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2022.03.06

「アッチラ」と「呪術師」──ウラジーミル・プーチンの認識心理 
Attila and the the Witch Doctor: The Psycho-Epistemology of Vladimir Putin

Category : 思想
Author : 宮﨑 哲弥

 中世ドイツの英雄叙事詩を圧倒的な映像美で描き切った巨匠フリッツ・ラング監督の超大作『ニーベルンゲン二部作』(1924)にも登場するフン族の王アッチラ。五世紀半ばにヨーロッパ全土を恐怖に陥れた実在の暴君であり、残虐きわまりないそのキャラクターは、ヴェルディのオペラをはじめ、さまざまなフィクションで誇張的にカリカチュア化されながらも、人間の悪の本質を体現する象徴的かつ悲劇的な人物として描かれている。

 ダグラス・サーク監督の『異教徒の旗印』(1954)では、残忍非情な悪役を演じさせたら右に出る者はいない容貌魁偉な異色の名優ジャック・パランスが、数多の蛮族を率いるアッチラ大王を演じ、際立った存在感を放つ。サーク自身は「わが最悪の一作」と語っており、映画としての出来(特にそのスケールのショボさ)はたしかに褒められたものではないものの、サークのインタビュー(註1)によると、アッチラという巨大な葛藤を抱えた複雑で曖昧なキャラクターには演出家として惹かれるものがあったようで、その性格描写の肉づけと迫力をみるかぎり、パランス演じるアッチラは、その存在感において、ローマ軍の百人隊長を演じる──ギリシャ彫刻のような風貌で知られた──主役のジェフ・チャンドラーを完全に圧倒していた。

 そういえば、ゴダールの『軽蔑』(1963)には映画監督役でフリッツ・ラング本人が出演し、そこにプロデューサー役でパランスが共演している。ナチス・ドイツの手を逃れてアメリカに亡命したラングと同じく、ボルシェビキの暴虐から逃れてアメリカに渡ったウクライナ移民の息子であるパランス(本名ウォロジミール・パラニューク)の両名が、左翼知識人しか喜ばない、資本主義の否定がテーマの、炭酸の抜けたコーラのようなフランス映画で共演しているのは皮肉な偶然にみえるが、その理由は単に「アッチラ」つながりのゴダール流ギャグだったと考えれば納得がゆく。(?)

 つまらない冗談はさておき、ラングの映画にも登場する「アッチラ」のイメージは若き日のアイン・ランドにも強烈な印象を残したらしく、彼女の文章には「腕力によって他者を支配し、その富を収奪する独裁者」の譬えとして「アッチラ」という呼称が頻繁に登場する。また、「神秘的な信仰や、根拠のない知的権威をふりかざして他人を操る者」の譬えとして、「呪術師」(ウィッチ・ドクター)という呼称を(“気まぐれ”を信奉する神秘主義者や、“理性”への不信を表明し、“存在”を否定する似非知識人に対する皮肉をこめて)しきりに使用する。この二つの元型の概念は、ランドの愛人だったナサニエル・ブランデンが定義・命名したもので、ランドとブランデンが決裂した1968年以降は、あまり用いられなくなったといわれるが、「アッチラ」と「呪術師」に相当する概念は、ブランデンと知り合うはるか以前から彼女の頭のなかにあったようだ。

 ランドは、1961年にアメリカ最大手の出版社ランダムハウスから出版された『新たなる知識人のために:アイン・ランドの哲学For the New Intellectual: The Philosophy of Ayn Rand、未邦訳)の巻頭に収められた表題エッセイにおいて、人類の歴史を通じて存在し、腕力と信仰によって人々を支配してきた「アッチラ」と「呪術師」の概念を詳細に論じた。これは、はじめてランドが小説家としてではなく、一哲学者として、自身の哲学体系を網羅的に述べた長編論考であり、アリストテレスとトマス・アクィナスを除く、ほぼすべての哲学者及びその後継者である現代の「知識人」の反-認知的かつ反-概念的な無能ぶりが容赦なく暴き立てられ、その一方で、資本主義を擁護し、富の生産者たる「実業家」を称揚する、いかにも彼女らしい型破りな(突拍子もない?)存在観・社会観・哲学史観が展開されている。「わたくしは、この二千五百年の文化的伝統に異議を唱えます」──そう宣言するランドは、じっさいに本論考において「アッチラ」と「呪術師」、そして「生産者」という、たった三つの概念を使って、二千五百年間の人類史における文化的事象の変遷を俯瞰的に語りきってしまう。並大抵の芸当ではない。

 そこで今回は、その一部を紹介しながら、「アッチラ」と「呪術師」の関係についてみていきたい──

 歴史上のどの時代においても、ある文化はその時代の支配的な哲学によって判断されます。道徳、政治、経済、芸術に表現されたその知的生活の一般的な傾向によって判断されるのです。プロフェッショナルの知識人は、その文化の声であり、したがって、そのリーダーであり、統合者であり、ボディガードです。アメリカの知的リーダーシップは崩壊しています。アメリカの美徳、価値観、巨大な力は、もの言わぬ地下に散らばっており、知的表現がなされない以上、私的、主観的、歴史的に無力であり続けるでしょう。アメリカは、発言力も防御力もない国であり──知的ボディガードに売り飛ばされ、見捨てられた国なのです。(拙訳、以下同)

 
 ランドは今日の(註:書かれたのは60年以上前だが、むしろ2022年3月現在のバイデン政権下の米国、もしくは岸田政権下の日本のほうがよく当てはまる?)文化的破綻を深く憂慮し、現代文化の弱体化の要因となっている道徳、政治、経済、芸術の腐敗に、さらにその本来の責任を果たせなくなっている知識人の知的不履行(デフォルト)に対し、怒りをあらわにする──
 

