2022.02.28
フリッツ・ラングとアイン・ランド──『肩をすくめるアトラス』の映画化をめぐって(その4) ラリー・コール インタビュー
本インタビューは、『肩をすくめるアトラス』の映画化とは直接関係のないものだが、インタビューの最後に、オーストリア出身の大監督フリッツ・ラングとアイン・ランドの邂逅にまつわるきわめて興味深いエピソードが登場するため、表題の趣旨と若干逸れることを承知で掲載する。
ランドは、常々ドイツ時代のラングの超大作『ニーベルンゲン(ジークフリート)』を、映画史上もっとも偉大な作品として称賛していたが(註1)、どうやら『肩をすくめるアトラス』も、ラングに映画化してもらいたいと考えていたようだ。だとすれば、ランドの存命中にこの映画化が果たせなかった理由もスンナリと理解できる(フリッツ・ラングに匹敵する映画監督など(F・W・ムルナウを除いて)誰もいないのだから)。ナチスドイツとソ連という全体主義社会から自由の国アメリカに亡命し、同時代を生きた二人の芸術家のあいだに交流があったという、この知られざるエピソードには、ランドファンのみならず、一般の映画ファンにとっても、格別に感慨深いものがあるといえるだろう。
なお、回答者のラリー・コールは、1973年に自身がホストを務めるラジオ番組でアイン・ランド本人をゲストに招いてインタビューしたことをきっかけに、ランド本人と親しく交流していた人物。作家、教育者、心理療法師として、ハーバード大学とコロンビア大学の協力を得て、児童保護団体であるスチュアート・ブラック青少年研究所を設立し、陣頭指揮を執っていたとのこと。本インタビューでは、ランドの有名人らしからぬオープンな人となりから、進歩主義教育の弊害を激しく糾弾したランドの画期的な教育論『ザ・コンプラチコス』(註2)について、そして最晩年のラングとランドが言葉を交わした現場に居合わせた体験等を教育者としての実直な言葉で伝えている。(インタビューアー スコット・マッコンネル、インタビュー日 1998年8月5日、7日)
──アイン・ランドとはどのようにして出会ったのですか?
ラリー・コール:私はニューヨークで「Growing Up in New York(ニューヨーク育ち)」というラジオ番組をやっていたんです。妻のミシェルと私は、LEAP(Lower East Side Action Project)という、ローワーイーストサイドのストリートギャングたちのためのプログラムを立ち上げ、運営していました。同じようなプロジェクトを行っている団体とは異なり、私たちは政府の助成金を一切受け取りませんでした。このプログラムには、居留、オルタナティブ・スクール、医療プログラムなどが含まれており、もし私たちに子供がいたら提供したいと思っていたものばかりでした。また、『Street Kids』や『Our Children’s Keepers』といった本も書きました。私の作品やラジオ番組では、若者にとって重要な問題を扱っていました。私のラジオ番組には、社会科学、教育、文学の分野で活躍する著名人が登場しましたが、それは彼らの仕事が幼少期や思春期の理解を深める上で重要だと考えていたからです。
アイン・ランドは、私にとって大きな意味を持つ人物でした。ミシェルと私は、アビー・ホフマンやジェリー・ルービンのような左派と一緒にされる傾向がありましたが、政治的には左派ではありませんでした。ミス・ランドの作品、最初は映画『摩天楼』、次にその小説、次に『肩をすくめるアトラス』、そして『新左翼: 反産業革命』に「ザ・コンプラチコス」という教育論を見つけ、大きな影響を受けました。それは、私がこれまでに読んだ中で、公共教育の衰退と凋落に関する最高の、最も簡潔な分析であり、教育がどうあるべきか、どうするべきかの第一原理を提示していました。もちろん、彼女の仕事は重要だと思っていましたし、彼女は私のヒーローでしたから、インタビューしたいと思ったわけです。彼女はぜひインタビューを受けたいと言い、1973年7月20日にインタビューが実現したのです。
──彼女に電話をするのは簡単だったんですか?
