が人類にもたらした経済的豊かさという事実を抹消したいと言っているに等しく、合理的な根拠もないままに、己の「信仰」を告白しているだけのことだ。
 1997年頃、インドと中国の両方で、人口の42%が「極度の貧困」(1日2ドル以下で生活する状態)に陥っていたが、2017年までに、極度の貧困率はインドで12%以下までに低下、中国では0.7%以下までに低下、合計7億7千万人が「極度の貧困」状態を脱したことは世界銀行が公表している統計データが示している事実だ。
 彼は、まさかこの変化が、環境保護活動などではなく、人類の貧困からの脱出という資本主義による「静かな革命」によってもたらされたという事実に思い至ることもあるまい。「今日、資本主義とは何か、どのように機能するのか、その実際の歴史はどうだったのかを知る人はほとんどいない」と言ったのはアイン・ランドだが、その事実を端的に示している症例のひとつだといえる。

 デンマークの政治経済学者ビョルン・ロンボルグは、その著書『誤った警鐘:気候変動パニックはいかにして数兆ドルのコストをもたらし、貧困層を傷つけ、地球を安定化させることに失敗するか』(False Alarm:How Climate Change Panic Costs Us Trillions, Hurts the Poor and Fails to Fix the Planet, Basic Books, 2020)のなかで次のように述べている──「我々は滅亡の瀬戸際にいるのではない。気候変動に関する悲観的なレトリックは、計測可能なあらゆる側面で人類の生活水準は歴史上最善な状態にあるという事実を覆い隠している。平均寿命も、一人当たりGDPも屋内大気汚染も単位面積当たり農作物生産量も大きく改善した。これは安価で安定的なエネルギーに支えられ、我々が豊かになったからこそ達成できたことである。この改善傾向は今後も続き、国連は2100年には平均所得は現在の450%になるだろうと予測している。気候変動が経済にマイナスの影響を及ぼすのは確かだが、様々な研究成果を見れば今世紀末までに気候変動がもたらすマイナス影響は4%と言われている。450%ではなく434%になるのは問題ではあるが、カタストロフではない。活動家やメディアのばらまく環境危機の扇動の影響で自分たちの将来に不安や絶望を感じている子供たちに対してはこのような情報こそ伝えねばならない」(有馬純訳)

 グレタやイーノような環境活動家たちの事実を無視した「感情的な」言動の根底にあるのは、柿埜真吾氏が『自由と成長の経済学「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠』(2021年、PHP新書)の中でいみじくも指摘しているように、今なお社会が産業革命以前のゼロサムゲーム的な「喰うか喰われるか(dog eat dog)」の法則に支配されており、誰かの得は誰かの損だと自動的にみなす「閉じた社会」の法則を前提とした誤謬にほかならない。
 柿埜氏によれば、「資本主義に反発する人の多くは、誰かの儲けは別の誰かの損であり、企業の得は労働者の損であると考えている」が、「自発的な取引は、誰かが得をすれば誰かが損をするゼロサムゲームではなく、当事者全員が利益を得ることが出来るプラスサムゲームなのである。この単純な発想こそ市場経済の基本となる原理であり、アダム・スミスの洞察の核心というべきもの」であり、「合理的な人間同士の取引において利害対立は起こり得ない」とするアイン・ランドの資本主義観もまた、それとまったく同じものだった。

 「全体のパイは一定だと考えられていた閉じた社会では、他人の取り分を減らす私的利益の追及こそ最大の悪であり、共通の目標に奉仕しない個人的行動は悪であった。
 これに対して、資本主義経済は、閉じた社会の部族道徳の直観とは完全に逆のルールを採用した仕組みである。資本主義経済の下では、競争的な市場を通じて部族社会や封建社会とは比較にならない大勢の人々がお互いに知り合うことさえなしに協力している。人々を集団全体の共通目標に従わせる必要はないし、集団全体の状況を把握している必要さえない。(……)
(古代社会においては)経済活動自体が下劣で卑しい行為と見なされ、宗教や戦争等全体の共通の目的に奉仕すると考えられた活動の方が遥かに重んじられていた。ゼロサムゲームの思想は戦争賛美の哲学である。ゼロサム的発想からすれば、「我々」ではない「やつら」外国人を掠奪して富を得ることは、共同体の富を増やす唯一の方法だからである」。(柿埜、2021)

 「人は、人間社会のなかで生きることによって、私的な利益を得ることができるでしょうか。できます──もしそれが人間らしい社会であるならば。社会的存在から得られる二つの大きな価値、それは知識と取引です。人間は、知識を世代から世代へと伝え、拡大することができる唯一の種なのです。人間が潜在的に利用できる知識は、一人の人間が一生のあいだに獲得できる知識よりも大きいのです。すべての人間は、他人が発見した知識から計り知れない利益を得ています。第二の大きな利益は、分業することにあります。これにより、人間は特定の分野の仕事に努力を傾け、他の分野を専門とする人たちと取引をすることができます。こうした協力形態により、そこに参加するすべての人は、無人島や自給自足の農場で、各々が必要なものをすべて生産しなければならない場合に比べて、より大きな知識、技術、生産性を獲得することができるのです」。(アイン・ランド「客観主義の倫理学」(1961)、『自己本位の美徳──エゴイズムの新たなる概念』(邦訳『セルフィッシュネス 自分の価値を実現する』Evolving、2021)所収)

 とはいえ、資本主義を否定するイーノのような主張を支持するか否かは人それぞれだと思うし、いずれにしても政治的な立場と芸術とは本質的に無関係だと考えていたのだが、今回の新作にこれまでの作品とは異なる違和感をおぼえたついでに、あらためてブライアン・イーノという、左翼ジャーナリストや、頭の悪い(言い換えれば、他人の意見を尊重するばかりで自分で思考する能力のない)音楽評論家が盲目的に崇め奉る「知的権威」の正体をみつめなおす必要があるように思えてきた(ただし、誤解のないように申し添えておくが、彼の並はずれた芸術的才能を貶めるつもりは毛頭ない)。

 彼は昨年、ギリシャのアクロポリスで、山火事の灰が降り注ぐ中でステージ演奏をしたという。そのときの印象を「気温は45℃まで上がり、本当に恐ろしい状態でした。ライブ本番の頃には36℃くらいまで下がり、なんとか耐えられるくらいになりましたが、ステージへ灰が降ってきました。我々はここ、西洋文明の発祥の地にいますが、おそらくその終焉を目撃していると思いました」とコメントしている。

 そう「思い込む」のは当人の勝手とはいえ、独裁者が引き起こす核戦争や致死性をもったウイルスの蔓延によって人類が絶滅すると主張するのならまだしも、たまさか山火事に遭遇したくらいで、それを文明の終焉に喩えるのは、いささか誇張がすぎるのではないか。目の前の暫時に起きた偶発的な出来事を拡大解釈して一般論に変換しようとする、こうした半妄想的で根拠のない主張は、資本主義からの脱却を声高に訴えるスウェーデンの少女と共通する、環境原理主義者の自己正当化のための典型的な詭弁に聞こえる。

 経済産業省で大臣官房審議官として地球環境問題を担当し、これまでCOPに15回出席している有馬純氏(現・東京大学公共政策大学院特任教授)は、著書『亡国の環境原理主義』(エネルギーフォーラム刊)のなかで、次のように述べている。「環境活動家は、異常気象のみならず、パンデミックや難民、戦争までも地球温暖化が原因であると主張し、人々の恐怖心を養分にしているメディアもそういう議論を後押しします。そうすれば、地球温暖化による直接・間接の被害額はいくらでも積み上がり、『再生可能エネルギー100%』など自分たちの主張している施策が高コストであっても、地球温暖化による損害に比べれば安いものだということになります。地球温暖化の科学的解明を目的に設置された国連のIPCCは、『1.5℃、2050年カーボンニュートラルが達成できなければ人類は滅亡する」などとは一言もいっていません」。

 有馬氏同様、温暖化自体を否定するつもりはないが、柿埜真吾氏が前掲書のなかで指摘しているとおり、実際の気象災害による死者数は、1920年代から現在までに、約99パーセントまで減少しており、社会全体が豊かになることによって、医療や安全が確保され、こういった問題というのはむしろ減っているというのが事実である。そうした事実を無視して、それによって山火事が多発したり、海面が数センチ上昇するだけで地球が滅び、人類が絶滅すると主張するのは、科学的なデータや因果関係を無視した神秘主義者のたわごとに近いものと考えてよい。IPCC(国連気候変動に関する政府間パネル)の報告書の執筆者の一人であり、人為的な地球温暖化の証拠のひとつとされるホッケースティック曲線を提示した古気候学者のマイケル・マン博士ですらも、気候変動による人類絶滅を主張する者は「終末論カルトの英雄」だと小バカにしているという。

 英国がブレグジットをめぐって揺れ動いていた頃、イーノは残留を呼びかけるメッセージを発表し、離脱支持派を扇動しようとしていた。たしかにEUという共産主義的な超国家体制は、個人ではなく社会にとっての「正義」を掲げて、個人の自由や権利をできるかぎり束縛し、「集団」に帰属させることで最終的に全体主義体制を確立したい英国の左翼知識人たちにとっては誠に都合のいい隠れ蓑になっていたといわれているので、実際に離脱が決まったときは、さぞかしがっかりしたことだろう。それに伴うかのように、この頃から発表する作品は沈鬱なトーンに支配されるようになり、穏やかな微笑(イーノはかつて「私は人並外れて写真映りがいいのだ」と自慢していた)の裏にある、危険な環境原理主義者としての彼の「素顔」が顕著になっていったようだ。

 かくして当然ながらというか、案の定というか、「終末論カルトの英雄」たるイーノ先生にとって、他の誰よりも現在の彼を苛立たせるのが資本主義の最大の擁護者たるアイン・ランドにほかならないようで、彼はインタビューや講演でことあるごとに彼女を槍玉にあげては資本主義批判を繰り返している。

 思わず失笑を禁じ得ないとはいえ、ランド用語でいえば「心理認識論的」(Psycho-Epistemological)に興味をそそられる珍妙きわまりない発言なので、いくつか紹介してみよう──

「この35年かそこらの間、私たちは経済的なイデオロギーにとらわれています。新自由主義とも言われますが、リバタリアニズムとも言われますし、客観主義と言われることもあります。(中略)イギリスの元首相のマーガレット・サッチャーは、「社会というものはありません。あるのは個人と家庭だけです」と言いました。多くの自由主義者をインスパイアした作家アイン・ランドは、利他主義は邪悪だと明言しました。これらの哲学は、アンチ共産主義であり、経済至上主義にもとづいた全体主義でまとめようとしています。
 また、恐れの感情から生まれた哲学です。彼らが恐れていることの一部に、共産主義の成功もあったでしょう。社会主義と共産主義は、不平等や貧富の差といった、資本主義者にとって都合の良くない疑問を抱いていたからです。サッチャーとアインの思想は、現在もイギリス政府に影響を与え続け、他の国会議員も同じ思想を持っています。」(FUZE「【Sonar 2016】「遊びとは何か?」ブライアン・イーノ、文化の社会的な役割について語る」(2016年8月27日配信)

「非文明化に向けたこの一連の変化は、社会的寛容を嘲笑い、一種の正当な利己主義を擁護していたあるイデオロギーから生じた。(サッチャー元首相曰く「貧困に陥るのは人格に欠陥があるから」。アイン・ランド曰く「利他主義は有害である」)。抑制なき個人主義を重要視することには、二つの作用があった。一つが莫大な富の創出。もう一つがその富の、より少数の者への集中化だ。現在、全世界の上位62人の富豪が所有する資産が、下位50%の人々の全資産の合計を上回っている。こういった富はいずれ全て“トリクルダウン”(=滴り落ち)し、残りの人々全てを経済的に潤すことになるだろうという、サッチャー・レーガン体制の幻想は実現していない。実際には、その逆の現象が起きているのだ。」(ビルボードJapan「ブライアン・イーノ 新年に向けてのメッセージを公開! 社会問題に言及しながら2017年の可能性を語る」(2017年1月6日配信)

「サッチャーやレーガンの時代から40年にわたって衰退が続いていたんだ。アイン・ランドの思想は政治レベルにまで浸透し、おそらく僕らは底を打ったんだよ。EU離脱に対する僕の感情というのは誰かに対する怒りじゃなく、何が起きているのか理解していなかった自分に対する怒りなんだ。イギリス独立党や国民戦線の人々というのは幻想だと思ってた。けれど、その後、思ったのは『クソ、自分たちのほうじゃないか。幻想だったのは自分たちだ。それに気付いていなかった』ってことだった。(中略)上位62人の富豪が所有する資産が下位35億人の資産と一緒なんだよ。わずか62人っていうね! 血塗られた1台のバスに彼らを乗せて……衝突させてみればいい」。(NME Japan「ブライアン・イーノ、ドナルド・トランプが大統領であることはチャンスだと語る」(2017年1月24日配信)

「リバタリアンにあふれたこの世界では、自分に利益をもたらすものなら、それは世界全体にとっても「正しい」と自動的に考える人が普通にいますからね。(中略)世の中には国家の力が及ばないところで活動したいと強く感じる人がいて、暗号通貨関連のエネルギーのほとんどは、そういった人たちから出てきています。要するに、民主的な管理やコミュニティの管理といったものは一切嫌だと考える人たちのことです。アイン・ランドは、「10代のためのニーチェの毒」といえますが、あのアイン・ランドの常軌を逸した思想を、お金の哲学として祀るべきだという考えがあることに私は恐怖を感じます。でも、実際のところを言うと、私はリバタリアンたちが何を成し遂げたのか、まだよくわからないのです。もしかしたら私にはわからないというだけのことなのかもしれませんけれどね。」(クーリエ・ジャポン「ブライアン・イーノ『NFTのせいで、アーティストまで資本主義のチンケなクソ野郎になってしまう』」2022年2月14日配信)