 破綻とは、「自分の資源を使い果たした状態」と定義されています。今日の文化の担い手たちが、私たちに提供している知的価値や資源とは何でしょうか。哲学においては、人間の「頭脳」は無力であり、「現実」を知ることはできず、「知識」は幻想であり、「理性」は迷信であると教えられています。心理学においては、人間は無力な自動人形(オートマトン)であり、自分では制御できない力によってすべてが決定され、生得的な堕落に突き動かされていると教えられています。文学の世界においては、「人生とは下水道であり、塹壕であり、イタチごっこにすぎない」という喧嘩腰の主張や、「すべてを愛せよ、美徳の他は」、「すべてを許すべし、偉業の他は」という泣き言めいた禁止令とともに、人間の魂の代表として、殺人者、アル中患者、麻薬中毒者、神経症患者、精神異常者などが並べたてられ──そのうちであてはまるものを自分の魂と同一視するように勧められます。政治の世界においては、地球上でもっとも偉大で高貴で自由な国であるアメリカが、政治的にも道徳的にも、歴史上もっとも血にまみれた独裁国家であるソビエト・ロシアに劣るとされ、アジアやアフリカの未開人たちに富を与えるべきだとされますが、その際、かれらが生み出していない富を、私たちが生み出している事実を謝罪しなければならないのです。現代の知識人をみてみると、罪悪感、パニック、絶望、退屈、そしてあらゆる回避的な雰囲気のなかで──戦闘的な半信半疑、十字軍的なシニシズム、独断的な不可知論、自慢げな自己卑下、独善的な堕落といった特徴をもつグロテスクな光景に直面します。これが自分の資源を使い果たした状態でないとすれば、もはや行きつくところはありません。

 
 続いて、単刀直入に物事の本質をはっきりと特定し、いっさいの躊躇なく「道徳的な確信」をもって痛罵を浴びせる彼女ならではのスタイルで次のように明言する──
 

 文明が危機に直面していることには誰もが同意しているようですが、その性質を定義し、原因を発見し、ソリューションを策定する責任を負うことに関心をもつ者は誰もいません。危機に瀕したとき、道徳的に健全な文化は、その価値観、自尊心、そして十字軍的精神を結集し、正義感あふれる自信をもって道徳的な理想のために闘います。しかし、今の時代はそうではありません。もし知的なリーダーたちに、私たちがそのために闘うべき理想とは何かと尋ねたならば、かれらの答えは──アメリカの犠牲の上に成り立つ、慈悲深い常套句や兄弟愛についての謝罪的な一般論、グローバルな進歩と普遍的な繁栄──といった陳腐なシロップのごときベタベタしたぬかるみであり、そのために、あるいはそのなかでハエ一匹だって死にはしないでしょう。

 
 論を進めるにつれ、知識人の知的不履行を非難するそのトーンはさらに厳しさを増す──
 

 何十年にもわたって、知識人の特徴は、知性が無力だと宣言することでした。かれら現代のゾンビたちは、自分たちが成功したという事実を前に愕然とします──かれらが消してしまった文明の灯に火を点すことができず──かれらが解放した原始的な半獣人の勝利の進撃を食い止めることができず──チャンスを得たところで理性と自由は失敗してきたし、過去の長い夜のように、またしても未来は「信仰」と「腕力」のものになるのだとほくそ笑む、暗黒時代から響いてくる声に対して、かれらは何も答えをもっていません。

 
 ここでいよいよ、人類の歴史を通じて存在し、恐怖と洗脳によって人々を支配し、あらゆる文化の衰退を招いてきた二つの類型「アッチラ」と「呪術師」の概念が登場する──
 

 ごくまれな例外を除いて、資本主義以前の社会では、アイデアの創造にも、富の創造にも、人間の頭脳の創造力が活躍する場はありませんでした。理性とその実践的な発露である──自由取引──は、罪や犯罪として禁じられていました。あるいは、気まぐれに容認を取り消すことができる当局の管理下で、通常は無害な活動として容認されていました。このような社会は、「信仰」とその実践的な発露である「腕力」によって支配されました。知の創造者と富の創造者はおらず、いたのは「呪術師」と「族長」だけです。それを族長と呪術師と呼ぼうが──絶対君主と宗教的指導者と呼ぼうが──独裁者と論理実証主義者と呼ぼうが、いずれにせよ、この二つの姿が、歴史のあらゆる反合理的な時代を支配していたのです。(……)

 これら二つの姿──「信仰の人間」と「腕力の人間」──は、哲学的元型であり、心理的象徴であり、歴史的現実です。哲学的元型としては、ある人間観や存在観の二つのバリエーションを体現しています。心理的象徴としては、どの時代、どの文化、どの社会にも存在する多くの人間の基本的な動機をあらわしています。歴史的現実としては、かれらは人類のほとんどの社会の実際の支配者であり、人間が理性を放棄するたびに権力を握る者なのです。(……)

 
 次に、感覚を通じて現実を認識し、その知覚を認知的に統合する概念作用ではなく、動物レベルの認知能力しかもたない「アッチラ」(註:以下は「アッチラ」を「プーチン」と読み替えて読むことをお勧めしたい。)と「呪術師」のメンタリティ──ランド用語で言えば、認識心理(サイコ-エピステモロジー)──を以下のように分析する。
 

 人間を物理的に征服することが、アッチラの生存方法です。彼は人間を、他の人々が果物のなる樹木や農場の動物をみるように、自然のなかの対象物としてみています。しかし、優れた農夫は少なくとも、果樹や動物には特定の性質があり、特定の取り扱いを要することを知っていますが、アッチラの知覚的なメンタリティは、欲しいものをどうやって作るのかという抽象的なレベルには及びません。動物にとってすべての自然現象が、それ以上遡れない本源であるように、彼にとって、人間は自然現象であり、それ以上遡れない本源なのです。