LC: 私はまず、彼女の出版社に電話をして、彼女の代理人となっている人にメッセージを残しました。アインから電話がかかってきました。私は彼女に、このインタビューを引き受けてくれないかと尋ねました。彼女の条件は、私が彼女を迎えに行って家から連れて行くことでした。
──彼女は見ず知らずのあなたを信頼して、家に迎えに来てもらい、運転したもらったわけですね。
LC: 電話で話しただけなのに、それは驚きでした。彼女は私のことをとても気に入ってくれたようです。私には著作があったので、彼女はそれを読む機会があったかもしれませんが、私が話した以上に彼女が私のことを知っているのは明らかでした。
私はストリートギャングたちと仕事をしていましたが、彼女はその動機を十分に理解していませんでした。彼女は私のことを、どこか挑戦的で、彼女のレベルに合わせてコミュニケーションをとっているような、どこか逆説的な存在として捉えていたのだと思います。
──彼女はあなたの動機を知りたいと思ったのでしょうか?
LC: そうです。そのことについては話しました。彼女は、私が時間をかけて私たちの動機を明らかにしたことを評価してくれたと思います。つまり、私たちはこの仕事に就く前から利他主義者ではなく、多くの個人的な動機が含まれていることを知っていたのです。
──彼女はゲストとしてどのような存在だったのでしょうか?
LC: 私の第一印象をこの言葉で表現したことはありませんが、「彼女は愉快だった」の一言に尽きます。最初の五分間、彼女はどちらかというと堅苦しく、身構えていて、私がどこから来るのかとちょっと疑っていました。しかし、彼女は本当に素敵で、温かくて、面白い人だということがわかって、私はすっかりノックアウトされました。まるで映画スターにインタビューしているかのようでしたが、彼女はとてもリラックスしていました。私たちは(聴取者から)いくつかの電話を受けましたが、彼女は彼女のことを誤解している人たちに対して強気でしたね。私は彼女のユーモア、聞く姿勢、表現の気安さに驚いたものです。
一緒にいた約1時間のうち、覚えているのは48秒です。私は、ちょっとしたあまのじゃくになったふりをして(わざと反対の立場をとって)、妖精のごとく客観的な立場で熱心に質問をしました。というのも、彼女に関するイメージの歪みを払拭したかったので。当時は極端な時代で、クリント・イーストウッドが「ファシスト」と呼ばれたように、公的な人物は、いちばん刺激的に誇張表現される傾向があったんです。彼女も急進的な左派の人たちにそういうイメージを持たれていましたから。
こうして1時間を一緒に過ごした後、彼女をアパートに送っていきました。少し話をして、彼女は『ザ・コンプラチコス』のモノグラフを送ってくれると言ってくれました。私はそのモノグラフのコピーを受け取りましたが、そこには彼女の直筆で「素晴らしいインタビューをありがとう」と書かれていました。彼女がサインをしたその本を、私はそれを今にいたるまでずっと持っています。
──最初に会ったときの印象はどうでしたか?
LC:正直なところ、私は舞い上がっていたにちがいないんですが、車の中でウェストサイド・ハイウェイを走っている間、なんとかナビゲーションをして会話をしました。
──彼女の態度はどうでしたか?