「政治はもうどうでもよくて、テクノロジーこそが政治になって未来をつくると、みんな思っていました。それはアイン・ランド──10代の若者向けのニーチェのような存在と言えるでしょう──の恐ろしい個人主義や、意志の力こそが地球上で最も強い力である、という考えと関連しているのです。でも、そんなことはない、と言ってあげたいですね。」(WIRED「ブライアン・イーノ、気候変動危機と“ディープフェイクの鳥”について語る」2022年10月15日配信)

 客観主義の何たるかをまるで理解しないままに、自分がさも知的権威者であるかのようにふるまい、エラソーに戯言をホザくばかりの、こうした出鱈目な発言に対しては──グレタの演説のように──「よくもまあそんなことを……」と「言ってあげたい」のは山々だが、思考能力に重度の障害を抱えた左翼知識人による思わず目を覆いたくなるようなとんちんかんなアイン・ランド批判は今にはじまったことではないので、これらの発言自体は特に驚くに値しない。それよりも、いまだにアカデミズムの世界ではまったく相手にされていない異端の哲学者であるランドを、繰り返し名指しで非難し、あたかも巨悪の根源であるかのように誇張して、感情的な言葉で糾弾する、その「常軌を逸した」執着ぶりには驚くという以上に呆れるほかはない。
 すでに10年近くにわたって拘泥し続けているということは、心理認識論的(psycho-epistemological)に、よほど彼の「感情」のなかで、彼女に対するわだかまりが大きな場所を占めていると分析できるが、相手を本気で批判したいのなら、毎回付け焼刃の常套句に頼るのではなく、その対象をきちんと知った上で論理的な根拠を提示しながら発言すべきだろう。
 これらの発言は批判というより、ランドに悪しきレッテルを貼ることによって感情的に罵倒しているにすぎず──まあ本気で議論する必要もないと思っているのかもしれないが──この程度なら、ポール・クルーグマンが言っていた誹謗中傷のほうがまだ皮肉が効いていた(『指輪物語』のファンに対してあまりにも失礼だとは思ったが(笑))。
 ちなみにイーノは「10代のためのニーチェの毒」という侮蔑的表現を何度も繰り返し使っているので、当人としては、気の利いた殺し文句だと考えているようだが、これはおそらくウィキペディアにも引用されているアラン・ブルームによる『水源』評「少々エキセントリックな若者を刺激して生き方を変えさせるニーチェ風の独断を散りばめた小説」という古びた表現の剽窃(concept-stealing)にちがいあるまい。
 ところが生憎、ランド哲学の基盤となっているのは、ニーチェではなくアリストテレスであり、彼女は、「私はすべての基本的な点においてニーチェに強く反対する」、「私はいかなる点でもニーチェと混同されたくはない」とインタビューで語っており、「アポロとディオニュソス」と題した講演においても、ニーチェは、ディオニュソス的な酩酊のなかに「個人」を埋没させることを唱えているがゆえに、「表面的にニーチェを読んで、彼が個人主義の擁護者だと受けとめている人は、よく注意してください」と警告している(註1)。
 『水源』25周年版の序文においても、ニーチェは「神秘主義者であり、非合理主義者である」と容赦なく断じ、「彼の認識論は、理性を「意思」や感情、本能や血、あるいは生得的な性質の美徳に従属させている」がゆえに、「その哲学には重大な意見の相違がある」とはっきりと述べているので、両者を混同する事自体、完全な誤解であり、そうした発言はすべて、勘ちがいも甚だしいというほかはなく、彼女の哲学(しかもそのもっとも根幹にある形而上学と認識論)について何もわかっていないと告白しているに等しい(せめて「10代のためのオルテガ・イ・ガセット」というのなら、ある程度、近しい部分を突いているともいえるのだが、それはまた別の話……)。

 イーノという見かけだおしの「知的権威」(?)の言葉にひれ伏し、自らの「理性」を放棄して、そんな口車に乗ってしまう人もいるのかもしれないが、じつを言えば、かのヤロン・ブルック氏でさえ、「残念ながらアイン・ランド哲学は、アメリカ社会全般、特に政治の分野においては、非常に限られた影響しか与えていません」「オブジェクティビズムはまだ新しい哲学で、ほとんど世の中に知られていません。オブジェクティビズム哲学が政府の仕組みの中に導入されている事例はまだありません」と明確に語っており、実際は米国ですらその程度なのに、米国以上に社会主義的教義が根深く浸透している英国(ランドは、英国を明白な「社会主義国家」とみなしていた)において、「アインの思想は、現在もイギリス政府に影響を与え続け、他の国会議員も同じ思想を持っている」という戯言など、いささかの説得力ももちえない 
 そもそも「リバタリアニズム」と「オブジェクティビズム」を同一視している時点で、「アインの思想」とは何なのか、まるで理解していないことを正直に告白しているようなものだが、それについては後述する。

 上記のイーノの発言にみられるような誇大妄想じみた不合理な主張には、ある種の「認知バイアス」がかかったネガティブな過大評価が含まれていることは言うまでもないが、ここまでくると自己催眠による被害妄想に囚われているのではないかと疑いたくもなる。もはや「感情」というより、単なる思いつきに基づいた意見を気まぐれに述べているだけにもみえ、ひょっとすると高齢ゆえに認知症の疑いがあるのではないかと心配になるファンがいたとしてもおかしくはない。

 先述の有馬氏も前掲書のなかで紹介しているが、なぜ本来賢い人が、いかなる科学的根拠もなく、単なる「思い込み」によって、かような虚妄と偏見にみちた主張を堂々と行うようになってしまうのかという理由について、スウェーデンの医師で公衆衛生学者だった故ハンス・ロスリング(イーノと同じ1948年生まれ)は、世界的なベストセラーとなった著書『FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』(日経BP刊)のなかで、次のような「10の本能」を挙げている。

 1.分断本能:「世界は分断されている」」という思い込み
 2.ネガティブ本能:「世界がどんどん悪くなっている」という思い込み
 3.直線本能:「ものごとが一直線で進む」という思い込み
 4.恐怖本能:実は危険でないことを「恐ろしい」と考えてしまう思い込み
 5.過大視本能:「目の前の数字が一番重要」という思い込み
 6.パターン化本能:「ひとつの例にすべてがあてはまる」という思い込み
 7.宿命本能:「すべてはあらかじめ決まっている」という思い込み
 8.単純化本能:「世界はひとつの切り口で理解できる」という思い込み
 9.犯人捜し本能:「誰かを責めれば物事は解決する」という思い込み
 10.焦り本能:「いますぐ手を打たないと大変なことになる」という思い込み

 要するに、グレタやイーノは、これらの「思い込み」によって「人類絶滅」を主張していると考えていいだろう。
 たとえば、「1.分断本能(世界は「金持ちグループ」と「貧乏グループ」によって分断されている)」、「2.ネガティブ本能(資本主義によって世界はどんどん悪くなっている)」、「3.直線本能(温暖化効果ガスによって地球の気温は’ひたすら’上昇し続ける)、「4.恐怖本能(脱炭素を推進しない限りすべての生態系が絶滅する:アイン・ランドの「常軌を逸した」お金の哲学には恐怖を感じる」、「5.過大視本能(世界はリバタリアンにあふれており、彼らが信奉するアイン・ランドの思想は、現在もイギリス政府に影響を与え続け、他の国会議員も同じ思想を持っている:もしくは、米国の前トランプ政権と深い関りをもっている)、「6.パターン化本能(ギリシアで起こった山火事は、文明発祥の地で文明が終る前兆だ)」、「7.宿命本能(人間は、母なる自然の前ではちっぽけな虫けら同然であり、他愛ないおしゃべりの雲に包まれたままこの世からきえていくだけの存在である)、「8.単純化本能(新自由主義とリバタリアニズムと客観主義はすべて同じ思想だ:アイン・ランドなんてアホな10代向けのニーチェもどきの幼稚で愚劣な思想家にすぎない)、そして、「9.犯人捜し本能(利他主義を邪悪なものだと明言したサッチャーやアイン・ランドを責めれば物事は解決する)」、「10.焦り本能(アイン・ランドが擁護した資本主義社会を今すぐ終わらせないと人類は滅亡する)……等々。

 これらすべては幻想以外のなにものでもない。そもそもアイン・ランドの哲学は、「ニーチェ」とも「リバタリアニズム」とも、「サッチャー政権」や「トランプ政権」とも、ましてや「ギリシアの山火事」とも本質的にはいかなる関係もない。

 じっさいランドは、「リバタリアンと私の哲学はまったく関係ありません。彼らは資本主義の擁護者ではありません。リバタリアニズムよりも共産主義のほうがまだましです。リバタリアンに投票するくらいなら、私は、ボブ・ホープか、マルクス兄弟か、ジェリー・ルイス(!)に投票します」、「今日の世界の問題は哲学的なものです。正しい哲学だけが私たちを救うことができるのです。しかし、この党は私のアイデアのいくつかを盗用し、それらを私の哲学とは正反対の宗教家、アナーキスト、および彼らが見つけることができるすべての知的不適合者やクズインテリと混ぜ合わせ、自らをリバタリアンと称して立候補した、悪辣で反吐が出るような連中です」とまで断言し、形而上学、認識論、倫理学を否定(美学にいたっては放擲)しながら、ランドが最初に提唱した政治的立場の都合のいいところだけを剽窃・改ざんし、それを支える哲学的基盤をもたない「リバタリアニズム」という、薄汚い政治思想を心底毛嫌いし、「敵視」していた。(リバタリアンを「敵視」する姿勢は最晩年に至るまでいっさい変わらず、1980年に友人に宛てた手紙のなかでも、「リバタリアンを私と関連づけるのは間違いです。彼らは私の「敵」であり、時折、私の哲学を盗用しようとする以外、いかなる関係もありません」と明言している。)

 彼女は1971年のインタビューで、「リバタリアン運動についてどう思いますか?」と聞かれ、次のように答えている──「今日、あらゆる人々が“リバタリアン”を自称し、特に“新右翼”と名乗る連中は、左翼的な集産主義者ではなく、アナーキストであるヒッピーたちから構成されています。資本主義は絶対的な客観的法律を必要とするシステムなのに、リバタリアンは資本主義とアナーキズムを組み合わせているのです。それは新左翼が提案したどんなものよりもひどいものです。哲学やイデオロギーを馬鹿にしているのです。彼らはスローガンを掲げて、二つの流行に乗ろうとしています。彼らはヒッピーになりたいくせに、集産主義を説きたくはないのです。なぜなら、そのような仕事はすでに奪われているからです。しかし、アナーキズムは集産主義の反知性的側面から論理的に生まれたものです。私はマルクス主義者となら、何らかの理解に達する可能性が高く、より大きな敬意をもって接することができます。アナーキストは、左派の知的世界のクズであり、左派は彼らを見放しました。それで右派はまた左派の捨て駒を拾うわけです。それがリバタリアン運動なるものにほかなりません」。

 また、1974年の「平等主義とインレーション」と題した講演の質疑応答で、「リバタリアンたちはあなたのような政治を標榜しているのに、なぜリバタリアン党に反対するのですか?」という質問に対して、「彼らは資本主義の擁護者ではありません。彼らは、キャンペーンができないからといって、早々と政治の世界に飛び込んだ売名集団なのです。さらに、彼らのリーダーは、宗教保守派から無政府主義者まで、あらゆる宗派の人間で構成されています。そのほとんどが私の敵であり、私のアイデアを盗用しながら、私を非難することに時間を費やしているのです。今、資本主義を支持するとされる政党が、アイデアを盗むことから始めるのは悪しき兆候以外のなにものでもありません」と答えている。

 何も知らないどこかの馬鹿の浅はかな発言を真に受けて、アイン・ランドは「リバタリアニズムの源流である」と思い込んでいる人も少なからずいると思うが、両者は“根本的に”まったく異なる思想であり、こうして本人も完全に否定している以上、そこに関連性を求める者は自分勝手な幻想に囚われていると言わざるを得ない。ランド好みの表現を借りれば、それが「現実の事実 Fact of Reality」であり、本人が「リバタリアン」より「マルクス主義者」のほうがまだましだと明言しているのに、そうした「現実の事実」を無視して、勝手にリバタリアニズムと関連付けてアイン・ランドを語りたがる者は、単に自分が彼女が提唱した哲学をなにもわかっていない(あるいは拒絶している)ことを正直に告白しているにすぎず、自分が妄想に囚われた非合理主義者であるとおおっぴらに表明していることに気づいていないだけだ。

 「哲学に関する素人の過ちの原因は──その前提条件を否定しておきながら、長いひと続きの思考の最終結果を所与のものと捉え、それを「自明の理」またはそれ以上遡れない第一原理とみなしてしまうことにあります。身近なところでは、特に政治の世界でその例がみられます。個人の自由を守るために、その根源である個人の権利を否定するリベラル派がいます。資本主義を標榜しながら、その根本である理性を攻撃する宗教的保守派がいます。また、形而上学、認識論、倫理学を否定しながら、客観主義の政治的立場を盗用している「リバタリアン」もいます」。(「哲学的探偵術」、1974年)

 もちろん、このような態度は哲学に限ったことではなく、もっとも単純な例は、「たかが電気のために、環境を汚染してはならない。だから、たとえ電気料金が今の30倍になっても(リッチな自分は)まったくかまわないので、電力会社が壊滅するまで脱原発を推進し、再エネに転換するべきだ」と叫ぶ輩だろう。

 ロスリングによれば、もともと頭のいい人ほどこうした「本能」に囚われやすいとのことだが、じつはこの種の暗黙の「思い込み」による心理メカニズムを(認知心理学という学問が確立する以前に)詳細に解き明かしたのもランドだった。ランドはその研究(潜在意識の自動機能と、意識的な思考との相互作用の側面からみた人間の認知プロセスの考察)を、心理学と認識論を組み合わせた「心理認識論」(psycho-epistemology)という独自の用語で呼び(実際に命名したのはランド本人ではなく、彼女の弟子で、大学で心理学を専攻したバーバラ・ブランデンだけれども)、さまざまな哲学的著作のなかでこの概念を頻繁に用いて、人間の認知作用がもたらす結果の不確実性・危険性について論じている。