 アッチラは、人間がどのようにして自分の欲するものを生み出すことができるのか、理解する必要も説明する必要も、そして疑問に思う必要もないと感じています──そのような問題を考えることを拒否している彼の頭のなかで「どうにかなる」は、十分に納得のいく答えであり、「どうやって?」「どうして?」などの疑問を、あるいは同一性や因果関係などの概念を考えようとはしません。その「衝動」が告げるのは、人々の肉体と物品を手に入れるために彼が必要とするもの、より大きな筋肉、より大きな棍棒、または多くの囚人の群れです。そうすれば、かれらの肉体は彼の命令に従い、どんな気まぐれでも満たすことができるというわけです。獲物を狙う獣のように人間に近づくばかりで、自分の行動の結果や犠牲者を消尽する可能性は、彼の意識には入ってこないのです。彼のものの見方には生産力は含まれていません。彼にとって、破壊力、腕力は形而上学的に全能なのです。

 アッチラは創造することを考えず、支配することだけを考えます。近隣の部族を征服しても、大陸を制圧しても、物質的な略奪が彼の唯一の目的であり、それは占領という行為で終わります。彼には他の目的も、計画も、征服された者に課すシステムも、価値観もありません。彼の楽しみは、知覚よりも感覚のレベルに近いものです。食べ物、飲み物、豪華な住居、贅沢な衣裳、無差別のセックス、肉体的な屈強さの競い合い、ギャンブル──概念レベルの意識を必要としない、または使用することのない活動ばかりです。彼は自分で快楽を作り出すのではなく、周りの人たちが好ましいと思うものを欲しがり、追求します。欲望の領域においても、彼は創造するのではなく、ただ接収するのみです。

 
 「アッチラ」がフィジカルな武力行使によって恐怖を植えつけることで人間を支配するのに対し、「呪術師」が人間をその支配下に置くための策略は、相手の「自尊心」を破壊し、自己の意識を拒絶させるように設定された「道徳」によってはじめて可能になるとランドは指摘する──
 

 アッチラが棍棒を使ってかれらの服従を強要したのに対し、呪術師はもっと強力な武器を使って服従を獲得します。すなわち「道徳」を。

 道徳を奴隷化の武器にするには、道徳を人間の理性や自分の存在目的から切り離す以外に方法はありません。「道徳」と「実践」の致命的な対立のほかに、人間の地上での生活を低下させる方法はありません。道徳は、人間の選択や行動を導くための価値規範であり、それが自分の人生や頭脳に反するように設定されていると、人間は自分自身に反発し、盲目的に自分を破壊する道具として行動するようになります。人間に生贄としての役割を受けいれさせるには、「自尊心」を破壊するほかに方法はありません。その自尊心を破壊するには、自分の意識を拒絶させるほかに方法はありません。自分の意識を拒絶させるには、その無力さを納得させるほかに方法はありません。(……)

 呪術師の力の秘密は、人間が、その必要性に気づいているかどうかにかかわらず、統合的な人生観、すなわち「哲学」を必要としているという事実にあり──そして、無知、臆病、精神的な怠惰によって、人々がその必要性から目を背けることを選ぶたびに、慢性的な罪悪感、不安、恐怖によって、呪術師の哲学こそが真実だと感じてしまうのです。(……)

 人間の認識論──より正確には認識心理(サイコ・エピステモロジー)、すなわちその認識方法──は、人間を分類するためのもっとも基本的な基準です。この点で一貫している人はほとんどいません。ほとんどの人は、状況や問題に応じて、完全に合理的な瞬間からほとんど夢遊病のような昏睡状態まで、意識のレベルを切り替えているのです。しかし、人類史における戦いは、優勢な一貫性をもった人々によって争われ、決定されます。つまり、善かれ悪しかれ、自分の選んだ認識心理とそれに付随する存在観にこだわり、それに突き動かされている人々です──そしてそのエコーに呼応しながら、他の人々の魂が点滅するように入れ替わり、支持したり反対したりしているのです。

 
 両者は、互いに相手を軽蔑し合いながらも、必然的に互いを必要とし、一体となることではじめて機能しているのだとランドは考える──
 

 アッチラは、自分に欠けているものを呪術師が与えてくれると感じています。それは、長期的な視野、明日や来週、来年の暗い未知の世界に対する保険、自分の行動を承認し、犠牲者を武装解除するための道徳的価値規範です。呪術師は、アッチラが生存のための物質的な手段を与えてくれ、物理的な現実から守ってくれ、実際の行動の必要性を省いてくれ、自分の権威に挑戦しようとする不逞の輩に、神秘的な戒律を強要できるようにしてくれると感じています。どちらも人間の不完全な部分であり、互いに完成を求めています。腕力の男と感情の男は、頭脳をもたずに生きることを求めているのです。(……)

 こうしてアッチラと呪術師は同盟を結び、それぞれの領域を分担します。アッチラは人間の肉体的な存在の領域を支配し──呪術師は人間の意識の領域を支配します。アッチラは軍隊に下層民をかき集め──呪術師は軍隊の目標を設定します。アッチラは帝国を征服し──呪術師はかれらの法律を書きます。アッチラは略奪を行い──呪術師は犠牲者たちに、物質的な財産への利己的な関心を超えるように諭します。アッチラは虐殺を行い──呪術師は生き残った人々に、惨劇は罪の報いであると宣言します。アッチラは恐怖によって支配し、人々を常に破壊の脅威にさらし──呪術師は罪悪感によって支配し、人間に生得的な堕落、無力、無価値を確信させるのです。アッチラは人々の地上での生活を生き地獄に変えてしまい──呪術師はそれ以外の道はないと告げます。(……)