LC:フレンドリーでしたね。私は彼女がもっと気難しい性格で、早朝からインタビューを受けることに不機嫌になっている、尊大な大女優のような人じゃないかと思っていたのですが、全くそんなことはありませんでした。彼女は、私が快適に過ごせるようにと尽力してくれました。
この関係は予期せぬ偶然のようなもので、お互いが共通点や同じ言語を見つけ、何か価値のあるものを発見するような驚きがありましたね。最初にインタビューを申し込んだとき、彼女は「やれやれ、また反体制的な文化人タイプの人が来た」と思うだろうと思っていました。しかし、そうはならなかった。私たちの能力や誠実さが伝わり、コミュニケーションがとてもスムーズにいったのだと思います。インタビューの依頼から始まり、実際のインタビュー、社交の場での夕食、そして気軽な電話での友人関係へと発展していきました。
インタビューの後、彼女は自宅の電話番号を教えてくれて、「これからも連絡を取り合いましょう。またお会いすることもあるでしょうから」と言ってくれました。私は「ぜひそうしたいし、妻もあなたに会いたがっています」と答えました。それから2〜3週間後、私たちは夕食に招待されました。彼女のご主人にも会い、4人で長い会話をしました。フランク(・オコナー)は、ディナーでの会話にあまり参加しませんでしたが、存在感は十分でしたよ。
夕食の席で、学校のことや、教育や社会の衰退についていろいろ話していたとき、アインがミシェルに「ナット・ヘントフが提起した、アメリカの学校で白人の子供が脅迫されているという記事だけど、この問題の解決策は何だとお思いかしら?」と尋ねたんです。ミシェルは、こう言いました。白人の子供たちが犠牲者である以上、彼らは子供たちを保護するために警察を介入させるつもりだと。彼女は、このような保護は明らかなダブルスタンダードを生み、さらに明確な下層階級を生み出すと考えていました。ミシェルは、「白人の子供たちに、自分たちで戦う方法を教えることが解決策だと思う」と言ったんです。アインは笑って、冗談交じりに「あなたはファシストね」と言いました。ミシェルは笑いました。ミシェルは、アイン・ランドに「ファシスト」と呼ばれたという名誉を手に入れたってことですね。
夜になってからは、もっとじっくりと話し込みました。彼女の頭のなかには、私たちが誰で、何をやっているのか、なぜやっているのか、という巨大な疑問があったようです。それは何度も繰り返されるテーマでした。彼女は、私たちの個人的な生活や、なぜこの仕事をしているのか、学校はどんなところかなどを尋ねてきました。最終的に帰るまで、3~4時間は一緒にいたでしょうか。私たちは誰もがこのイベントを終わらせたくありませんでした。彼女は、私がファシストであると非難することはありませんでしたが、私が活動家であることを非難しました。私はその言葉を受け入れましたが、それは私がその時もそうだったし、今もそうだからです。彼女が私を「活動家」と呼んだとき、私はこう答えました……「似た者同士ですね」。そして彼女は、「それはどういう意味?」と言ってきました。私は「あなたは唱導者ですよね。あなたは理性の優位性を唱えていますが、それは受動的に行われるものではないでしょう。だから、あなたも『活動家』と呼んで差し支えないんじゃないかと思うんです。良い仲間に恵まれましたよ」と答えたんです。彼女は一瞬、何かを考えているかのような表情を浮かべた後、笑ってくれました。彼女は最高の風刺を込めて、ミシェルを「ファシスト」と呼び、私を「活動家」と呼んだだけでなく、自分も「活動家」のレッテルを貼られたことに何の抗議もしなかったわけです。結局のところ、そうしたレッテルの当てにならなさについての話であり、私が予想外のレッテルを彼女に貼り付けたときには、フランクも大笑いしていました。すべてはユーモアでした。私たちはお互いに興味のある分野を探求していました。彼女は、自分と同じようなことをしている知的な人間に出会ったことに驚いたのだと思います。
終盤には、私たちが関わっている子どもたちの具体的な話や、私たちの経験談にも焦点が当てられました。ギャングの縄張りにいることの危険性や、暴力的な行動をとって学校から追い出された子どもたちを扱うことの難しさなどです。もし私がそのような社会階層の若者で、ニューヨークの公立学校に入れられていたら、蓄積された怒りのために何かひどいことをして自分が放り出されていただろうと言うと、彼女は理解してくれた──ある種の光明を認めてくれた──のを覚えています。彼女は、「それでは合理的な対応とは言えないから、みずから立ち去ったほうがいい」という趣旨のことを言っていましたが、私の言っていることは完全に理解していました。
ミシェルは、学校制度は閉鎖すべきであり、教育機関の自由な市場が自ずと形成されるべきだと語りました。
──公立学校の廃止についてのミス・ランドのコメントを覚えていますか?