 潜在意識とは、統合するメカニズムです。人間の意識は自分の経験を観察し、その間のつながりを構築します。そして潜在意識はそのつながりを統合し、自動化します。たとえば、歩くというスキルは何度も試行錯誤を繰り返した後、筋肉の動きを制御する無数の結合が自動化されることによって習得されます。いったん歩くことを覚えれば、幼児は姿勢やバランス、一歩の長さなどの問題を意識する必要はありません──歩くことを決めただけで、統合された全体を自分のコントロール下に置くことができるようになります。

 頭脳の認知的な発達は自動化のプロセスの連続です。たとえば、あなたはテーブルを──四本の足を持つ不思議な物体として──赤ん坊のように認識することはできません。テーブルとは、すなわち人間が作った家具のひとつであり、人間の住む場所で一定の役割を果たしているものである等と認識しており、これらの属性をテーブルの見た目から切り離すことはできず、ひとつの不可分な知覚として経験します。しかしあなたが見ているのは四本脚の物体だけであり、それ以外はかつて少しずつ学ばなければならなかった膨大な量の概念的知識が自動的に統合されたものなのです。大人になると、何もないところで知覚や経験をすることはできず、ある自動化された文脈のなかでそれを行うことになります──そしてあなたの知的操作の効率性は、あなたの潜在意識がどのような文脈を自動化したかで決まります。(……)

 概念を形成し、統合し、使用するプロセスは自動的なものではなく、意志的なプロセス──すなわち、新しい材料と自動化された材料の両方を使いながら、みずからに指示するプロセスです。それは生まれつきのものではなく、後天的なものであり、学ばなければならないものです──それは、人間の学びにおいてもっとも重要な部分であり──人間の他のすべてのスキルは、それをいかに適切に学ぶか、あるいはいかに不適切に学んでしまうかにかかっています。

 このスキルはある年齢における知識の特有の内容に関係するのではなく、知識を獲得し整理する方法──頭脳がその内容を扱う方法に関係しています。この方法は、その人の潜在意識のコンピュータをプログラムし、その認知プロセスがどれだけ効率的に機能するか、不完全あるいは壊滅的な状態で機能するかを決定します。人間の潜在意識のプログラミングは、獲得する認知的習慣の種類で構成されており、それらの習慣がその人の心理認識論を構成するのです。(アイン・ランド「コンプラチコス」(1970)、『新左翼(原始への退行):反産業革命』(未邦訳)1971、所収)

 もっともイーノに限らず、左翼知識人にとってアイン・ランドの考え方とは、自らの思想的基盤を根底から否定されているようなものなので、その存在自体を「抹消」しようと躍起になるのも無理はないともいえるが、「上位62人の富豪」を敵視するあまり、「血塗られた1台のバスに彼らを乗せて……衝突させてみればいい」というのは、さすがに知識人としてあるまじき発言ではなかろうか。本人としては冗談半分で言ったつもりだろうが、社会的影響力をもつ人物によるこうした発言は単なるジョークではすまされない。じっさいのところ、思わず“心理認識論的に”「本音」を吐露してしまったとみなして差し支えあるまい。このような発言をした以上、イーノは、その時点で(アーティストとしてはともかく)言論人としてもはや「終わった」とみなしてよいであろう。

 現実に「上位62人の富豪」がある日突然いなくなったら世界がどうなるかは、『肩をすくめるアトラス』を読んだ人ならよくわかっているはずだ。
 『アトラス』が発表された1957年当時、批評家グランヴィル・ヒックスは、左翼系メディア『ニューヨーク・タイムズ』で同書を酷評し、「おそらく自分と多少の善良な知人たちを除く全人類が一掃されるなんていうのもいい考えだと感じる瞬間が私たちの大半にある。しかしこうした気分を、14年かけて1168ページも書いた著作全体をとおして保持し続ける人物(アイン・ランド)にはあきれ返る」と書いた。
 経済学博士の村井明彦氏は著書『グリーンスパンの隠し絵』のなかで、このヒックスの批評に触れ、「そんな瞬間があるとの告白は、ただ書き手の精神的荒廃ぶりを伝えるのみ」だと断じ、「非難の筆致もどこか感情に流された色合が濃く、冷静な感想というよりは勝手な連想を書き連ねた」ものであり、「批評の域を超えている」とみなしていた。
 日本でも、故安倍晋三元首相に向かって「お前は人間じゃない、叩き斬ってやる」と絶叫したり、安倍氏の辞任に同情を寄せた、ある国民的大物歌手に対して「夭折すべきだったね(……)早く死んだほうがいい」と公言する左翼政治学者(いずれも有名大学で教授職に就く人物である)がいたそうだが、自分と価値観の異なる人間は、そもそも人間ではないので、どんなに暴力的な言葉を使って侮辱してもかまわないし、たとえその命を奪ったところで何の問題もないと考えるのが、左翼アーティストや左翼知識人(ランド用語でいえば「呪術師」(The Witch Doctor)もしくは「精神の神秘家」(The Mystics of Spirit))、全体主義国家や原始部族社会の独裁者(ランド用語でいえば「アッチラ」(Attila)もしくは「腕力の神秘家」(The Mystics of Muscle))の醜悪で卑猥なおぞましい本性(nature)なのかもしれない(20世紀に共産主義者によって殺された人間は一億人を超えると言われる)。

 結局のところ、イーノやトマ・ピケティやスラヴォイ・ジジェクや斎藤幸平のようなマルクス主義・集産主義・利他主義の教義を──それ以上遡れない第一義(irreducible primary)として──「信仰」し、資本主義の撲滅を唱導する「現代の教師たち」は、「上位62人の富豪」の資産が人類にどのような恩恵をもたらしているか、その因果関係の本質がまるでわかっていない。ひょっとすると彼らの莫大な資産が自分たちに自動的に分配されることを一方的に願っているのかもしれないが、そうなればもはや搾取というより強奪であり、そもそもそのようなことは原始共産主義の部族社会ならともかく、資本主義社会ではけっして許されることはなく、ただその発言者の「精神的荒廃ぶりを伝えるのみ」だ。

 『肩をすくめるアトラス』のなかで、ランドは、巨大産業を生み出す革新的なイノベーターである主人公ジョン・ゴールトの口を借りて、次のように述べている──
 

 生まれてきたすべての人間は労働することなく存在する権利があり、それに反する現実の法則にもかかわらず、「最低限の糧」──食事、衣服、住居を──自分の努力なくして、当然の権利として受けとる権利があるとかれらは宣言する。受けとる──誰から? 抹消。人はみな、この世に創造された技術的恩恵の平等な分け前にあずかるとかれらは発表する。創造された──誰によって? 抹消。実業家の擁護者を気取る狂信的な臆病者たちが、今や経済学の目的を「人間の無限の願望と、限りある数量で供給される商品とのあいだの調整」と定義する。供給する──誰が? 抹消。大学教授を装ったインテリやくざたちが、過去の思想家たちの社会理論は、人間が合理的な存在であるという非実用的な前提に基づいていると宣言して受け流すが──人間は合理的な存在ではないので、非合理でありながら、つまり、現実に逆らいながら存在することを可能にするシステムが確立されるべきだと宣言する。可能にする──誰が? 抹消。どこかの血迷った凡人たちが、人間の生産をコントロールする計画を企む印刷物をバラ撒き、誰もがその統計に賛成したり反対したりはするものの、計画を銃で強制する権利に疑問を抱く者は誰もいない。強制する──誰に? 抹消。わけのわからぬ収入を得ているどこの馬の骨ともしれない小娘がちゃらちゃらと世界中を飛び回り、後進国の人々がより高い生活水準を要求しているというメッセージを携えて帰ってくる。要求する──誰に対して? 抹消。(中略)

 いかなるときであろうと、人が因果関係に反抗するとき、その動機は、それから逃れたいという願望以上に悪しきことに、因果関係を逆転させたいという詐欺的な願望にある。諸君は、愛という結果が、あたかも原因としての個人的価値を与えてくれるかのように、得るに値しない愛を求め──賞賛という結果があたかも原因としての美徳を与えてくれるかのように、不相応な賞賛を求め──結果である富があたかも原因としての能力を与えてくれるかのように、稼がざる富を求め、慈悲を、正義ではなく慈悲を懇願する。その上、自分の見苦しい卑小ないんちきを満足させるために、消費という結果が原因となって富を生み、機械という結果が原因となって知性を生み、性的欲望という結果が原因となって哲学的価値観を生むのだと声高に唱えながら、鼻息荒く暴走する教師たちの教義を支持しているのだ。

 この乱痴気騒ぎのツケは誰が払うのか? 因果なきことの原因をつくるのは誰なのか? その苦悩が諸君の「存在しないふり」の邪魔をしないように、気づかれないまま、黙って死ぬことを宣告された犠牲者は誰なのか? 我々だ、頭脳の人間たる我々だ。

 我々は諸君が切望するすべての価値の原因であり、同一性を定義し、因果のつながりを発見するプロセス、すなわち思考のプロセスを実行するのも我々だ。諸君に知ること、話すこと、生産すること、欲望すること、愛することを教えたのも我々なのだ。理性を放棄せし者たる諸君は──理性を保持せる者たる我々がいなければ、自分の願いを叶えることはおろか思い描くことすらできなかっただろう。作られなかった服を、発明されなかった自動車を、存在しない商品の交換手段としての考案されていないお金を、何も成し遂げなかった人間にふさわしくない賞賛を、考える能力、選択する能力、価値を保つ人だけに属し、関係する愛と交換することもできないだろう。

 諸君──感情のジャングルから我々のニューヨークの五番街に未開人のごとく躍り出て、電灯を維持したいのに、発電機を破壊したいと宣言する諸君よ──それは諸君が破壊しながら使う我々の富であり、諸君が非難しながら使う我々の価値であり、諸君が思考を否定しながら使う我々の言葉だ。(中略)

 そうしたなか、我々は鎖につながれ、罪人としての身分すら認めようとしない未開人に生産を命じられ──我々の存在を認めないと宣言する未開人によって、我々が生産してはならないという物資を提供しなければ、我々のものではないという生命を奪うと脅されている。そうしたなか、我々は鉄道を走らせつづけ、大陸横断列車の到着時刻を分単位で知ることを期待され、製鉄所を稼働しつづけ、橋のケーブルや空中で諸君を支える航空機の機体に使われている金属のあらゆる粒子の分子構造を知ることを求められるいっぽう──グロテスクで卑小な腕力の神秘主義者たちの部族は、原理も、絶対性も、知識も、思考も存在しないと非言語的な声でまくしたて、我々の世界の亡骸をめぐって抗争を繰り広げている。

 いまや己の発する魔法の呪文に現実を超えた力があると信ずる未開人以下のレベルまで堕ちた者どもは、己の発しない言葉の力によって現実を変えられると信じており──その魔法の道具とは、抹消、すなわち識別を拒否するいにしえのまじないによって、いかなるものも存在し得ないというふりをすることだ。

 肉体において盗んだ富を餌食にするように、かれらは精神において盗んだ概念を餌食にし、正直とは、自分が盗んだという事実を知ることの拒絶だと宣言する。原因を否定しながら結果を利用するように、奴らは自分たちが使っている概念の根源と存在を否定しながら、我々の概念を利用する。工業プラントを建設するのではなく、それを乗っ取ることを求めるように、かれらは思考するのではなく、人間の思考を乗っ取ることを求める。

 工場を経営するための唯一の要件は機械の取っ手を回す能力であると宣言し、その工場を作ったのは誰なのかという疑問を抹消するように──かれらは実体など存在せず、運動のほかには何もないと宣言し、運動とは動く物体を前提にしており、実体の概念なしに「運動」という概念はあり得ないという事実を抹消する。稼がざるものを消費する権利を宣言し、誰がそれを生産するのかという問題を抹消するように──同一律など存在せず、変化のほかには何もないと宣言し、変化とは何から何へと変わるのかという概念を前提にしており、同一律なくして「変化」という概念はあり得ないという事実を抹消する。実業家を否定しながらその価値を奪うように、存在が存在することを否定しながら、存在のすべてを支配する権力を握ろうとしているのだ。

 かれらは舌先三寸で「我々が知っているのは我々が何も知らないということだけだ」と吹聴しながら、自分が知識を主張している事実を抹消する──「絶対など絶対に存在しない」と吹聴しながら、自分が絶対を口にしている事実を抹消する──「自分の存在や意識の存在は証明できない」と吹聴しながら、証明が存在と意識と複雑な知識の連鎖を前提にしている事実、知るべきものの存在、それを知ることのできる意識、証明されたものと証明されていないものの区別を学んできた知識を抹消する。
(中略)
 公理とは、知識の基礎と、その知識に関連する他のあらゆる言辞を特定する立言であり、ある話者がそれを認識することを選ぶかどうかにかかわらず、他のすべての言辞に必ず含まれるものだ。公理とは、それを否定しようとする試みの過程においてもそれを受けいれて使わざるを得ないという事実によって、その反対者を打ち負かす命題なのだ。同一性の公理を受けいれない穴居人に、同一性の概念やそこから派生した概念を使わずに自分の理論を提示させてみればいい──名詞の存在を認めない類人猿に、名詞も形容詞も動詞もない言語を考案させてみればいい──感覚的知覚の有効性を認めない呪術師に、感覚的知覚によって得たデータを使わずにそれを証明させてみればいい──論理の有効性を認めない首狩り族に、論理を使わずにそれを証明させてみればいい──高層ビルは五十階建てになれば基礎が不要になると宣言する矮人に、諸君のビルではなく、彼のビルの下から基礎を取っ払わせてみればいい──人間の思考の自由は産業文明の創造には必要だったが、その維持には必要ないと唸る人喰い人種には、大学の経済学部のポストではなく、矢尻と熊の毛皮を与えておけばいいのだ。