 
 理性が否定され続けた中世の暗黒時代を経て、トマス・アクィナスによるアリストテレス哲学の再発見がルネッサンスを導き、「公然たる神秘主義」は一掃される。やがて、それが産業革命につながり、「アメリカ合衆国建国の父たち」によって、人類史上はじめて「アッチラ」と「呪術師」に支配されない《生産者》の時代が到来し、「資本主義」が誕生するのだが……
 

 歴史上、アッチラでも呪術師でもない、《生産者》に導かれ、支配され、創造された最初の社会がアメリカ合衆国でした。その政綱に込められた道徳律は、呪術師の自己犠牲の規範ではありません。その憲法に具現化された政綱とは、アッチラの残忍な力への白紙委任状ではなく、将来のアッチラの野望に対する人間の保護でした。

 建国の父たちは、死を崇拝する受動的な神秘主義者でも、権力を求める無知な略奪者でもなく、政治集団としては、歴史上前例のない現象でした。かれらは、思想家であると同時に行動家でもあったのです。かれらは、魂と肉体の二分法を否定し、その二つの従属項、すなわち人間の頭脳の無力さとこの地上の呪いを否定し、人間の形而上的な運命としての苦しみの教義を否定し、人間が幸福を追求する権利を宣言し、人間の適切な存在に必要な条件を、かれらの知性の「他人の手を借りない」力によって地上に確立することを決意しました。

 人間の意識の概念的レベルに基づき、それに合わせた社会、つまり理性の哲学に支配された社会には、恐怖や罪悪感の支配は存在しません。「理性」には「自由」、「自信」、「自尊心」が不可欠であり、考える権利、考えたことに基づいて行動する権利──自分自身の独立した判断によって生きる権利を必須とします。知的自由は政治的自由なしには存在せず、政治的自由は経済的自由なしには存在せず、自由な頭脳と自由な市場は必然的な結果なのです。

 建国の父たちによって基礎が確立された前例のない社会システム、十九世紀に手本やパターンを示し──文明世界のすべての国に広まった条件──それが「資本主義」でした。(……)

 資本主義は、すべての人間に──最高の合理性を求め──それに応じて報酬を与えます。好きな仕事を選び、それに特化し、自分の製品を他人の製品と交換し、自分の能力と野心の赴くままに達成の道を歩む自由が、すべての人間に与えられているのです。彼の成功は、その仕事の客観的な価値と、その価値を認識する人々の合理性にかかっています。人間が理性と現実を唯一の判断基準として自由に取引を行い、いかなる者も他者の同意を得るために物理的な強制力を用いてはならないとするとき、人間の努力のあらゆる分野で勝利を収めるのは最良の製品と最良の判断であり、人類の生産活動に参加するすべての人々の生活──そして思考の──水準をこれまで以上に高めるのです。(……)

 
 しかし、ここから、デカルト、ヒュームを嚆矢とし、カント、ヘーゲル、マルクスを筆頭とする「哲学」の名を借りた「アッチラ主義」と「呪術理論」に染まった《知識人》と、資本主義の申し子たる《実業家(ビジネスマン)》の対立がはじまったとランドは指摘する──
 

 この複雑な人類の協力体制のなかで、進歩する一対のモーターとして、システム全体の統合者として、最高の頭脳の成果を社会のあらゆるレベルに運ぶ伝達ベルトとして、二つの重要な役割を担う人間がいます。それが《知識人》と《実業家》です。(……)

 《実業家》は、最高の仕事をして、人間を空前の物質的繁栄に導きました。しかし、双子の兄弟である《知識人》は、彼を売り渡し、かれらの共通の源泉を裏切り、自分の仕事に失敗し、人間を精神的に破綻させました。実業家は、人間の生活水準を高めました──ところが、知識人は、人間の思考水準を無力な野蛮人のレベルにまで低下させたのです。(……)

 「呪術師」の前提、道徳的価値、立場を受けいれた知識人たちは、「実業家」と「アッチラ」を、「富の生産者」と「略奪者」を区別しようとしませんでした。呪術師同様、かれらは、物質的現実の領域を軽蔑し、恐れていました。呪術師が抱いていたのと同様、現実的で成功した男、現実の真の支配者という、かれらの秘密のビジョン(かれらが恐れ、うらやむ理想の姿)はアッチラでした。呪術師同様、かれらは力、詐欺、嘘、略奪、収奪、奴隷化、殺人が実用的であると信じていました。ゆえに富の源泉を問うこともなければ、それを可能にしたものは何かを問うこともありませんでした(因果関係は幻想であり、刹那的瞬間だけが現実であると教えられてきました)。富は腕力によってのみ獲得できることを公理とし、それ以上遡れない本源とし──そして、そのような財産は略奪の証拠であり、それ以上の区別や審理は不要としたのです。

 
 彼女曰く、ルネッサンス期の「アッチラ」が自分の「呪術師」を探していたように、産業革命期の「知識人たち」は自分たちの「アッチラ」を探していた。そして、利他主義的な道徳観がかれらを結びつけ、必要な武器を与える。かれらがお互いにみつけたその武器こそ「社会主義」であり、さらに社会主義者が主導する反産業革命によって「呪術師」と「アッチラ」は統合される──
 

 自由に対する反乱を起こし、絶対的な国家の復活を要求したのは、実業家でも、労働者でも、労働組合でも、封建貴族の残党でもなく、知識人たちでした。理性の守護者と言われている者が、人類を残忍な暴力の支配に戻したのです。