LC:彼女はじっと耳を傾けていました。彼女はミシェルの意見に同意し、おそらくそれが最善の策であると考えました。劣悪な製品を生産している企業に例えることができます。自由市場では、その企業は自然に死滅するでしょう。アインも同感で、「進歩主義(プログレッシブ)教育は破綻している」と書いたのだと(註3)。だから、進歩主義の信奉者は保育園や学校を運営すべきではないと。
──彼女があなたの信念を知るために質問していたとき、彼女はどのような態度をとっていましたか?
LC:はっきりとした口調で、探りを入れるようにしつこく──時折親しげな態度で、問い詰めてきました。彼女が何か意図を持っていることは明らかでした。それは、ディナーでよくあるようなカジュアルな会話ではありませんでした。私たちは、もっと根本的なことにたどり着きたかったのです。私はそれをとても楽しみました。私が尊敬している人が、私たちの哲学にこれほどまでに興味を示してくれたことは、私が予想していなかった役割の逆転でした。
──彼女はあなたのストリートキッズとの活動をどう思ったのでしょうか?
LC:彼女はそれが良いことであり、ベーシックなものだと思っていました。彼女にその判断の基準枠があったとは思いません。彼女が「利他的」なことをする人間を称賛するわけではなかったにしても。基本的には、これが私たちの家族でした。私は心理学者としての訓練を受けていましたが、ミシェルと私が特別だと思っていた子供たちとの間に「プロ」として距離を置いて、机の後ろに座っていたくはありませんでした。
私たちがやっていることを賞賛してくれているのがよくわかりました。私たちの経験について話すようになると、彼女はより共感してくれたようです。私が特に意識しているのは、双方の考え方が変わったということです。双方ともに、大きな問題ではなく、教育制度や少年司法制度がどのようにして、どのような仕組みになっているのかを理解することができたのです。
──これらの問題とその解決策について、彼女は自分の意見を述べましたか?
LC:彼女は寛容性について語り、「ザ・コンプラチコス」で私たちが学んだ、進歩主義教育の論理的帰結としての薬物依存症などの話を展開しました。
「ザ・コンプラチコス」を読んだのは、この国が全く混沌とした教育騒動の真っ只中にあった時で、その記事は私の目頭を熱くさせました。それは感謝の涙でもありました。特に彼女が翻訳してくれたヴィクトル・ユーゴーの『笑う男』の一節(註4)に対しての。私はアインに、「早速、教育界の大物たちにこの記事を送りましたよ」と言いました。記事に小さなメモ書きをつけて送ったのですが、そこにはこう書かれていました。「あなたがたはこれを読むべきだと思うし、私たちは話し合うべきだ」と。しかし、その時ばかりは彼らは返事くれませんでした。まったくのなしのつぶてで、それっきりでした。
──なぜなのでしょうか?
LC:私は、人々が、ある種の哲学を死守することで、論理的であることや、他のレベルの現実を受け入れることを妨げてしまっているように思います。隠喩的にいえば──教育者たちはそれぞれ、異なる言語をその記事のなかに見ていたのです。その言語は、翻訳できない、あるいは翻訳できたとしても攻撃的で「正しくない」のだと。
──どのような心理学の流派に影響を受けましたか?
LC:B.F.スキナーと行動主義です。
──アイン・ランドにそう言ったのですか?
LC:そうです。
──彼女はあなたと意見が合わなかったのでは?
LC:ええ、彼女はスキナーのことをあまり好きではないようで、それにはちょっと驚きました。なぜなら彼は、心理学における一般的な神秘主義に賛同していなかったので。いろいろな選択肢があるなかで、彼女は私が下した選択を尊重してくれたと思います。たとえ、彼女が慇懃に反対していたとしても。
──その夜のディナーでのミス・ランドとの会話について、他に何かありませんか?