 諸君はかれらが暗黒時代に諸君を連れ戻そうとしていると思うだろうか? それどころか、かれらは歴史上知られざる、いかなる時代よりも暗い時代に諸君を連れ戻そうとしている。その目標は科学以前の時代ではなく、言語以前の時代だ。その目的は人間の思考、生活、文化が依存する概念、すなわち客観的現実の概念を奪うことだ。(中略)

 それこそが諸君の現代の教師たちの知的状態であり、それこそがかれらが諸君を連れて行こうとする世界だ。

 もし連中がどのような手段でそれを行おうとしているのか不思議に思うなら、どこでもいい、大学の教室を覗いてみれば、教授たちが学生に、人間は何も確信することはできない、自分の意識には何の正当性もない、事実も存在の法則も学ぶことはできない、客観的現実を知ることは不可能であると教えているのを耳にすることだろう。ではその知識や真実の基準は何かといえば、他の人々が信じていること、それがかれらの答えだ。知識はない、あるのは信仰だけだと連中は教えるのだ。

 厚かましくも我々を、超自然的なビジョンを主張するあらゆる神秘主義者の道徳的劣等者とみなす諸君よ──略奪された小銭をハゲタカのようにかき集めながら、富をもたらす者よりも占い師を尊ぶ諸君よ──ビジネスマンを卑賎と蔑みながら、うわべだけの芸術家を高貴と崇める諸君よ──その基準の根源は、原初の沼地から漂う神秘的な毒気であり、諸君を生かしているという事実によってビジネスマンを不道徳と決めつける死の崇拝である。肉体の瑣末な心配事から脱け出したいと願い、単なる物理的な欲求に応えるための徒労を超越したいと主張する諸君よ──肉体的欲求の奴隷になっているのは、一杯の飯のために日の出から日没まで人力の鍬で働くヒンドゥー教徒か、それともトラクターを運転しているアメリカ人か、どちらだ? 物理的現実を征服しているのは、釘のベッドで眠る人か、それともスプリングマットレスの上で眠る人か、どちらだ? 物質を超えた人間の精神の勝利の記念碑は、ガンジス川のほとりの病原菌だらけの掘っ建て小屋か、それともニューヨークの大西洋のスカイラインか、どちらだ?(『肩をすくめるアトラス』)

 
 じっさいイーノによる薄っぺらい資本主義批判の中身は、ランドが『新左翼と旧左翼』(『原始への退行:反産業革命』(1970年、未邦訳)所収)で徹底的に批判している、当時の新左翼が唱えた、資本主義は環境を破壊するが、共産主義は環境にやさしいという出鱈目な理屈と本質的には同じだ(言い換えれば、彼らは50年以上、相も変わらず同じ屁理屈を念仏のように唱え続けてゴネているにすぎない)。

 ふたたび柿埜氏の著書から引用するなら──「共産主義や脱成長が環境にやさしいといった主張には全く根拠がない。経済成長は乳幼児死亡率の改善や平均寿命の伸長といった人類の福祉と密接な関係があり、主観的幸福度の指標も豊かな国の方が高いのが一般的である。経済成長自体を悪と見なすのは誤りである。環境問題は経済成長のない国でも、私有財産権がない社会でも明らかに存在してきたのだから、資本主義をなくし経済成長をやめれば環境問題が解決する、と夢想するのは合理的根拠を欠いている。温暖化をはじめとする環境問題は資本主義に固有の問題でもなければ、経済成長が必然的にもたらす問題でもないことは明らかである」。(前掲書、152頁)

 先日のブルック博士との対談で、1987年生まれの柿埜氏は、1970年にランドが発表したエッセイについて触れ、「1970年というと、まだほとんど環境保護団体みたいなのが出てこなかったというか、それほど大きくなっていなかった時代ですけれども、(彼女は)このように言っているわけですね」と、現在の脱成長論の根底にある誤謬とも共通する、正鵠を射た批判を、50年以上前に提唱していたランドの洞察の鋭さに感嘆しつつ、彼女が指摘していたことを簡潔に要約し、次のように語っていた──

 「昔の集産主義者(共産主義者)というのは、世界を豊かにするんだということを約束していた。そういうことができないからといって資本主義者を非難していた。つまり資本主義は貧困を作り出すといって非難していた。だけど、彼らは今や資本主義はあまりにも豊かな社会を作ってしまうので、快適な生活ができるようになって、われわれが安全な生活ができるようにしてしまうのが大変けしからんと言っている。私たちがあまりにも豊かで安全な生活をしていることがそもそも悪いことなのだと。快適に暮らすことはなんとけしからんことなのだと。そういうようなことを言いながら彼らのやろうとしていることは古い左翼と変わっていない。私たちには罪があって、幸せに暮らす資格がないんだと。そして、今や貧しい労働者を搾取していると非難する代わりに、あなた方は土地だったり、空気だったり、水だったりを搾取しているんだと、そういうふうに非難して自分は悪いことしているという気分にさせているのだと。
 まさに、じっさい私もこれが大きな運動になっているものの根底にあるものだと思うわけです」。

 ランドは、集産主義者が「脱成長」を唱えることによって、環境問題が共産主義化していくことの危険性をすでに50年以上前に見抜いていたわけだが、反テクノロジーの狂気じみた理想を掲げ、資本主義を攻撃してやまない「環境原理主義者」(「エコロジスト」とも呼ばれる)の傍若無人なふるまいが世界中で大手を振ってまかり通っている今日、ランドが鳴らした警鐘の本質的な意義がかつてないほど高まっていると思われるので、オリジナル講演の抜粋(仮訳)も掲載しておこう──

 (エコロジストたちの)当面の目標は明白です。それは、今日の混合経済における資本主義の残滓を破壊し、世界的な独裁体制を確立することです。この目標は推論するまでもなく──このテーマに関する多くの演説や書籍には、エコロジー運動がそのための手段であることが明確に記されています。

 この新左翼の集産主義路線の転換には、ふたつの重要な側面があります。ひとつは、知性との公然たる決別であり、旧来の左翼が被っていた知的な仮面を落とし、マルクスの経済決定論の似非科学的、超技術的なガラクタを、鳥や蜂や美──「天然の美」──に置き換えたことです。これほど滑稽な運動の縮小や、これほど明白な知的破綻の告白は、フィクションの世界でもありえません。

 もうひとつの重要な側面は、この転換の背後にある理由です。この転換は集産主義が──ソ連と世界中にあるその複製としての、あらゆる政治的種類と色合いをもつシンパたちによって──産業的にも技術的にも失敗だということが公然と認められていることを意味しています。つまり集産主義は生産できないということが。

 生産の根源は人間の頭脳です。頭脳は個人の属性であり、何世紀もの停滞が証明しているように、命令、統制、強制のもとでは働きません。進歩とは、政府によって計画することはできず、法律によって制限したり遅らせたりすることができないものです。あらゆる国家主義的な政府が証明しているように、進歩は阻止することしかできません。もし私たちが自然 (nature) について考えるなら、集産主義は人間の本性 (nature) と相容れず、人間の頭脳の第一条件は自由であるという事実について考えてみてはいかがでしょうか。しかし古代の精神の神秘家たちが頭脳を神由来の能力であり、したがって不自然なものとみなしたように、今日の腕力の神秘家たちは、頭脳が動物に備わっていないことから、それを不自然なものとみなしていることに留意してください。

 仮に貧困や人間の苦しみに関心を持つことが集産主義者の動機であれば、とっくに資本主義の擁護者になっていたでしょうし、資本主義が豊かさを生み出すことができる唯一の政治システムであることを発見していたはずです。しかしかれらはできる限り、その証拠を避けてきました。この問題が全世界に圧倒的に明らかになったとき、集産主義者たちは選択を迫られたのです。人類の名において右に転じるか──独裁的な権力の名において左に転じるか。かれらは左に──新左翼に転向したというわけです。

 集産主義が普遍的な豊かさを生み出すという昔の約束や、貧困を生み出すとして資本主義を非難する代わりに、かれらは今、豊かさを生み出すとして資本主義を非難しています。すべての人に快適さと安全を約束する代わりに、かれらは今、人々が快適で安全であることを非難しています。しかし、いまだにかれらは罪悪感と恐怖を植えつけようと必死です。これらは常にかれらの心理的手段でした。貧しい人々から搾取することに罪悪感をもつよう促す代わりに、土地や空気、水を搾取することに罪悪感をもつよう促しているのです。恵まれない大衆の血なまぐさい反乱で脅す代わりに、かれらは今──未開の部族に語りかける呪術師のように──確認も検証も証明もできない、得体の知れない世界の大異変という漠然とした脅しで、みなさんの理性を失わせようとしているのです。

 しかしながら、集産主義者の手法のうち、変わらないひとつの要素があります。この要素なくしてチャンスはなかったでしょう。それは利他主義──自己犠牲の要請、人間の生存権の否定です。しかし規模が大きくなるにつれて、その説得力が小さくなっていることに注目してください。四十年ほど前、フランクリン・D・ルーズベルトは、恵まれない「国民の三分の一」のために犠牲を払うよう、この国に呼びかけました。十五年後、その犠牲は地球全体の「恵まれない人々」にまで拡大され、今日では、海藻や無生物のために犠牲を払うよう求められているのです(場内笑/拍手)。

 アメリカ国民の名誉のために申し上げておくと、大多数はエコロジー問題を深刻に受け止めてはいません。それは、資本主義を攻撃するための他の根拠を見つけることができない破産した左翼によって吹き込まれた、人工的な、PRによって捏造された問題です。しかし他の多くの問題と同様に多数派は沈黙を守っています。これこそが危険なのです。「今日議論がなされない不条理は、明日受け入れられるスローガンとなる」。そうしたことが既定路線として受け入れられてしまう危険性があるのです。
(中略)
 理性の敵──神秘主義者、人間憎悪者、生命憎悪者、得体の知れない非現実的なものを追い求める人々──は、以来、反撃のために勢力を結集してきました。哲学の腐敗がかれらに足がかりを与え、徐々に他のものを腐敗させる力を与えたのです。

 産業革命の敵──その忌避者たち──は、何世紀にもわたってあらゆる手段で人類の進歩に対抗してきました。中世において、かれらの武器は人々の神への畏怖の念でした。十九世紀になっても、かれらは神への恐怖を呼び起こしました。たとえば、神は人間が苦しむことを意図しているので、麻酔の使用は神の思し召しに反するという理由で、麻酔の使用に反対したりしました。この武器が尽きると、かれらは集団、グループ、部族の意向を呼び起こしました。ところがこの武器がかれらの手から崩れ去ったので、かれらは今、追いつめられた動物のように、牙と魂をむき出しにし、人間は、無生物の聖なる意思によって存在する権利がないと宣言しているのです。

 テクノロジーを「抑制」せよという要求は、人間の頭脳を抑制せよという要求です。この二つの目標を達成することを不可能にしているのは自然──すなわち現実──にほかなりません。テクノロジーは破壊することができ、頭脳は麻痺させることができますが、どちらも抑制することはできません。どこをどう抑制しようが、枯れるのは──国家ではなく──頭脳です。

 テクノロジーは応用科学です。理論科学とテクノロジーの進歩──すなわち人間の知識の進歩──は、個々の頭脳の働きの複雑で結びついた総体であり、コンピュータや委員会がその行方を予測したり規定したりすることはできません。ある分野の発見が、別の分野での思いがけない発見につながり、ある分野の成果が他のすべての分野に無数の道を開くのです。たとえば、宇宙開発計画は、医学の貴重な進歩につながりました。しかしある情報がいつ、どこで、どのように活動的な頭脳を刺激し、何を生み出すかを、誰が予測できるでしょうか。

 テクノロジーを制限するには、全知全能が必要であり──ある開発が未来の潜在的な革新者たちに対して与えうる影響と結果をすべて知っている必要があります。そのような全知全能がなければ、規制とは未知のものを規制し、生まれていないものを制限し、未発見のものにルールを設定しようとすることになります。

 進歩など必要ない、私たちはもう十分に知っている、これ以上前進しなくても現在の技術発展のレベルにとどまってそれを維持できるという考え方については──どうして人類の歴史は、達成した知識を維持することができず、それとともに消滅した文明の残骸でいっぱいなのか、どうして前進しない人間は、野蛮の奈落に逆戻りするのか、自問してみてください。
(中略)
 今エコロジー運動とその若い活動家たちが、現状を激しく敵視していること──中流階級の受動性を非難し、従来の態度に反抗し、行動を求め、「変化」を叫んでいるというのに──自然に関しては現状維持のお先棒を担いでいることの皮肉に着目してください。

 自然との対峙において、かれらが訴えたのは、「現状のままでよしとしておく」ことでした。自然のバランスを崩すことなかれ──鳥、森、沼、海を乱すことなかれ──ボートを動かすことなかれ(あるいは作ることなかれ)──実験することなかれ──冒険することなかれ──人類の祖先にとって十分だったものは、我々にとっても十分であり──暴風、暴雨、人食い虎、マラリア蚊、ツェツェ蠅に適応し──反抗することなかれ──すべてを支配する得体の知れない悪魔を怒らせることなかれ。

 かれらの宇宙論では、人間は限りなく可鍛性に富み、制御可能であり、使い捨ての存在であり、自然こそが神聖なものです。自然はたったひとつの橋や高層ビルで汚される一方、人間だけが──そしてその仕事、成果、頭脳が──平気で侵害されるのです。かれらにとって殺人を躊躇しないのは人間だけ、爆撃するのは人間の学校だけ、焼き払うのは人間の住居だけ、略奪するのは人間の財産だけ──その一方で、人間の飛行場の侵略から守るべき爬虫類には敬意を表して這いつくばり、この理解しがたい惑星でどう生きるべきか、謙虚に星の導きを求めるというわけです。

 かれらは保守主義者たちよりもたちの悪い──「環境保護主義者」なのです。かれらは何を保護したいのでしょう? 人間を除けば何でもです。かれらが支配したいものは何でしょう? 人間以外の何ものでもありません。