 知的サロン、歩道のカフェ、地下のビール店、大学の教室に端を発し、十九世紀を通じて成長し、指図された反産業革命は、呪術師とアッチラ派を統合したのです。かれらは、銃口を向けて思想を強制する権利を求めていました。つまり、政府の権力を使えば、政府の機構を支配する人々の意見や希望どおりに、他の人々を服従させることができるのだと。かれらは、国家を「善の形態」として称賛し、人間をその堕落した召使とし、社会主義国家のバリエーションを、利他主義道徳のバリエーションと同じくらい多く提案しました。しかし、どちらの場合も、バリエーションは表面上のお遊びにすぎず、「人喰い」の本質は変わりません。社会主義とは、人間には自分のために存在する権利はなく、自分の人生や仕事は自分のものではないという教義です。個人は社会に属しており、個人の存在の唯一の正当性は、個人が社会に奉仕することであり、社会は自分たちの部族的、集団的な利益であるとみなされ、個人をいかようにも処分することができるというものです。(……)

 それは、アッチラ派、プラグマティスト、実証主義者の反-概念的なメンタリティ──抽象的なものに妥当性を認めず、原理に意味を認めず、思想の力を認めないメンタリティ──にすぎません。しかし、なぜこの種の理論的な教義が、実際にナチス・ドイツやソビエト・ロシアのような社会主義社会の流血と、残忍で非人間的な恐怖をもたらさねばならなかったのかと、今なお疑問が残ります。アッチラ派だけが、いまだにこれらが避けがたい結果であったことを誰も証明できないと主張したり──人間性の「不完全さ」や「崇高な理想を裏切った」特定の一味の悪事のせいにしようとしたり、自分の一味ならもっとうまくやって成功させると約束したり──動機は人類愛だったのだと、震え声でぶつぶつ呟いたりしています。

 化けの皮がはがれ、言い逃れが通用しなくなった知識人たちは自分の罪を認識していますが、その原因を回避し、それを宇宙全体に、つまり人間の形而上的に運命づけられた無力さに転嫁しようと躍起になっています。

 
 ナチス・ドイツを糾弾しながら、(これ以上の矛盾が他にあるとは思えないが)ソビエト・ロシアを崇め奉り、資本主義に異議を唱え、すべての者がすべての者に奉仕する、マルクス=レーニン主義という名の「呪術理論」を声高に唱導した挙句、「言い逃れが通用しなくなった」左翼知識人たちは、けっして鳴りを潜めているわけではなく、人々に新たな罪悪感と恐怖を植えつけて、自分たちの教義を吹き込もうとする──
 

 罪悪感と恐怖は、人の意識や社会の文化を崩壊させるものです。今日、アメリカの文化は、私たちの知的雰囲気に浸透している、罪悪感の典型である三つの禁止令、すなわち、「見つめるべからず」──「裁くべからず」──「確信すべからず」によって、崩壊に向かって分裂しています。

 「裁くべからず」という禁止令は、今日、そのむきだしの本質を見ることができる利他主義的道徳の究極のクライマックスです。人びとが、告白されていない悪を、名もなき宇宙のように許すために、罪なき犠牲者の血まみれの死体から無関心に目をそらしながら、いかなる罪にも、残虐行為の加害者にも、即座に同情して反応するとき──利他主義的規範の実際の目的、動機、心理的な魔力を理解できるかもしれません。このような“思いやりあふれる”人びとが、道徳的判断を下す人を唸るような憎しみをもって見返したり、悪と戦う決意こそが悪だと叫んだりするとき──利他主義者の道徳が手渡す道徳的な白紙委任状の種類を理解できるかもしれません。

 そのなかでも、もっとも愚かしい態度は、「確信すべからず」という禁止令にあらわれています。これは、多くの知識人が明言しているように、誰もが何かに確信をもたず、確固たる信念をもたず、みんながみんなに譲歩すれば、私たちのあいだに独裁者が現れることはなく、世界の他の地域を席巻する破壊から逃れることができるという提案です。これは、独裁者、アッチラを、自信に満ちた強さと妥協のない信念を持った人物とみなしていることを告白する、呪術師の秘密の声です。このような知識人が、独裁者の存在に気づかず、他のごろつきと同じように、確信的な抵抗の最初の兆候からすぐに逃げだそうとするのは、認識心理的なパニック以外の何物でもありません。また、独裁者が台頭できるのは、まさしくかれらが提唱するような、不確実性の高い、迎合的で、揺れ動く妥協者の社会、つまり、ごろつきに乗っ取られることを招く社会においてのみであるということです。そして、アッチラに抵抗するという任務は──砂のなかに頭をかくすニワトリではなく(この例として「ダチョウ」に譬えるのは、大きすぎ、威厳がありすぎます)、確固たる信念と道徳的な確信をもった人間によってのみ達成されるということです。

 歴史上、もっともグロテスクなまでに時代錯誤的かつ先祖返り的な光景は、現代の知識人たちが、産業文明の中心で、呪術師のごとき原始的な声を上げ、地球上の生命の絶望的な悲惨さ、人間の堕落、人間の頭脳の無力さ、物質的な追求の無意味な低俗さ、超自然的なものへの憧れの崇高さについて泣きわめく光景です。

 そして、アッティラに道を開いた知識人たちは、もはや信念ではなく、暗記しているかのように、政府の権力の拡大は自由の抑圧ではないと繰り返すのです──ある集団が他の集団の所得の不当な分与を要求するのは社会主義ではないと──財産権の破壊が他の権利に影響を与えないと──人間の頭脳、知性、創造的能力は(鉱山、森林、滝、バッファロー保護区、国立公園のように)、政府が買収し、補助し、処分することのできる「天然資源」であると──実業家は、自由を守るために奮闘しているので利己的な独裁者であり、「リベラル」は、政府の管理を強化するために戦っているので、真の自由のチャンピオンであると──他の国々が破壊された道に我々が滑り落ちているという事実は、我々の国が破壊されることを証明するものではないと──独裁は、誰もその抽象的な名前で呼ばないならその独裁ではないと──そしていずれにせよ、我々にはどうすることもできないのだと。