LC:様々な話題に触れ、もちろん、私たちの原点にも触れました。ミシェルは、彼女がロシア系ユダヤ人であること、そして子供の頃を境に宗教的な部分から離れていったことについて議論しました。圏外はありませんでした。彼女のように自由でオープンな会話をする人は──特に彼女のような有名人や芸術的・知的な地位にある人では──滅多にいません。
その後もいろいろな話をしましたが、中でも印象に残っているのは、ある日の電話での会話です。私は彼女に、好きな監督は誰かと尋ねたのです。彼女は「フリッツ・ラング」と答えました。彼女は、本当にやりたいことのひとつとして、彼に会ってみたいと言いました。私は「それは可能だと思います」と答え、数時間後にはフリッツ・ラングと電話で話し、彼女のことを話していました。彼は彼女のことを知っていて、とても尊敬していると言ってくれたので、私は彼女に電話をして、電話越しに2人を引き合わせたのです。彼はロサンゼルス、彼女はニューヨークの自分のアパートにいました。私は、「お二人を引き合わせることができてよかった。楽しい会話をしてください」と言って、しばらくしてから二人のもとを離れました。
一度も出会ったことのない二人が、お互いに尊敬の念を抱いていて、それを正面から相手に伝えようとしていたのです。すぐにランドは、生涯を通じての彼の映画作品を賞賛し、彼を最も偉大な監督だと思っていると言い、ラングは、彼女の作品を非常によく知っていて、彼女に大きな敬意と尊敬の念を抱いていると言いました。その直後、彼は病気で亡くなってしまったので、二人の出会いがどうなったのかはわかりませんが。
──彼(フリッツ・ラング)が具体的に何を褒めたかわかりますか?
LC:彼はアインの一貫性を褒めたんです。彼は私にそう言っていました。私も彼が彼女にそう言ったことを覚えています。彼は特に『摩天楼』について話していたと思います。おそらく映画版のことでしょう。登場人物が素晴らしい一貫性を持っていると彼は思っていました。彼は、彼女について知っていたことから、彼女もそうだということを知っていました。彼は自分のことを妥協しない人間だと思っていました。だから二人はその特性を共有していたのです。
その後、彼女とは何度か話をしましたが、フリッツ・ラングとの会話を話題にすることはありませんでした。なぜなら、彼女はそれを自分だけのものにしたかったのだと思いますし、私もそれを邪魔したくなかったからです。彼女は二人を引き合わせてくれたことに感謝し、私がどのようにしてそれを実現したのかを知りたがっていました。私はそれを謎のままにしておきました。彼女は、自分の文化的なヒーローと長い時間にわたって会話する機会を得たことをとても喜んでいました。同時に、彼の体調が悪いことを残念に思い、そのことを嘆いていました。彼女は、もし自分に選択権があるなら、『肩をすくめるアトラス』はフリッツ・ラングに監督してもらうだろうと語りました。
(スコット・マッコンネル編著『100人が語るアイン・ランドの口述史』、ニュー・アメリカン・ライブラリー、2010年 Scott McConnell, 100 Voices ~ An Oral History of Ayn Rand, New American Library, 2010)より
(註1)ランドは、ラングが監督した『ジークフリート(ニーベルンゲン)』が、あらゆる映画のうちでもっとも傑出した作品である理由について、以下のように述べている──
「映画演出の最高峰として、フリッツ・ラングについて、特に彼の初期作品について触れておかねばなりません。彼のサイレント映画『ジークフリート』(Die Nibelungen / Siegfried、一九二四年、独)ほど、偉大な芸術作品に近づいた作品は、いまだかつて作られていません。他の監督たちも時折それを把握しているようにみえますが、ラングは、単なるセットやカメラアングルの選択よりもはるかに深い意味で、視覚芸術が映画の本質的な部分であるという事実を、完全に理解していた唯一の人物です。「映画」(モーション・ピクチャー)とは、その名の通り、動きのなかに様式化された視覚的構成をもっていなければなりません。