 「創造者の関心事は自然の征服だ。寄生虫の関心事は人間の征服だ」と、『水源』のなかでハワード・ロークが言っています。それは一九四三年に出版されました。モラルの逆転が完了した今日、みなさんは、行動や明確な告白のなかでその言葉が実証されているのを目の当たりにしているのです。 

 科学の進歩を自然に対する「侵略」とみなし、一方で人間の普遍的な奴隷制を提唱することの卑猥さを、これ以上説明する必要はありません。(アイン・ランド「反‐産業革命」、『原始への退行:反-産業革命』(未邦訳)1970、所収)
 
 さらに同書に収録されている「旧左翼と新左翼」という論考から、共産主義者によるエコロジー運動に対して痛烈な批判を行っている箇所を引用する──
 
 「環境保護」の──すなわち反テクノロジーの──運動家たちが、征服されていない自然のなかでの人間の状態を知らないということはあり得ません。それを知っていながら、自然を取り戻すことを提唱するとは考えられません。しかし、それは彼らの口から出てきた言葉なのです。

 (……)人は、大まかな一般論、抽象的な考え、基本的な原則、論理的な結果を、無力で、無関係で、無効で、存在しないものと見なすように仕向けられています。「しかしまあ、彼らもそこまでは思っていないさ」「彼らだってそこまでしたくないだろ。スモッグや下水をきれいにしたいだけなんだし」というのが、反テクノロジー主義者に対する一般的な態度です。いいでしょう、ヒトラーも抽象的な理念や目標を事前に発表し、当時のプラグマティストから同様の反応を引き出しました。ソビエトは五十年前から世界征服を公然と説き、地球上の人口の三分の一を征服しました──にもかかわらず、いまだにかれらが本気で言っているとは思わない人もいます。

 (実際の汚染の問題に関する限り、それは本源的に科学的な問題であり、政治的な問題ではありません。政治的な原則としては、ある人が自分の所有地の境界線を越えて、不衛生な環境や大きな音など、他人に物理的な危険や害を与えた場合、そしてそれが証明された場合、法律はその人に責任を負わせることができ、実際にそうなっているというだけです。過密都市のように集団的な状態であれば、石油の権利や空域の権利などの場合と同様に、関係者全員の権利を保護する適切で客観的な法律を定めることができます。しかし、そのような法律は、不可能なことを要求してはならず、すなわち産業家という一人のスケープゴートに向けられてはならず、問題の背景全体を考慮しなければなりません。すなわち人の命を守ることを基準とすれば、産業の存続が絶対に必要であるということです。)

 ベトナム戦争の終結後、新左翼の活動家たちが次に取り組むのは公害問題だと、何度も報道されてきました。しかし、あの十字軍においては平和が目的ではなかったように、今回の十字軍においてもきれいな空気が目的でも動機でもありません。(……)

 ある意味で、新左翼の路線は、より粗野で、より正直です──名誉ある意味での正直さではなく、図々しさと絶望の組み合わせの意味で、酔っ払い(あるいは薬物中毒者)が長年もかけて回避し、抑圧してきた真実の一部を口にするように、自分は逃げられるという信念や希望に促されているのです。集産主義者の社会的な皮膜が破れ、かれらの心理的な動機が透けてみえるようになっています。

 旧左翼は、アポロンの仮面を維持するために、何年もの努力、大量の印刷物、何十億ドルを血の川に費やしてきました。旧来のマルクス主義者は、自分たちは理性の擁護者であり、社会主義や共産主義は科学的な社会システムであり、高度な技術は資本主義社会では機能せず、物質的な快適さやより高い生活水準という形ですべての人間に最大限の利益をもたらすためには、科学的に計画され、組織された人間社会が必要であると主張していました。かれらはソ連の技術の進歩はアメリカを凌駕すると予測していました。また、資本主義社会では、「絵に描いた餅(Pie in the sky)」のような政策によって、大衆を欺いていると非難しました。すなわち物質的な貧困に苦しむ人々にスピリチュアルな報酬を約束するという方法によって。共産主義者たちは一部の政府──特に中国やインドの旧支配者だった英国──が、大衆を受動的で、ぼんやりしていて、従順で、無力な状態に保つために、意図的に麻薬(阿片)の売買を促進していると非難していました。

 その仮面は、第二次世界大戦後に崩壊しました。

 ソビエト・ロシア、社会主義国イギリス、ヨーロッパの共産主義国の産業の運命と生活水準を見れば、資本主義に対する社会主義の技術的優位性を声高に、あるいは効果的に主張することなど誰にもできません。資本主義は、産業文明を作るためには必要だったが、それを維持するためには必要ではなかったという趣旨の古い台詞は、最近ではあまり聞かれなくなっています。社会主義の豊かさの約束は、働く若者のほとんどがアメリカ製品やガジェットを崇拝し、できることなら海を泳いででもアメリカに来たいと思っている世界では、あまり説得力がありません──また、社会主義による人間の頭脳の解放の約束は、最高の頭脳が流出してますます不安になっている世界では空虚に響くばかりです。

 かつて工業化の必要性は、西側リベラル派の十字軍的スローガンであり、ソビエト・ロシアでの大規模な虐殺を含め、何でも正当化し、どんな残虐行為も白紙にしていた時期がありました。しかし今ではそのようなスローガンは聞かれません。産業文明か集産主義かの選択を迫られ、リベラル派が捨てたのは産業文明でした。テクノロジーか独裁制かの選択を迫られて、彼らが捨てたのはテクノロジーでした。理性か気まぐれかという選択に直面して、かれらが捨てたのは理性でした。

 そして今日、年老いたマルクス主義者たちが、理性よりも感情を、知識よりも信仰を、生産よりも余暇を、物質的な快適さよりもスピリチュアルな関心事を、テクノロジーよりも原始的な自然を、科学よりも占星術を、意識よりもドラッグを優先すると宣言する(彼らの産物であり、後継者である)若いチンピラたちを祝福し、援助している光景を目にすることができます。

 旧来のマルクス主義者は、近代的な工場ひとつで世界の全人口を賄えるだけの靴を生産でき、それを阻むのは資本主義以外の何者でもないと主張していました。しかし現実を知ったかれらは「裸足のほうが靴を履くよりも優れている」と言い出しました。

 貧困や地球上の人類の生活向上に対するかれらの関心とは、その程度のものなのです。

 表面的に(非常に表面的に)見れば、道徳的に差別のない人にとっては、すべての人に物質的な豊かさを永続的に与えるために、何世代もの人間を奴隷にして犠牲にするという考えには、ある程度の説得力があったかもしれません。しかしそれを「自然景観の美しさ」を守るために行うというのはいかがなものでしょうか。血まみれの凶悪犯と象牙の塔の知識人との結合は十分に恐ろしいものでしたが、それが血まみれの凶悪犯とご婦人たちの園芸クラブとの結合に取って代わられるのでしょうか。

 本質的にはともかく、形式的には旧来のマルクス主義者の方がまだまともでした。

 しかし左翼・リベラル派の本質──基本原理、心理的動機、究極の目標──は変わっていません。その本質とは理性への憎しみなのです──「腕力の神秘家」を装おうが、仮面を外してジャングルの「スピリチュアリズム」を選ぼうが、弁証法的唯物論を説こうが、あるいは科学的に同等の有効性をもつという占星術、数秘術、骨相学などの教義に置き換えようが。

 形は変わっても、スローガンは変わっても、すべてが使い捨てになったとしても、ヘラクライトス=ヘーゲル=ディオニュソス(ニーチェ)主義者の流れのなかの三つの基本的なものはそのまま残っています。そしてその心理的な表出である「権力欲」、すなわち「破壊欲」も同様です。

 新左翼の活動家たちは、自分たちの動機の真相を明らかにすることに近づいています。彼らは、工場を買収しようとしているのではなく、テクノロジーを破壊しようとしているのです。(……)

 仮に「資本主義はあなたを救貧院に導く」「資本主義はあなたを戦争に導く」といった非難が失敗した後で、新左翼に残された言いぐさが「資本主義はあなたの田舎の美しさを汚す」という以上のものがないとすれば、集産主義者たちの運動は知的権力としては終わったと結論づけるのが妥当でしょう。(アイン・ランド「新左翼と旧左翼」、『原始への退行:反-産業革命』(未邦訳)1970、所収)

 

 ランドはすでに50年以上前に、「たとえ共産主義者であろうとも、征服されていない自然のなかでの人間の状態を知らないはずはない」と見抜いているが、「環境原理主義」に侵された現代においては、「昔の人は自然と調和しながら生きていたが今は違う、自然を破壊しながら生きているだけだ」と思い込んでいる人が多いのではないだろうか。しかしじっさいのところは、「昔の人は自然と調和しながら生きていた」のではなく、「自然に逆らいながら死んでいった」というのが真相だろう。

 その意味するところは、ランドが頻繁に引用する「自然(客観的現実)に従うことが、自然を征服する道である」という、客観主義の形而上学の核心を示す、16世紀の哲学者フランシス・ベーコンの言葉のなかにある。
 すなわち、「自然に従う」とは、自然の性質をみきわめて、それを紛うかたなき現実の事実として認識し、その現実に即して行動しなければ、人間はその目的を果たすことができないという、客観的な合理性を備えた行動規範を意味しており、対して「自然に逆らう」とは、自然の法則を無視して、雨乞いをすれば雨が降り、祈祷をすれば病気が治り、祭壇に生贄を捧げれば自然災害を免れることができる──すなわち世界は「願いごと」によってどうにでもなるという、未開人と同じ神秘主義的な行動規範を意味する。

 このちがいが「存在の優位性(the primacy of existence)」か、あるいは「意識の優位性(the primacy of consciousness)」かという、あらゆる哲学体系の根底にある基本的な形而上学的問題につながっているとランドは指摘する。形而上学は倫理学ではないが、「あらゆる道徳的価値観の基礎を形成している」がゆえに、その形而上学的前提によって、そこから導き出されれる「倫理」は、まったく逆の道徳規範(code of morality)を唱えるようになるのだと。

 客観主義における形而上学については、『肩をすくめるアトラス』のジョン・ゴールト演説でも(広義の意味において)語られているが、ランドは、1973年に書かれたエッセイ「形而上学的なるものVS人為的なもの」で、この問題についてさらに突っ込んだ議論を展開している。少し長くなるが、ランドの思想を理解する上できわめて重要な論考でありながら、これまでいっさい日本で紹介されたことはないので、あくまでも仮訳であるが、その一部だけでも抜粋しておきたい──

 「存在(現実)の優位性」とは、存在は存在する〔AはAである〕という公理であり、すなわち、宇宙は(いかなる意識からも)独立して存在しており、物事はあるがままのものであり、特定の性質、同一性をもつという公理です。認識論的な帰結としては、意識とは存在するものを認識する能力であり──人間は外界を見ることによって現実を知ることができるという公理があります。これらの公理を否定すると、発想は逆転します。「意識の優位性」──すなわち、宇宙には独立した存在はなく、意識(人間または神のいずれか、あるいはその両方)の産物であるという考え方です。認識論的には、人間は内側(自分自身の意識、あるいは他の優れた意識から受ける啓示)を見ることによって現実を知ることができるという考え方を意味します。(……)

 「存在が存在する」という公理を把握することは、自然を、すなわち、宇宙全体を創造したり全滅させたりすることはできない、誕生させたり消滅させたりすることはできないという事実を把握することです。その基本的な構成要素が原子であろうと、素粒子であろうと、まだ発見されていないエネルギーであろうと、すべては意識や意志や偶然に支配されているのではなく、「同一律」に支配されています。元素の無数の形態、運動、組み合わせ、分解といった宇宙に存在する──浮遊する一片の塵から、銀河の形成、生命の誕生に至るまでの──すべての要素は、それぞれの要素の同一性によって引き起こされ、決定されます。自然とは形而上学的に与えられたものであり、すなわち、自然の性質とは、いかなる意志の力も及ばないものなのです。

 人間の意志は、その意識(の理性の能力)の属性であり、存在を認識するか、それを回避するかの選択から成り立っています。存在を認識すること、つまり存在するものの特徴や性質(諸々の同一性)を発見することは、形而上学的に与えられたものを発見し受けいれることを意味します。この知識に基づいてのみ、人間は、自然界に与えられたものをみずからのニーズ(みずからの生存方法)に合わせてどのように改編できるかを学ぶことが可能になるのです。

 自然の要素の組み合わせを改編する力は、人間がもつ唯一の創造的な力です。それは非常に偉大で輝かしい力ですが──「創造」とは、無から有を生みだす力を意味するものではありません(形而上学的にもありえません)。「創造」とは、それまで存在しなかった自然の要素の配列(または組み合わせあるいは統合)を存在させる力を意味します。(これは、科学的なものであれ、美的なものであれ、あらゆる人間の生産物に言えることです。人間の想像力とは、現実のなかに観察したものを改編する能力に他なりません)。自然に対する人間の力をもっとも端的に表しているのが、フランシス・ベーコンの「自然に従うことが、自然を支配する道である」(“Nature, to be commanded, must be obeyed.”)という言葉です。この文脈において、「支配する」とは、人間の目的に役立つようにすることを意味し、「従うこと」とは、人間が自然の要素の特性を発見し、それに応じて使用しなければ、目的を果たすことができないことを意味しています。(……)

 受けいれねばならないのは形而上学的に与えられたものです。それを変えることはできません。無批判に受けいれてはならないのは、人為的なものです。それは判断し、受けいれられるか拒否されるかし、必要に応じて変更しなければなりません。人間は全知全能でもなければ、無謬でもありません。知識がないために無実の過ちを犯すこともあれば、嘘をついたり、騙したり、ごまかしたりする可能性もあります。人為的なものは、天才、知覚、創意工夫の産物かもしれません──あるいは愚かさ、欺瞞、悪意、邪悪さの産物かもしれません。ある一人が正しくて、他の誰もがまちがっているかもしれず、その逆かもしれません(その中間の数値的な区分もあります)。自然は人間に、自分の判断が正しいことを自動的に保証してはくれません(そして、これは形而上学的に与えられた事実であり、受けいれられなければなりません)。では、誰が判断するのでしょうか。各人が、自分の能力と誠実さの限りを尽くして判断するのです。その判断の基準とは何でしょうか。形而上学的に与えられたものです。(……)