 もはやそれを信じる者はいませんが、にもかかわらずそれに反対する者は誰もいません。何かに反対するためには、確固たる主義主張、つまり「哲学」が必要なのです。

 
 そして、ありのままの「現実」を直視しようとはせず、何ら裏付けとなる根拠もないままに、その“裏”にあるという(それ自体相当に疑わしいが)プラトン的「イデア」を暴いた気になって、理性を放棄しながら、自らを「預言者」や「占い師」と勝手に位置づけ、声高に(かつ得意げに)胡散臭い「陰謀論」を唱え、相手の思考を強制的に封印しようとする下品な似非知識人(ランドのいう呪術師、すなわち神秘主義者)に対して、限りなく冷静な視点から、次のような警告を発する──

 アメリカが滅びるとしたら、知性の棄権(デフォルト)によって滅びるでしょう。それを破壊しようとする極悪非道な陰謀など存在しません。陰謀とは、十分な大きさと強さを持つものではありません。大衆食堂の社会主義者が企む陰謀は、疑いもなく存在してはいるものの、かれらは、誰も前に出てこないからといって、国家指導者に祭り上げられたノイローゼ気味の臆病な凡人たちです。単に福祉条例のひとつや二つをひったくろうと目論み、被害者が意識を失っているうちに、莫大な富が眠る巨大な屋敷に自分たちだけで侵入し、手慣れた窃盗を働いていたら、すべてのドアが開けっぱなしになっていたことに突然気づいたスリみたいなものです。かれらが今「そんなつもりはなかった」「一国の経済の国有化を主張したことはない」と叫んでいるのをよくみてください。ソビエト・ロシアに仕える共産主義者の陰謀に関して言えば、それは不戦勝(デフォルト)のもっともわかりやすい例だといえます。かれらの成功は、犠牲者の譲歩によってもたらされたものです。アメリカには、社会主義や独裁を求める国民運動も、「潜在的な独裁者」や大衆的なデマゴーグもなく、たどたどしい妥協者やおびえた日和見主義者がいるだけです。しかし、私たちは完全な全体主義的社会主義に向かって進んでおり、それは歴史の──運命や悪意ある陰謀が、実際の真理よりも簡単に信じられてしまう歴史の──抗いがたい傾向であるという、使い古された皮肉な声が聞こえてきます。つまり、私たちは焦点の定まらない頭脳の怠惰な惰性だけで動かされているということです。

 その残響に応えるように、紛うかたなき中世の呪術師たちの声が再び聞こえ始めています。人間の生得的に運命づけられた無力さ、卑下、消極性、服従、諦めの教義を説くその声が──人間の頭脳の力を示す最大のモニュメントである、ここニューヨークの地で──現代のあらゆる災厄は、人間が自分の知性に頼ることを誇りに思い、自分の状態を改善し、合理的な社会を確立し、地上での完璧な生き方を実現しようとしたことに対する罰であると宣言しています。

 
 「アッチラ」と「呪術師」に対抗できるのは、「確固たる信念と道徳的な確信をもった人間」だけであり、「呪術理論」を唱える知識人たちを一掃するためには──弁証法的に「二項対立」を止揚(ランドに言わせれば単なる妥協)するのではなく、無矛盾律に従った「二項同体」に統合できる──「新しい人生の哲学」をもった「新しき知識人」が必要とされるだろうとランドは言う。では、新しき知識人になるのは誰なのか──

 考えることをいとわないすべての男女。人間の人生は、理性によって導かれねばならないことを知っているすべての者、自分の人生に価値を置き、シニカルな無気力に陥った現代のジャングルのなかで、この世界を暗黒時代と半獣人の支配に明け渡すことを望まない者、同様に、絶望の崇拝者たちにその価値を明け渡すことを望まない者たちです。(……)

 新たなる知識人とは、みずからの知性に導かれた人間という、その肩書きの意味を忠実に体現し、その期待に応える人物のことであり──感情、本能、衝動、願望、気まぐれ、啓示に導かれたゾンビのことではありません。彼は、アッチラや呪術師の支配を終わらせ、それらを可能にした大前提である魂/肉体の二項対立を捨て去ります。彼は、「頭脳」対「心」、「思考」対「行動」、「現実」対「欲望」、「実践」対「道徳」といった、不合理な対立や矛盾を捨て去ります。彼は、統合された人間に、つまり、行動する人間であると同時に思想家になるでしょう。彼は、結果としての行動から切り離された思想は詐欺であり、思想から切り離された行動は自殺行為であることを知るでしょう。彼は、認識心理の概念的レベル──理性と思考の意志的なレベル──が、人間の生存の基本的な必要性であり、最大の道徳的な美徳であることを知るでしょう。そして、人間が地上で生きる目的のために「哲学」を必要としていることを知るでしょう。

 
 すなわち、「新たなる知識人」とは、「新たなる急進派」であり、戦争を引き起こす張本人である「アッチラ」と「呪術師」が目の敵にする「資本主義」のために闘う闘士なのだと高らかに宣言する──

 アメリカを弱体化させ、今、破壊しようとしているのは、利他主義の道徳です。アメリカはその発祥から、その政治システムと利他主義の道徳との衝突によって引き裂かれていました。資本主義と利他主義は相容れないもので、哲学的にも正反対のものであり、同じ人間、同じ社会のなかで共存することはできません。選択肢は明確です。自由、正義、進歩、地上での人間の幸福という結果をもたらす、合理的な利己主義の新しい道徳をとるか──奴隷制、残忍な暴力、停滞した恐怖、犠牲者をくべる炉という結果をもたらす、利他主義の原初的な道徳をとるか。