『ジークフリート』の映写を止めて、フィルムの一コマをランダムに切り取ると、いずれも偉大な絵画のように完璧な構図になるといわれています。この映画のすべての行動、仕草、動きは、その効果を得るために計算されています。隅々まで様式化された、すなわち、物語の本質と精神、出来事、場所を伝えるための、むきだしのエッセンスが凝縮されているのです。枝の一本一本が人工的に作られた(画面上ではそうは見えません)壮大な伝説の森も含めて、全編がスタジオ内のセットで撮影されたものです。ラングが『ジークフリート』を撮影している間、彼のオフィスの壁には「この映画にはいかなる偶然も入り込む余地はない」という看板が掲げられていたといわれています。これこそ偉大な芸術のモットーです。どのような分野でも、このモットーを守れる芸術家はほとんどいません。フリッツ・ラングはそれをなし遂げたのです。
『ジークフリート』は、特にストーリーの本質において、あきらかな欠点を有しています。それは、悲劇であり、「悪意にみちた宇宙」という伝説に基づいている点ですが──これは形而上的な問題であり、美学的な問題ではありません。映画監督の創造的な仕事という観点からみると、この映画は、芸術作品と美化されたニュース映像とのちがいを生みだす視覚的な様式化の好例となっています。
潜在的に、映画は偉大な芸術となる可能性を秘めていますが、その可能性は、ただ一つの実例と偶発的な瞬間を除いて、いまだかつて実現されていません。これほど多くの美的要素と、異なる才能の同調を必要とする芸術は、現在のような哲学的・文化的崩壊の時代に発展することはできません。その発展には、必ずしも形式的な哲学的信念が必要というわけではなく、人間に対する根本的な理解、すなわち『生命感覚』によって結ばれた人々の創造的な協調が必要なのです」。(アイン・ランド「芸術と認知」、『ロマン主義宣言──芸術の本質を再定義する哲学』(1969)所収)
(註2)「ザ・コンプラチコス」は、1971年に出版された『新左翼:反産業革命』(新たにピーター・シュワルツによる章を加えた1999年の増補改訂版では、『原始への退行:反産業革命』に改題)において発表されたアイン・ランドによる教育論。ランドの弟子だったバーバラ・ブランデンによって最初に提唱された概念「認識心理」(サイコ・エピステモロジー)を理論化し、現代教育の歪みと危険性を、十七世紀まで実在した、想像を絶する非人間的蛮行を繰り返した犯罪集団「コンプラチコス」に喩えた上で、カント派哲学者ジョン・デューイが提唱した後期プラグマティズムに由来する「プログレッシブ教育」を実践する教育機関の実態に触れながら、保育園から大学までの教育期間を通じて、反-認知的・反-概念的な教育によって現代の青少年の認知能力が根底的に破壊されていくプロセスを、物語作家らしい手法を用いて詳細に解き明かした、今なお注目に値する論考である。
(註3)ランドは、プログレッシブ教育が破綻している理由について次のように述べている──
「子どもの頭脳が骨と同じように可塑性を持ち、知りたいという欲求が二度とないほど高まっている三歳のとき──進歩主義保育園によって──その子は自分と同じように無知な子どもたちの集団のなかに送りこまれます。その子は単に認知的な指導を受けられないだけでなく──認知的な課題を追求することを能動的に阻止されてしまうのです。その子は学びたいのですが、遊びなさいと言われます。どうして? 答えは与えられません。その子は理解させられるのです──その場の空気に漂う感情の波動によって、理解できない大人たちが利用できるあらゆる粗雑な、あるいは名状しがたい手段によって──このへんてこな世界でもっとも重要なことは、知ることではなく、集団と仲良くすることだと。どうして? 答えは与えられません。
何をしていいかわからいのに、何をしてもいいと言われます。おもちゃを拾うと、他の子どもに奪われてしまい、共有することを学ばなければならないと言われます。どうして? 答えは与えられません。一人で隅っこに座っていると、他の人と一緒になるように言われます。どうして? 答えは与えられません。グループに近づき、かれらのおもちゃに手を伸ばすと、鼻を殴られました。怒りに満ちた困惑のなかで泣くと、先生が両腕で抱きかかえて、愛しているわと感傷的にまくし立てます。
動物や赤ん坊、そして小さな子どもは、感情の波動に非常に敏感で、それがかれらの主な認識手段となっています。小さな子どもは、大人の感情が本物であるかどうかを感じ取り、偽善の波動を即座に把握することができます。ベビーベッドの横での先生の機械的な振る舞い──硬直した笑顔、甘ったるい声のトーン、握りしめた手、冷たく焦点の合わない、見ていない目──これらがその子の頭のなかで積み重なり、やがて「いんちき」という言葉を覚えることになります。その子はそれが偽装であることを見抜いています。偽装とは何かを隠すものであり、その子が経験するのは疑念──そして恐怖です。