 形而上学的に与えられたものに反抗することは、存在を否定しようとする無益な試みに従事することです。人為的なものを挑戦の域を超えたものとして受けいれることは、自分自身の意識を否定することにほかなりません。“平穏”は、存在に「イエス」と言う能力から生まれます。“勇気”は、他人の間違った選択に対して「ノー」と言う能力から生まれます。

 あらゆる自然現象、すなわち人間の関与なしに起こる事象は、形而上学的に与えられたものであり、違ったかたちで起こることも、起こらないこともあり得ないのです。人間の行動が関与する現象はすべて「人為的なもの」であり、それとは異なることも起こりえたはずです。たとえば、人が住んでいない土地で発生した洪水は形而上学的に与えられたものであり、洪水の水をせき止めるために建設されたダムは人為的なものです。建設者が計算を誤ってダムが決壊した場合、その災害は起源においては形而上学的ですが、結果においては人間によって増幅されたものです。この状況を改善するために、人間は自然に従い、洪水の原因と可能性を研究し、より優れた洪水制御のしくみを構築することで自然に従わなければならないのです。

 しかし、人間の存在条件を改善するための努力はすべて無駄であると宣言すること、記憶にある限り毎年洪水が起こっているにもかかわらず、来年も起こるということを証明できないので自然は計り知れないと宣言すること、最初のダム建設者はダムが持ちこたえると確信していたにもかかわらず、そうならなかったので人間の知識は幻想だと宣言することは──人間を、意識と存在の関係についての原初の混乱に追い返し、その結果として人間から“平穏”と“勇気”(そして他の多くのもの)を奪ってしまいます。ところが、これは近世哲学が二百年以上前から宣言していることなのです。(……)

 「存在の優位性」を公理とする哲学体系(すなわち現実の絶対性の認識)が、人間の同一性と権利の認識を導き出したことに注目してください。しかし、「意識の優位性」に基づく(すなわち自然は人間が望めばどうにでもなるという、一見誇大妄想的な考えに基づく)哲学体系は、人間は、同一性をもたず、無制限に融通の利く、可鍛性に富んだ、いかようにも使い捨てできる存在であるという見方を導き出すのです。なぜなのか、自問自答してみてください。(……)

 人為的なものを形而上学的に与えられたものであるかのように見せかけ、「機会」や「偶発性」といった、人間の知識の欠如のみが拠り所となる概念を自然のせいにし、「抱き合わせ商法」の二つの要素を逆転させることこそ、人間の頭脳を蝕むテクニックなのです。「人間は何をしでかすか予測できない、したがって自然も何をしでかすか予測できない」という断定に基づく主張は次のようになります。「自然は意志をもつが、人間はもたない──自然は自由であるが、人間は得体の知れない力に支配されている──自然は征服されるものではないが、人間は征服されるものである」。(……)

 自然に対して、「変えられないものを受けいれること」とは、形而上学的に与えられたものを受けいれることであり、「変えられるものを変えること」とは──科学技術(医療など)がそうするように、知識を得ることによって、与えられたものを改編しようと努力することであり、「ちがいを知ること」とは、自然に反抗してはいけない、いかなる対処もできないときは、自然を穏やかに受けいれなければいけないと知ることです。(……)

 力によって人間に対処することは、説得によって自然に対処するのと同じくらい非現実的であり──武力によって人を支配し、祈りと呪文と賄賂(生け贄)によって自然に嘆願する野蛮人の政策です。そうしたことがうまくいくはずもなく、歴史上いかなる人間社会でも成功した試しはありません。しかし、現代の哲学者たちは、「意識の優位性」という概念に回帰するかのように、この政策に人類を回帰させるよう促しています。かれらは、受動的で神秘的な、「エコロジカル」な自然への服従と──人間に対する武力の支配を促しているのです。(アイン・ランド「『形而上学的なるもの』対『人為的なもの』」(1973)、『誰のための哲学か』(未邦訳)1984、所収)

 ドイツからアメリカに亡命し、1960年代の新左翼の父と呼ばれた(そして今ではすっかり忘れ去られた)フランクフルト学派の哲学者ヘルベルト・マルクーゼは、共産勢力に自由を与えるいっぽうで、資本主義国は弱体化させよという二重基準の理論を展開し、アメリカの大学を「赤く染めた」といわれるが、戦略コンサルタント兼政策アナリストのルパート・ダーウォールは、現在のヨーロッパにおける環境原理主義の源流となったのが、まさしくマルクーゼとその理論を実践した弟子たち(やがてその残党がナチス環境思想を受けつぐ「緑の党」を結党することになる)だったとみなしている。

 ランドは、1970年に書かれた、先述した「心理認識論」に基づく教育論『コンプラチコス』のなかで、マルクーゼに心酔する学生運動家たちに向けて、次のように警告を発していた。

 憎しみの本質を知りたければ、戦争や強制収容所を見ているだけではいけません──これらはその結果に過ぎません。カント、デューイ、マルクーゼやその信奉者たちの著作を見れば、純粋な憎しみを見ることができます──理性と、それが意味するすべてのもの、すなわち、知性、能力、達成、成功、自信、自尊心、人間のあらゆる明るい、幸福な、善意に満ちた側面に対する憎しみ──これこそが、今日の教育機関を覆う雰囲気であり、重要なモチーフであり、生命感覚なのです。(……)

 何世代にもわたって、自由の破壊(すなわち、資本主義の破壊)は、自由の名のもとに隠れて行われてきました。大学で大量生産された気取った知的服従者たちは、独裁を嫌うことを公言しながら、集団主義のあらゆる信条、前提、スローガンを謳ったのです。資本主義の骨組みがすべて削られ、崩壊した混合経済──すなわち、物理的な武力を行使する特権を合法化するために礼儀正しく戦う圧力団体の内戦状態──に変わったとき、暗示されていたことを明示する、礼儀も法も捨て去った哲学者のための道が開かれたのです。理性と自由の敵であることを公然と自認するヘルベルト・マルクーゼは、独裁政治、神秘的な「洞察」、野蛮への回帰、普遍的な奴隷化、暴力による支配を提唱しています。(……)

 混沌とした動機のなかに、正義の大義名分を掲げて英雄的な闘いに参加したいという純粋な気持ちがあるならば、それを適切な敵に向けてください。たしかに世界はひどい状態ですが──その原因は何でしょうか。資本主義? 私たちの生活を支えているボロボロの残骸を除いて、それがどこにありますか。今日の「支配者層(エスタブリッシュメント)」は、頭脳をもたない偽善的な腐った構造体ですが、「支配者層」とは誰であり、何なのでしょうか。誰がそれを指揮しているのでしょうか。大学教授たちと同じ集産主義的なスローガンを口にし、かれらを支援するために何百万ドルも注ぎ込む大企業家たちではありません。大学教授たちと競って理性を攻撃し、同じ集産主義・利他主義・神秘主義の概念を広めている、いわゆる「保守派」でもありません。大学教授たちの腹話術に踊らされているワシントンの政治家たちでもありません。あなたたちの大義を宣伝し、あなたたちの理想を賞賛し、あなたたちの教授陣の教義を説く通信メディアでもありません。
 それらすべての人々の行動を決定づけるのは思想であり、国家の思想を決定するのは教育機関なのです。過去五十年以上にわたって世界を支配してきたのは、進歩ではなく荒廃ばかりを広めてきた、大学教授たちの思想であり──そして今日、反対意見がないために、これらの思想は世界を破壊しています。あなたたちの頭脳と自尊心を破壊したように。
 あなたたちは惨めなほど無力でも反抗したいのですか。それなら教師たちの思想に反抗してごらんなさい。これほどまでに困難で、高貴で、もしくはそれ以上に英雄的な反抗の姿はないでしょう。あなたたちには不安以外に失うものは何もありません。
 あなたたちは勝つための頭脳をもっているのです。(「コンプラチコス」)

 しかし当時マルクーゼのような危険な左翼哲学者の「思想」や、理性を見失った(自称)芸術家による支離滅裂な「モダンアート」(と呼ばれる産業廃棄物)に“感情的に”触発された活動家たちは、野蛮な「部族」同士の抗争に明け暮れながら、さしたる考えもなしに、「キャンパスの座り込みから放火へと進み、集団テロや公共の場の爆破といった残虐行為に及んでいった」(ランド、「’政治的’犯罪」(1970)、『新左翼:反産業革命』Signet, 1971、所収)。

 「二〇世紀に共産主義や国民社会主義という集権主義の類縁的な二大形態をとった部族主義の波は、おそらく十八世紀の重商主義の波よりも一段と全体的で強力になった高波である。そしてその唱導者は自分たちの価値の実現のために私有財産の接収や、殺人すら含む暴力に訴えることにつゆも疑問を抱かぬ鉄面皮ぶりを発揮した。このことは現在なお彼らの思想の大義に端を発する一貫性のない思弁に群がる知性たちを、今後とも根源的な道徳的譴責に晒し続ける。そして『社会』を全面に押し立てながら、実際には反社会的な行為を臆面もなく執行しようとする思潮の波高が大になるほど、それに抗する自由主義の防波堤も高く堅牢になった」。(村井明彦『グリーンスパンの隠し絵(上)中央銀行制の成熟と限界』、名古屋大学出版会、2017年、67頁)

 先の対談において柿埜氏は、自分は必ずしもアイン・ランドの政治理論とまったく同じ立場を取っているわけではなく、一部異論もあるとしながらも、「これもアイン・ランドから引用しますけれど、脱成長とか行き過ぎた技術を、技術の発展を止めて、ほどほどのところで経済を安定させるという考え方というのは昔からあるんだけれども、これは間違っているというふうに彼女は主張しているわけです。なぜかというと、この理由は簡単なことで、技術が発展するきっかけとなっているのは人間の自由な精神にほかならないんだと。この発展が──この発明とか何かを起こす人間の能力に対して、行き過ぎた発明を起こさないようにはどうしなければならないかといったら、それは人間の心を検閲して、お前の発明は間違っているからこれはダメだと言って切り取る、そういうやり方をしなきゃいけない。
 これは当たり前のことですけれども、物質がない状態で人間の自由な精神とか、そういうものがどこかに浮かんでいるわけではないわけです。みなさんの言論の自由とか表現の自由というのは、言論を発表する媒体、表現をする媒体がなければいけないわけですね。物がなきゃいけないわけです。これ、インターネットの時代でも何でも一緒です。これを国が統制して、自分の好きなようにする社会というのは──行き過ぎた発展を抑えるために、ちょうどよい状態で社会を安定させようとするのは、これは必ず人間の精神の検閲につながるわけです。
 で、『肩をすくめるアトラス』の中で、社会の発展をちょうど今の段階で止めるという法律を作るという場面があるわけですね。ところが社会はそこで安定してくれないわけです。とんでもない状態で崩壊していって、鉄道の時代が幌馬車の時代に戻ってしまうわけです。この小説が発表されたのは1957年です。そのシーンではまさかそんなことはないだろうとみなさん思ったかもしれませんけれども、実際その後のカンボジアがそうですし、最近でいうとベネズエラがそうです。(……)彼女のこういった基本的な洞察というのは、まったく間違っていなかったということが、これだけ時間が経ってもわかるということだと思います。
 結局アイン・ランドは、資本主義のほうが社会主義よりも道徳的なシステムだということを、彼女の小説の中でも訴えたし、その後の哲学的な著作の中でも訴えたわけですけれども、これは、実際の歴史をみてもまったくその通りだということが言えると思います」と述べていた。

 さて、ランドの定義によれば、「芸術とは、一人の芸術家の形而上学的な価値判断による現実の選択的な再創造」にほかならず、「芸術作品における倫理の位置づけは、作者の形而上学的な見解に依存する」という。
 イーノはかつて、「アートとしてなら、旅客機を墜落させておいて、そのまま立ち去ったところでまったくかまわない」と、デヴィッド・ボウイに語ったそうだ(さすがのボウイもその発想の非道徳性・暴力性に驚いたという)。フィクションの中ならともかく、そんな「アート」が現実のなかで行われたら、社会的・道徳的に容認されるはずはなく、いかなる芸術的理論に基づこうが、そのような「芸術」などぜったいに成立し得ない。そうした考えに至るアーティストとしての根本的な「形而上学」は、必然的にエラーを伴うだろう。

 ランド曰く──「倫理学は形而上学に依存するがゆえに、形而上学的エラーがあれば、それは倫理を実行不能にします」。まちがった形而上学の持ち主は、必然的に「脱成長論」や「環境原理主義」のような、誰にも実践できない倫理(道徳)を説くようになる。かれらは、人々にはじめから実践できない道徳観を植えつけ、「社会」が要請している道徳を実践できないという“罪悪感”を抱かせることによって、知らず知らずのうちに「個人」から自由を奪い、強権的な支配を行おうとしているだけだ。これこそが、全体主義やファシズムをもたらす「心理認識論的」なメカニズムにほかならない。「矛盾に直面したらその前提を確認しなさい」(『肩をすくめるアトラス』)。

 2016年に発表された、「タイタニック号の沈没」と「第一次世界大戦」をテーマにした『ザ・シップ』(2016)もまた、新作同様、聴く者に限りなくネガティブな感情を喚起させる陰鬱きわまりないアルバムだった。
 イーノは、同作のライナーノーツのなかで次のように述べている──「人類というのは慢心と偏執的な恐怖心(パラノイア)の間を行きつ戻りつするものらしい(中略)どこかの誰かが、そして何かが我々の手からすべてを奪い去ろうとしている:裕福な人々の抱く恐怖とはそういうものだ」。「タイタニック号は<不沈艦>と呼ばれ、当時の人類の技術力の頂点を誇る、人類にとっての自然に対する最大の勝利になるはずだった。第一次世界大戦は(中略)人類に対する意志の力と兵器力との大いなる勝利を記すはずの戦争だった」。「(戦争や沈没事故の舞台となった)平野や海は存続し続けるが、我々人間は他愛ないおしゃべりの雲に包まれたままこの世からきえていくのだ」。