 今日の世界の危機は、“道徳的な”危機であり──そして道徳的な革命以外に解決することはできません。アメリカ革命の政治的偉業を認め、完成させる道徳革命です。言い逃れ、言い訳、うしろめたい謝罪はもはや通用しません。美徳が美徳であることを罰する不名誉な不正は、実業家に自分の能力、成功、業績について謝罪することを強要し、それが今や世界規模で投影され、アメリカがその美徳と偉大さについて、利他主義の具現化であるソビエト・ロシアという血塗られた屠殺場に謝罪するという不名誉な光景に変換されています。

 新たなる知識人は、資本主義のために闘わなければなりません。「実践的」問題としてではなく、経済的な問題としてでもなく、もっとも正しい誇りをもって、「道徳的」問題として。それが資本主義にふさわしいことであり、それ以下では資本主義を救うことはできません。

 新しき知識人は、新しい道徳的基盤の上に新しい文化を構築する仕事を引き受けなければなりません。その文化は、今度ばかりは、アッチラや呪術師の文化ではなく、生産者の文化となるでしょう。かれらは、文字通りの意味で、また評判の良い意味でのラディカル(急進派)でなければなりません。「ラディカル」とは「根源的」という意味です。知的な通説に従う、因襲性と現状維持の代弁者である今日の“バビット”(註2)は、集産主義者です。未来に関心をもつ人々、完璧な社会のために闘うことを望む人々に、新しき急進派が資本主義のための闘士であることを認識してもらおうではありませんか。

 
 最後に、ランドは、「新たなる知識人」に向けて、「アッチラ」と「呪術師」の支配を終わらせるための二大原則を提示する──
 

 新しい人生の哲学をみきわめ、判断し、受けいれ、支持するというプロセスは、長く複雑なものであり、思考し、証明し、十分に理解し、納得する必要があります。しかし、知的ルネッサンスに向けた議論、協力、運動の必須条件として、知的誠実さと善意をもつすべての者が「基本的な最低限のライン」として同意すべき二つの原則があります。ひとつは認識論的な原則、もうひとつは道徳的な原則です。これらは公理ではありませんが、自分自身でそれを証明し、受けいれるまでは、その人は知的な議論に向いていません。その二つの原則とは、a)感情は認識の道具ではない、b)いかなる者も他者に対して物理的な強制力の行使を開始する権利はないというものです。

 a)この二つの原則のうち、最初のものは、「呪術師」の認識心理に対する最低限度の拒絶を表明しています。つまり、人は自分の思考と感情を完全に明確かつ正確に区別しなければならないということです。人は知識をもつために全知全能である必要はありません。人はただ、自分が知っていることを知り、それを自分が感じていることと区別する必要があります。また、自分の考えた判断を、自分の感情、願い、希望、恐れと区別するために、哲学的な認識論の完全な体系を必要とするわけでもありません。自分にはできないと主張する人は、頭脳の使い方を学んだことがなく、現実を知覚し、判断し、評価することができないと告白しているにすぎません。これは心理的な問題かもしれませんが、そのような人が哲学的な議論に参加して、自分の考えに対する配慮を要求すると、知的な詐欺になります。感情を証拠に代えてしまう人たちのなかでは、議論も協力も合意も理解もできません。

 b)この第二の原則は、「アッチラ」の認識心理に対する最低限度の拒絶を表明しています。他者に対してフィジカルな強制力行使の口火を切る権利──物理的な破壊の脅威によって同意を強要する権利──を主張することは、権利、道徳、知性の領域から自動的に自分を追い出すことです。おそらく、現代の知識人が残した利他主義の恥ずべき遺産は、人間社会の正常で必要な部分として、残忍な暴力と犠牲を公然と容認し、人間同士の非犠牲的、非強制的な共存と協力の可能性を考えようとしないことでしょう。かれらは、自分のために他人を犠牲にすること以外の「利己主義(セルフィッシュネス)」に思い至らず、そうした犠牲を自身の利益とみなさない人間の存在など思いも寄らないことに注目してください。かれらが、経済的権力と政治的権力のあいだにちがいはないと宣言するとき──その意味は、雇用主と強盗のあいだにちがいはなく、アメリカとソビエト・ロシアのあいだにちがいはないということであり──かれらは、生産者とアッチラを同一視するような、現実に対する呪術師の絶望的な恐怖を告白しているのです。

 
 そして、「アッチラ」と「呪術師」に対抗する「理性の擁護者」としての姿勢を示し、この長大な論考を締めくくる──
 

 一部の人間が他の人間に対して物理的な強制力を行使することが、組織化された社会の適切な要素であると人間が信じている限り──憎悪、暴力、残忍性、破壊、虐殺、そして集団対集団の野蛮な群団同士の抗争が、かれらが到達できる、あるいは到達するであろうすべてです。物理的な強制力が最終的な判断基準になると、人間は、破壊されるのではなく破壊するために、一致団結して共謀するようになります。最高の者は滅び、アッチラが頂点に立ちます。原始的で野蛮な部族が、物理的な暴力に頼らずに生きる方法を考えられなかったのは、理解できるかもしれません。その到達点が部族同士の戦いによる血みどろのカオスに行きつくのは、そのレベルにとどまる人々が今日でも実証していることです。しかし、産業文明のなかで、人間たちが、ジャングルの野蛮人のような道徳観念によって、核ミサイルや水爆を好き勝手に使って生きようとするならば──かれらにふさわしいのは自分たちが無心する破滅です。いかなるかたちであれ、個々の人間に対して物理的強制力の行使を開始するような社会システムを提案したり支持したりする者は、平和の擁護者とみなされてはなりません。いかなる者も、異論を唱える者を物理的強制力によって鎮圧するような自己流の「善き社会」を確立する権利を主張するならば、自由の擁護者であるかのようにふるまってはなりません。ごろつきを知性に対する最終的な権威の座に押し上げようとするならば──あるいは、物理的な強制力と説得力を同一視するならば──あるいは、腕力と思想の力を同一視するならば、知識人としての姿勢をとってはなりません。