小さな子どもは、同年代の他の子どもに興味はあっても、大きな関心はありません。日常的なつき合いは、単にその子を困惑させるだけです。その子が求めているのは対等な関係ではなく、認識力のある年長者や、知っている人なのです。幼い子どもたちは、年上の子どもや大人と一緒にいることを好み、兄や姉を英雄視して張り合おうとすることをよく見てください。子どもは、ある一定の成長を遂げ、自分の存在意義を感じられるようになって初めて、「仲間」とのつき合いを楽しむことができます。しかし、その子はかれらの真ん中に放り込まれ、合わせなさいと言われるのです。
何に合わせるの? 何に対してもです。残酷さにも、不正にも、無知にも、愚かさにも、気取った態度にも、鼻で嗤われることにも、嘲笑にも、裏切りにも、嘘にも、理解できない要求にも、望まない好意にも、煩わしい愛情にも、いわれのない敵対関係にも──おまけにすべてを支配する圧倒的な存在感を持つ気まぐれにも。(なぜ他のものではなくこれらに合わせるのでしょうか。なぜならこれらは、指導者のいない、無力で、おびえた、十分に発達していない子どもたちが、野次馬のように行動することを命じられたときの保護装置だからです。より良い種類の行動には思考が必要です。)
三歳児が他の三歳児の集団に引き渡されるのは、狐が猟犬の集団に引き渡されるより悪しき状況にあるといえます。狐は少なくとも、自由に走り回れますが、三歳児は猟犬に求愛され、ずたずたにされながらかれらの愛を求めることになります」(アイン・ランド「コンプラチコス」、『原始への退行:反産業革命』(1971、増補版1999)所収)
「現代の学校のもっとも邪悪な側面のひとつは、思考力のある子が集団に「適合」しようとし、自分の知能(と学業成績)を隠し、『他のグループに受け入れられた子』のように振る舞おうとする光景です。その子は一度も成功することなく、どうしようもなく悩んでいます。『自分のどこが悪いのだろう? 自分には何が足りないのか? かれらが求めているのは何なのか?』。そのような質問を考えること自体がみずからの不備であることを、その子は知る由もありません。この質問は、理由、原因、原則、価値基準の存在を示唆しています──これらは、集団のメンタリティが恐れ、回避し、憤慨するものです。その子は、自分の認識心理(サイコ-エピステモロジー)を隠すことはできず、それが多くの微妙な側面で顕れることを知る由もありません。そして、集団がその子を拒絶するのは、その子の事実に基づく(すなわち判断する)見当識、心理認識的な自負心と恐れのなさを感じ取っているからなのです」(Ibid.)
「学界のジェットセット(成金)連合は、無力感と諦観を意図的に植え付けることによって、アメリカ人の性格を飼いならそうとしています。『プログレッシブ(進歩的)』スクールと呼ばれる無気力の温床は、認知発達を阻止することによって、子どもの頭脳を不自由にさせることに専心しているのです。(中略)しかし、どうやら『進歩的』な金持ちは、何不自由なく育てられた裕福な家庭の子どもたちのように見受けられますが、かれらは、高額な費用のかかる保育園や大学からヒッピーとして現れ、麻痺した脳の残骸を麻薬によって破壊させているだけです。
中産階級は、おそらく近年でもっとも有益な運動である解毒剤を作り出しました。それは、モンテッソーリ教育システムの自然発生的、非組織的、草の根的な復興であり──子どもの認知能力、すなわち理性的能力の発達を目指したシステムです」。(アイン・ランド「それを手放してはなりません」、『誰のために哲学は必要とされるか』(1982)所収)
(註4)ランドは、「ザ・コンプラチコス」の冒頭で、自身の翻訳によるヴィクトル・ユーゴーの『笑う男』の一節を掲げ、現代の左派教育者が実践している利他主義的・集団主義的教育に秘められた暴虐性・危険性をそのパラグラフに託して、鋭く警告を発している。以下は、ランドが翻訳したユーゴーの小説の一節──
「コンプラチコス、もしくはコンプラペケーニョスは、奇怪で忌まわしき漂泊の集団であり、十七世紀には有名だったが、十八世紀には忘れ去られ、今日では知る人もいない(……)
コンプラチコスは、コンプラペケーニョスとも呼ばれ、「子供を買う者たち」という意味のスペイン語の複合語である。
コンプラチコたちは子供を取引していた。
かれらは子供を売り買いしていたのだ。
かれらは子供を盗んだりはしなかった。子供の誘拐はまた別の産業だった。
かれらは子供たちをどうしたのか?