 人間が「他愛ないおしゃべりの雲に包まれたままこの世からきえていく」だけの存在であるなら、自分自身も含めたすべての人間がそうだといっているのか、あるいは世界的な名声を確立している「裕福な」アーティストたる自分だけは例外だというのだろうか。
 いずれにせよ、ぞっとするような暗澹たる人間観というほかはなく、これが彼のアーティストとしての「形而上学」であるとしたら、それを投影した作品は、「人間の意志は無力で、その価値観は実現不可能であり、闘争は無駄であり、恐怖、罪悪感、苦痛、失敗が人間の宿命的な最後であり、誰にもどうすることもできず、人間は永遠に幻想のなかを手探りで這い続けるだけの存在である」という、ユヴァル・ノア・ハラリを思わせる共同主観的な世界観を具現化するようになるのも当然だといえる(じっさい、京都のインスタレーションでも披露されていた『ザ・シップ』は、まさしくそうした世界観を完璧に表現しているように思えたが、その意味では、(形而上学・認識論・倫理学・政治思想的な評価はともあれ)「美学的」には見事な芸術作品といえる)。

 再びランドの言葉を引用する──

 あるひとつの選択的な再創造によって、芸術は人間自身と世界の基本的な見方をあらわす現実の側面を特定し、統合します。それは数えきれないほどの具体物──個別の、無秩序で(表面上は)矛盾した属性、行動、そして実体──のなかから、ある一人の芸術家が、形而上学的な本質とみなしたものを特定し、ひとつの新たな具体物に統合することによって、抽象概念を具象化するのです。

 たとえば、次のふたつの彫像を想起してみましょう。ひとつはギリシャの神として、もうひとつはデフォルメされた中世の怪物として。どちらも人間の形而上学的な価値判断であり、どちらも芸術家の人間観の投影です。どちらもそれぞれの文化がもつ哲学を具体的に表現しています。

 芸術とは形而上学の具象化にほかなりません。芸術は、人間の概念をその意識の知覚レベルにもたらし、あたかもそれらが知覚であるかのように直接的に把握することを可能にします。

 これが芸術の心理認識論的な機能であり、人生において芸術が重要である理由です。(そして客観主義の美学の核心でもあります。)(……)

 あらゆる形而上学的な問題は、必然的に人間の行動、ひいては人間の倫理に多大な影響を与えます。そして、すべての芸術作品はテーマをもっているがゆえに、必然的に観賞者に何らかの結論、つまり何らかの「メッセージ」を伝えます。しかしその影響や「メッセージ」は二次的な結果にすぎません。芸術は教訓的な目的のための手段ではありません。これが芸術作品と教訓劇や宣伝ポスターとのちがいです。芸術作品が偉大であればあるほど、そのテーマはより深く普遍的なものとなります。芸術はありのままの現実を転写するための手段ではありません。そこが芸術作品とニュース記事や写真とのちがいです。

 芸術作品における倫理の位置づけは、作者の形而上学的な見解に依存します。ある芸術家が意識的もしくは無意識的に、人間には意志の力があるという前提をもっていた場合、それはその芸術家の作品を価値志向(ロマン主義)へと導くでしょう。ある芸術家が人間の運命は自分のコントロールを超えた力によって決定されるという前提をもっていた場合、それはその芸術家の作品を反価値志向(自然主義)へと導くでしょう。この文脈において、芸術家の形而上学的見解の真偽が芸術の本質とは無関係であるように、決定論の哲学的・美学的矛盾は無関係です。ある芸術作品は、人間が求めるべき価値観を投影し、人間が達成すべき人生の具体化されたビジョンを提示するかもしれません。あるいは人間の努力は無益であると主張し、究極の運命としての敗北と絶望を具現化したビジョンを提示するかもしれません。しかしいずれの場合も美学的手段──心理認識論的なプロセスの関与──は同じです。(中略)

 人が哲学的な指針や確認、インスピレーションを必要とするとき──古代ギリシャの芸術と中世の芸術のどちらに目を向けるか、その違いを考えてみてください。一方の芸術──抽象的な思考と目の前の現実との複合的な影響によって、頭脳と感情に同時に到達する芸術は、災厄は一過性のものであり、壮大さ、美しさ、強さ、自信が人間本来の自然な状態だと教えます。他方の芸術は、幸福は一過性のものであり、邪悪であり、人間は歪んでいて、無力で、みじめでちっぽけな罪人であり、ガーゴイルに追われてうろたえながら、未来永劫、地獄の瀬戸際で恐怖のなかを這い続けるのだと教えます。

 両者の経験の結果は明白であり──歴史がその実践の場でした。双方の時代に偉大さや恐ろしさをもたらしたのは、芸術だけではなく、そうした文化を先導していた特定の哲学──芸術にかたちをかえた哲学の声だったのです。(アイン・ランド「芸術の心理認識論」(1965)、『ロマン主義宣言』(未邦訳)1969、所収)

 また、イーノはかつて、警備員に囲まれた美術館に展示されていた、モダンアートの先駆的作品と評価されている(「裸の王様」的にいえば、その実態はアンディ・ウォーホルの「ブリロ・ボックス」同様、単なるゴミだけれども)デュシャンの『泉』(ただしオリジナルは紛失して(廃棄されて)いるので、要するにただのレプリカ)に“小便”をしたことを、その手口を詳細に説明しながら得意げに語っていたが(詳しくはイーノの日記『A YEAR』536頁を参照のこと)、そのバカバカしい事実によって、今ヨーロッパ各地で多発する名画へのエコテロリズムを先導した先駆者としても記憶されてしかるべきだろう。
 しかし、世界各地で開催されるインスタレーションで展示される彼の作品は、すべて温暖化をもたらすCO2を発生させる「電力」がない限りは成立しないものばかりなので、真っ先にエコテロリストたちの標的になってもおかしくないのだが……。

 イーノは、新作のセルフ・ライナーノーツのなかで、アーティストは「感情の商人」だと明言し、「感情」という言葉を過度に強調している点にも違和感をおぼえたが、これもひょっとすると、ランドに対する反感から生まれた発言なのかもしれない。
 実は「芸術家は商人である」と最初に明言したのはランドである。
『肩をすくめるアトラス』のなかで、絶頂期に表舞台から去った(ストライキを決行した)大作曲家リチャード・ハーレーが、鉄道会社の業務副社長ダグニー・タッガートに次のように語りかけている場面があるが、ここでランドは、登場人物の台詞を通じて、己の芸術家としての信念を述べている──

 「ミス・タッガート、私の作品を、あなたほどに重要なものだと思っている人がどのくらいいるでしょう?(……)それが私の要求する報酬なのです。払える人はそうはいません。私が言いたいことは、あなたの楽しみとか感情ではなくて──感情なんてクソ食らえだ!──あなたの理解と楽しみが私の楽しみと同質のものであり、それが同じ根源から来たものだという事実です。それは、あなたの知性から来たものであり、私の作品を、私がそれを書いたのと同じ価値観の基準で判断することができる、あなたの頭脳の意識的な判断力によるものだということ──あなたが感じてくれたということではなく、私が感じてほしいと願ったことをあなたが感じたという事実、あなたが私の作品を賞賛してくれたということではなく、私が賞賛されたかったことをあなたが賞賛したという事実にあります。(……)私は、理由もなく、感情的に、直感的に、本能的に──あるいは盲目的に賞賛されることなどどうでもいい。(……)心によって賞賛されることなど気にかけておらず、ただ頭脳によって賞賛されることだけを気にかけているのです。そしてそのかけがえのない能力をもった聴き手に出会えたとき、私の演奏はお互いの利益のための取引となるのです。芸術家は商人なのです、ミス・タッガート、あらゆる商人のなかでもっとも厳しく、もっとも冷徹な商人なのです」(アイン・ランド「芸術家の本質」、『新たなる知識人のために』(未邦訳)1961、所収)

 ランドは、合理的人間としての芸術家にとって、重要なのは「感情」(feeling)ではなく「理性」(reason)であり、芸術作品もまた最終的に鑑賞者の理性によって判断されてこそ、資本主義と同じように、互いに利益をもたらす「自発的な交換」となり、ゆえに芸術家は「あらゆる商人のうちでもっとも冷徹な商人」なのだと唱えているわけだが、いっぽうで芸術家を「感情の商人」とみなすイーノの“手口”は、「The Guardian」等の左翼メディアで、声高に資本主義の破壊を唱えることで土壌を形成し、気候変動による人類絶滅を主張しながら、「何を信じ、どう行動すべきかを伝えるプロパガンダ・ソングはありません」などと、いけしゃあしゃあと呟き、合理的な根拠なしに自身の作品を通じて、茫漠たる音響の霧のなかを手探りで彷徨わせては、鑑賞者の「感情」(feeling)に訴えかけることによって、聴き手の理性を無効にさせ、「なんとなくそんなふうに感じる」ように仕向けて「洗脳」する、胡散臭いどこかの新興宗教の霊感商法とさして変わりはなく、いやそれどころか、それこそ全体主義の独裁者の魂胆そのものといってよい。

 感情とは、人間の価値判断が潜在意識によって統合された「自動的な結果」であり、それは人間の価値を高めるものや脅かすもの、自分に賛成するものや反対するものを見積もっています──感情は、自分の損益の合計を一瞬にしてはじきだす計算機なのです。(……)

 人間は、認知のメカニズムと同じように、感情のメカニズムを備えて生まれてきますが、生まれた時点ではどちらも“タブラ・ラサ”です。双方の内容を決定するのは、人間の認知能力、つまりその「頭脳」です。人間の感情のメカニズムは、頭脳がプログラムしなければならないコンピュータのようなもので、そのプログラムは、その頭脳が選択するさまざまな「価値観」で構成されています。

 しかし、人間の頭脳のはたらきは自動的なものではないので、それらの「価値観」は、すべての「前提」と同様に、その人の判断あるいはその人のごまかしの産物です。人間は、それらの「価値観」を意識的な思考プロセスによって選択するか──あるいはそれらを既定のものとして、潜在意識的に想起される社会的な浸透度あるいは盲目的な模倣、信仰あるいは何者かの権威に基づいて受け容れます。感情とは、意識的あるいは潜在意識的に、明示的あるいは暗示的に、人間が保持する「前提」によって生み出されるものなのです。(「客観主義の倫理学」)

 じっさい環境保護運動を強力に推し進めた最初の政権こそがナチス・ドイツだったわけで、「ナチズムには、合理主義や資本主義に対する根強い敵意があり、人間の行動様式を(彼らの言う)“自然の法則”に従わせるよう政府の力で改変しなければならないという発想がある。ナチズムから民族差別や軍国主義、世界政府の野望を差し引き、地球温暖化を付け加えれば、ほぼ今日の環境原理主義とイコールである。環境原理主義と社会主義もつながっている」と、ルパート・ダーウォールが『緑の専制』(未邦訳)の中で指摘しているように、先のイーノの発言にあった「身を委ねる(surrender)」ことが人間の本来的性質(nature)に即しており、それこそが「自然の法則」にかなっているのだという思想の根底には、全体主義の教義と共通する危険きわまりない「毒素」が含まれている。

 ちょうど野蛮人が自然現象を、疑問や分析を受けつけない、それ以上遡れない本源として、未知なる魔物の占有領域だと考えたのと同じように──今日の認識論的野蛮人は、芸術を、疑問や分析を受けつけない、それ以上遡れない本源として、一種の未知なる魔物、すなわち感情の占有領域だと考えているのです。唯一のちがいは、先史時代の野蛮人たちの誤ちはに邪な意図はなかったということだけです。(「芸術の心理認識論」)

 生楽器の演奏家ならともかく、大量に電力を消費して「作品」をつくり、その作品を塩化ビニールやプラスチックを使用したパッケージ商品として大量に流通させ、過去50年間にわたって消費資本主義の恩恵にあやかることで世界的な名声を確立し、さんざんCO2を撒き散らしておきながら、今になって化石燃料を使うな、資本主義をやめろ、と主張する──これを偽善と呼ばずして何と呼ぶのか。
 脱炭素化を推進したいのなら、「資源採取の激しい無駄を数多く生む消費資本主義」を実践する、そうした自分の活動こそ、「いい加減終わりにしなければいけないし、これ以上長く維持するのは不可能だ」と「いい加減」気づきそうなものだが、そうした反省の色はまったくみられない──これを矛盾と呼ばずして何と呼ぶのか。

 イーノは、先日京都で行われたインスタレーションにも来日することはなかったが、その理由は、グレタと同じく、飛行機で長距離移動することで化石燃料の消費に加担したくないから(いわゆる「飛び恥」)ということだったという。そこまでして気候変動による温暖化を阻止したいのなら、自身も作品を発表するたびに大量生産されるフィジカルな商品化をやめ、配信だけで音楽を発表したらどうか。
 また、あるインタビューでは、「ある程度歳をとるとお金は重要でなくなる」と発言しておきながら、今回のアルバムも、CD(国内盤はジャケットに「再生紙」を使ったせいなのか、3410円という常識外れの定価になっている)、アナログ(10000円超の法外な価格で販売されているクリアヴィニール仕様もある)、ドルビーアトモス仕様のBlu-ray、おまけにTシャツまで販売して、ガッポリ稼ごうとしているが、いっそのこと次回作は無料で配布してみたらどうか。
 「NFTのせいで、アーティストまで資本主義のチンケなクソ野郎になってしまう」と下品きわまりない言葉で罵っておきながら、もはや本人が主張していることと実践していることが完全に矛盾している。人々に実践できない道徳を説いて罪悪感を植えつけておきながら、裕福な知的エリートたる自分だけは例外だと言うのだろうか。「資本主義のチンケなクソ野郎」はどっちだ?