モンスターにしたのだ。
なぜモンスターに?
笑うために。
民衆には笑いが必要であり、王たちにも笑いが必要だった。都会にはフリークスを呼び物とする見世物小屋やピエロが求められており、宮廷にも専属の道化師が求められていた(……)
フリークス製造を成功させるためには、早く手に入れなければならず、小人を作るには小さいうちに始めなければならなかった(……)
それゆえに芸術作品なのだ。教育者がいた。かれらは人間を捕まえては失敗作に作り変え、顔を取り上げては口具をはめた。成長を妨げ、目鼻だちを潰した。人為的に作られた奇形のケースには、独自のルールがあった。それは一つの科学だった。逆向した整形外科手術を想像してみるがいい。神がまっすぐ見つめているのに、この芸術はやぶにらみだ。神が調和を求めたところに、かれらは奇形を求めた。神が完璧を求めたところに、かれらは失敗作を持ち帰った。そして、好事家の目には、失敗作こそが完璧だと映ったのだ(……)
人間を貶める行為は、人間を変形させる行為につながる。道徳的な変形は、政治的抑圧の任務を完了させる(……)
コンプラチコたちには、政治の世界で重宝される「価値を損なう」という才能があった。姿を消すことは、殺すことよりも優れている。鉄の仮面もあったが、これは不手際な手段である。鉄の仮面でヨーロッパ中を埋め尽くすことはできない。しかし、ぶかっこうな香具師なら、あり得ないと思われることなく街なかを通り抜けられる。また、鉄の仮面は引き裂くことができるが、肉の仮面ではできない。自分自身の顔を使って永遠に仮面をかぶらせるのだから、これほど巧妙な手口はない。(……)
コンプラチコたちは子供から顔を奪っただけではない。かれらはまたその子の記憶を奪ったのだ。少なくとも、できる限り多くの記憶を取り除いたのである。その子は自分が受けた損傷のことを知らなかった。この恐ろしい手術は、その子の顔に痕跡を残したが、その子の意識には残っていなかった。せいぜい覚えているのは、ある日、男たちに捕まって眠ってしまい、その後、かれらに治してもらったことくらいだ。何を治したのか? その子は知らなかった。硫黄で焼かれたことも、鉄で切られたことも、何も覚えていない。手術の間、コンプラチコたちは、魔法のように痛みを抑えてくれる鎮静剤を使って、小さな患者の意識を失わせたのだ(……)
中国では、太古の昔から、生きた人間を整形するという特殊な芸術と産業が発達していた。二、三歳の子供を、多かれ少なかれグロテスクな形をした磁器の壺に入れ、蓋も底もなく、頭と足が出るようにするのだ。昼間は、この花瓶を立てておき、夜になると寝かせる。このようにして、子供は成長することなく大きくなり、圧縮された肉とねじれた骨でゆっくりと花瓶の輪郭を埋めていく。この瓶詰めの開発は数年続く。ある時点で、それは修復不可能になる。そうなって怪物ができたと判断したとき、花瓶を割ると子供が出てきて、壺の形をした人間ができあがるのだ」。 (ヴィクトル・ユーゴー『笑う男』より、アイン・ランドによる翻訳に基づく)