 これからもイーノは、「認識論的野蛮人」として、ランドに対する嘲笑的な発言を繰り返しながら、資本主義を真っ向から否定することで、あたかも自分が人類を救う英雄であるかのように勝ち誇った微笑を浮かべては、世界中で莫大な電力を消費する「アート」を平然と量産し続けていくのだろう(勝手にやってくれというほかはないが)。
 しかし、彼もまた、今や世界的名声を誇る「スーパーリッチ」なアーティストとしての自らの特権を利用して、「利他主義」という「猛毒」を撒き散らし、「脱成長というおとぎ話」によって人類を破滅へと追いやろうとする、悪質で有害な活動家の一人であることに、人々はそろそろ気づくべきではないか。

 「客観主義の哲学は世界の現状に対する解毒剤である」と述べたのは、ランドの高弟であり、その遺産管財人でもある哲学者のレナード・ピーコフ博士だが、この浄化装置(この装置は(哲学的基盤をもたないリバタリアニズムとはちがって)「形而上学」「認識論」「倫理学」「政治理論」「美学」という5枚の高性能フィルターを備えている)を通してみると、イーノに限らず、資本主義を悪しざまに罵りながら、社会主義・集産主義・利他主義の教義を説いて、世界中に「猛毒」を撒き散らす、死にぞこないの左翼くずれのボケ老人たちの虚言に隠された「邪な意図」が明瞭にあぶり出されてくるのは紛れもない事実である。

先述のイーノの日記を読むと、彼の友人で名門スタンフォード大学出身の環境活動家スチュアート・ブランドとのやりとりが頻繁に登場することに気づく。ランドが忌み嫌うヒッピー・カルチャーの体現者であり、ヒッピー向け雑誌『全地球カタログ』の編集・制作者で、現在も胡散臭いロング・ナウ協会なる団体の代表者を務めるこのブランドこそ、現在の環境保護運動のルーツを形成し、今なおその中心にいるあやしげな人物である。
 また、先日の来日イベントで、ヤロン・ブルック氏が名指しで批判していたスタンフォード大学の名誉教授のポール・R・エーリックは、1968年に出版された『人口爆弾』という著作で、人口増加によって1970年代に人類が滅亡すると声高に唱えた危険人物である(ブルック氏は、彼の「予言」がことごとく外れており、科学的にまったく信用できないことを厳しく糾弾していた。)

 実はイーノの親友であるスチュアート・ブランドの指導教授が、このエーリックであり、エーリックの出鱈目な主張がブランドを介してイーノに「伝染」し、それが現在のイーノの環境保護に関する奇矯な言動につながっているとも考えられる。ランドの『反-産業革命』という講演が、当時のエーリックらの主張に対する哲学的抗議だったことを踏まえると、現在のイーノによるランド批判は、50年前のイデオロギー的対立を引き継いでいるといえるのかもしれない。

 ともあれ、(環境原理主義者としての)ブライアン・イーノについての批判はこのへんにして、ふたたび先日のブルック氏の話を紹介しておくと──

「すべての進歩やイノベーションというものは、人間の理性によって──人間が頭脳によって新しい発見をしたり、新しい何かに挑戦したりする、その一点にかかっているのです。イノベーションや進歩を実現するというのは、人間のその自由な心──自由なマインドによってアイデアを思いつくだけではなく、思いついたアイデアを実行に移し、試行錯誤して実際に何かを生み出すということによって初めて成立することです。それが起こるためには、人間が自由に考え、自由に行動し、自由に失敗し、自由に成功して成果を生み出すこと、これが必要です。人間が自由に考え、行動することができるためには、それを可能にする社会のシステムが必要なのです。
 ですから、いかなる形でも、人間の未来を良くするために、人間の現状を良くするためにという名目で、人間の行動力や、自由を規制しようとする動きが出てきたら、それには疑問をもつべきです。その意味では、社会主義というのは必然的に失敗するほかはないのです。なぜならば、人間が自由に考え、行動するということそのものを抑制しようとするシステムなのですから。
 したがって、気候変動が本当に破滅的な深刻な危機だとするならば、ここで必要なのは、何よりも、自由に考え、自由に行動し、果敢にイノベーションを起こす人間の頭脳であるということです。もし気候変動が本物の危機であれば、私たちは裕福な人たちが必要なのです。裕福な人たちがその富を使って問題に対処するからです。富があることによって、住宅を木材ではなくコンクリートで造ったり、気象を予想して、その対処したり、いろいろな技術を使うことが豊かさによって可能になります。
 砂漠の真ん中に大都市を造ってそれを維持できるのはなぜでしょうか。それは、技術によって水や電気やエアコンを供給し続けることができるからです。裕福な社会になる前は、砂漠の真ん中に都市を建設するなどということは不可能でした。今じっさいにそうであるように、もしラスベガスやアリゾナ州フェニックスのような砂漠の真ん中に都市を建設し、維持することができているとすれば、なぜ気候変動を心配する必要があるのでしょうか。
 暑くなったら富を使って冷房を使うことができるわけです。もしあなたが裕福であるならば。海面の上昇が起こると言われていますが、これも心配することではありません。もし海面上昇が科学的に実証されたとしても、たとえばアムステルダムをみてください。この100年以上、海抜以下で都市が維持されているわけです。海抜以下の都市で生きるために堤防が建設されているわけです。もう100年以上前の技術で堤防が建設され、維持されています。今私たちは富を使って、もっと安く、もっと良い、もっとすぐれた堤防を建設することができます。ですから気候変動がもし本当に問題であるのなら、解決策は、より早く富を蓄積し、より早く裕福になることなのです。より豊かになるために必要なのは、もっと自由に、もっと資本主義的に、そしてもっと政府の介入を少なくすることです。
 そして、早く裕福になるためには、安くて効率的なエネルギーが必要です。そして現在もっとも安くて効率的なエネルギーは化石燃料です。そして、(『肩をすくめるアトラス』に出てくるような)化石燃料よりももっと安くてもっと効率的なエネルギーがあるかもしれないのです。それを発見して使うためには、自由な市場において、それが自由に発見されることを許すべきです。それは国や政府の補助によって行うのではなく、自由市場によって行うべきなのです。
 ですから、現在の解決策は、エネルギーセクターから政府の規制を撤廃して、自由な需要ができるようにすることです。究極的には、自然からどんな課題が突きつけられても、解決策は自由を減らすことではなく、自由を増やすことにあるのです」。

 最後に、もう一度(しつこいようだが)、「客観主義の倫理学」からアイン・ランドの言葉を引用する──

 政府の唯一の適切で道徳的な目的は、個人の権利を守ることです。つまり、物理的な暴力から人間を守り──人間の生命、自由、財産、幸福を追求する権利を守ることです。私的財産権がなければ、他の権利は成立しません。(……)

 道徳的・哲学的な擁護と妥当性確認がないために破壊されたものこそ、米国発祥の制度である「資本主義」なのです。もし資本主義が滅びるとすれば、それは発見もされず、正体も不明なまま、不戦敗というかたちで滅びるでしょう。これほど多くの歪曲、誤解、不正確な説明によって隠ぺいされてきたテーマは他にありません。今日、資本主義とは何か、どのように機能するのか、その実際の歴史はどうだったのかを知る人はほとんどいません。

 わたくしが「資本主義」と言うとき、それは完全で純粋な、制御も規制もされていない自由放任の資本主義を意味しており──国家と教会の分離と同じ方法、同じ理由において、国家と経済の分離が必要とされるものです。純粋な資本主義制度は、米国でさえもまだ一度も実現していません。その誕生から資本主義は政府のさまざまな規制によって、弱められ、歪められてきました。資本主義は過去の制度ではありません。それは未来の制度なのです──もし人類に未来があるのなら。

 

(註1)ランドは、1969年、ボストンのフォード・ホール・フォーラムで行われた講演で、ニーチェと自身の形而上学の決定的な違いについて、次のように述べている。「ニーチェは、『悲劇の誕生』において、ギリシャ悲劇における二つの相反する要素を観察し、それを現実の本質に内在する形而上学的原理として捉え、ギリシャの二つの神にちなんで、光の神《アポロ》と酒の神《ディオニュソス》と名付けました。ニーチェの形而上学では、アポロは美、秩序、知恵、効力の象徴であり(ただし、この最後についてニーチェは言葉を濁していますが)──すなわち理性の象徴です。ニーチェは、ディオニュソスが象徴するものとして、酩酊を引き合いにだしていますが、それは野生、原始的な感覚、堕落した快楽、暗黒、野蛮、人間の中の理解できない要素──すなわち感情の象徴です。
 ニーチェによれば、アポロはなくてはならない要素ではあるものの、信頼できない、したがって劣った存在のガイドであり、人間に現実の表面的な見方、すなわち秩序ある世界という幻想を与えるものです。ディオニュソスは──酒と薬物によって引き起こされる神秘的な直観によって──自由で拘束を受けない精神であり、人間に別の種類の現実のより深いビジョンを提供し、したがってより高位の存在だとしています。そして、ディオニュソス的に酩酊した表現で述べられているものの──ニーチェは自分の言っていることを明確に理解しており──アポロが個人的人格の原理を表す一方、ディオニュソスは人間を「完全な忘我」へと導き、自然との「調和」のなかに融合させるとしています。(表面的に読むだけで、ニーチェを利己主義の擁護者であると受けとめている人は注意してください)。
 これだけは言えます。それは理性とは個人の能力であり、個別に行使されるべきものだということです。そして暗い、不合理な感情だけが、その頭脳を消し去り、人間が暴徒や部族のなかに溶けこみ、融合し、次第に薄れてなくなることを可能にするのです。私たちは〔アポロとディオニュソスという〕ニーチェの象徴を受け入れたとしても、双方の価値に対する彼の評価や、理性と感情の二項対立の形而上学的必然性を受け入れることはできません」。(「アポロとディオニュソス」、『新左翼:反-産業革命』(1971)所収)

(参考文献)
・Rand, Ayn. For The New Intellectual, New York, Random House, 1961
・Rand, Ayn. The Virtue of Selfishness: A New Concept of Egoism , New York, Signet Publishing, 1964
・Rand, Ayn. The New Left: The Anti-Industrial Revolution (Return of the Primitive: The Anti-Industrial Revolution), New York, Meridian, 1971
・Rand, Ayn. The Romantic Manifesto (Second Revised Edition), New York, New American Library, 1975
・Rand, Ayn. Philosophy: Who Needs It, New York, New American Library, 1982
・Rand, Ayn. Ayn Rand Answers, edited by Robert Mayhew, New York, New American Library, 2005
・Peikoff, Leonard. The Philosophy of Objectivism: A Brief Summary, Ayn Rand Center for Individual Rights, Washington, DC, 2008
・Biddle, Craig. Libertarianism vs. Radical Capitalism, November 20, 2013, The Objective Standard
https://theobjectivestandard.com/2013/11/libertarianism-vs-radical-capitalism/
・Ridpath, John. Ayn Rand Contra Nietzsche, February 21, 2017, The Objective Standard
https://theobjectivestandard.com/2017/02/ayn-rand-contra-nietzsche/
・ハンス・ロスリング他『FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』(上杉周作、関美和訳、日経BP、2019年)
・ヤロン・ブルック『アイン・ランドと利己主義の美徳 自分のために生きる哲学』(田村洋一訳、Evolving電子新書、2022年)
・田村洋一『オブジェクティビズム入門 アイン・ランド哲学を学ぶ』(Evolving電子新書、2022年)
・柿埜真吾『自由と成長の経済学「人新生」と「脱成長コミュニズム」の罠』(PHP新書、2021年)
・村井明彦『グリーンスパンの隠し絵(上)』(名古屋大学出版会、2017年)
・有馬純『亡国の環境原理主義』(エネルギーフォーラム、2021年)
・有馬純×岩田温『エコファシズム 脱炭素・脱原発・再エネ推進という病』(育鵬社、2022年)
・有馬純「気候変動対策は全体バランスと費用対効果を考えて──ビョルン・ロンボルグ『誤った警鐘(False Alarm)』」(国際環境経済研究所HP、2020年)

気候変動対策は全体バランスと費用対効果を考えて


・夫馬賢治『ネイチャー資本主義』(PHP新書、2022年)
・ルパート・ダーウォール「発展を阻害する世界銀行 貧困削減に逆⾏する再⽣可能エネルギー偏重」(杉山大志監訳、木村史子訳、タイトル、要約部分のみ山形浩生訳、国際環境経済研究所HP、2022年)
https://ieei.or.jp/wp-content/uploads/2022/07/THE-ANTI-DEVELOPMENT-BANK.pdf
・エリック・タム『ブライアン・イーノ』(小山景子訳、水声社、1994年)
・ブライアン・イーノ『A YEAR』(山形浩生訳、PARCO、1998年)
・FAZE【Sonar 2016】「遊びとは何か?」ブライアン・イーノ、文化の社会的な役割について語る(2016年8月27日配信)
https://www.fuze.dj/2016/08/sonar2016-eno.html
・ビルボードJapan「ブライアン・イーノ 新年に向けてのメッセージを公開! 社会問題に言及しながら2017年の可能性を語る」(2017年1月6日配信)
https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/46090/2
・NME Japan「ブライアン・イーノ、ドナルド・トランプが大統領であることはチャンスだと語る」(2017年1月24日配信)
https://nme-jp.com/news/32657/
・ローリングストーン ジャパン「ブライアン・イーノが語る、ポストコロナ社会への提言とこれからの音楽体験」(2021年1月4日配信)
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/35164/5/1/1
・クーリエ・ジャポン「ブライアン・イーノ『NFTのせいで、アーティストまで資本主義のチンケなクソ野郎になってしまう』」(2022年2月14日配信)https://courrier.jp/news/archives/278644/
・WIRED「ブライアン・イーノ、気候変動危機と“ディープフェイクの鳥”について語る」2022年10月15日配信)https://wired.jp/article/brian-eno-q-and-a/

(オマケ)