 理性の擁護者は、自分の考えを他人に強制する権利を主張することはできません。自由な頭脳の擁護者は、他人の頭脳を強制する権利を主張することはできません。合理的な説得を銃に置き換えようとする者たちのあいだには、合理的な社会も、協力も、合意も、理解も、議論もありえません。

 もし善意の人間たちが、理性を守り、合理的な社会を築くために集まりたいと思うなら、西部劇に出てくるカウボーイたちのように、会議場のドアの前で保安官が告げることから始めるべきでしょう──「諸君、銃は外に置いておくように」。

 文明の「基本的な最低限のライン」である上記二つの原則を受けいれる者は、今日の知的空洞の広大な空間に新しい文化を築くための最初の一歩を踏み出したことになります。私たちの現在の立場に当てはまる古代のスローガンがあります。「王様は死んだ──王様万歳!」。私たちは、同じように未来に向けて言うことができます。「知識人は死んだ──知識人万歳!」──かくして、その名誉ある称号がかつて意味していた責任を果たしていくのです。

 
 左翼運動とソ連の全盛期に、圧倒的多数である主流の知的権威に真っ向から異議を唱えた大胆この上ない本論考──今回紹介したのは、本論考の主軸をなす、きわめて“主観的な”哲学史観に関する記述を割愛したそのごく一部──の締めくくりに、いきなり「西部劇のカウボーイ」が登場し、爽やかな一陣の風を吹かせるところが、まさしく卓越したストーリーテラー──すなわち、深遠な哲学を、通俗平易に、しかも豪華絢爛たる娯楽的要素を加味して、読者に伝える技術を備えた語り部──であり、いかなるアカデミアとも距離を置く、在野の大衆思想家でもあるアイン・ランドの面目躍如といったところでもある。ともあれ、60年以上前に書かれた彼女の言葉が、当時と同等(もしくはそれ以上に)重みをもち、今でもまったく古びていないことは、驚きに値するといえるだろう。
 
 さて、この論考以外にも、「アッチラ」と「呪術師」は、ランドの書く文章にしばしば登場しており、『新左翼:反産業革命』(1971年、未邦訳)に収められている「旧左翼と新左翼」というエッセイでも、ランドは、冒頭で触れた映画『異教徒の旗印』を引き合いに出して、常にアッチラの傍らにいる「預言者」(呪術師)の存在に触れている。
 

 最近テレビで放映された、アッチラのヨーロッパ侵略を扱った非常に出来の悪い映画『異教徒の旗印』をたまたまご覧になった方は、アッチラが、唯一の助言者として占星術師を側近に侍らせ、血なまぐさい新たな作戦を実行するたびに相談していたことに気づかれたかもしれません。あなたがおぼえたかもしれない(西洋人が十五世紀かけて獲得した)一抹の優越感は次の一文で言いあらわせます──「今ではありえないことだ」。あなたはアッチラの占星術への依存を粗野で原始的だとして、あるいはおもしろおかしく受け止めたかもしれませんが、アッチラにとっては誠にふさわしいものであり、加えて、彼は世界を破壊するためのこん棒と剣しか持ち合わせていませんでした。

 あなたは、もし同じアッチラが核爆弾を手のひらに載せてバランスをとり、それを投下するかどうかを占星術師に相談している姿を見ても、それをおもしろおかしく思うでしょうか?(「旧左翼と新左翼」1970年)

 
 できれば同じように「今ではありえないことだ」と言って、「おもしろおかしく」笑いたいところだが──それがまったく笑えない現実となってしまった現在──50年以上前にランドが警告していたとおり、今なお人類は、物理的な強制力の行使によって他国を支配しようとする「アッチラ」の蹂躙を封じ込めることができず、その横暴きわまる虐殺行為が今日の世界を揺るがせている。こうした事態に対して、もしランドが生きていたら何を言うだろうか。

 かつて帝政ロシア末期の宮廷内には、ラス“プーチン”という名の「呪術師」が跋扈し、ロマノフ朝を滅亡へと導いた。ロシア革命後、ソ連にはスターリンという名の「アッチラ」が権力の座につき、「すべての者がすべての者のために自己を犠牲にする」共産主義という名の「呪術理論」によって、粛清の名の下に血みどろの大量虐殺を敢行し、自国の経済を枯渇させ、国民を困窮のどん底に陥れ、結果的に国を崩壊させた。

 ランドによれば、今日では「アッチラ」と「呪術師」は一人の独裁者に統合されているという。しかし、その「アッチラ」は、腕力に訴えるその手法は太古の昔と変わらないものの、人民をたぶらかす「呪術師」としての能力はだいぶ衰えているようだ。彼は、物理的な強制力の口火を切り、それを行使して、街を破壊することはできても、人々の「道徳」を破壊することは能わず、そうである限り、ウクライナ人が《自尊心》を捨てることはけっしてないはずだ。まさしくランドが言うとおり、「確固たる信念と道徳的な確信をもった人間」だけが「アッチラ」に対抗できるのだから。

THE END

 
(註1)ジョン・ハリデイ編『サーク・オン・サーク』(明石政紀訳、INFASパブリフィケーションズ、2006)
(註2)「バビット」とは、アメリカの自然主義作家シンクレア・ルイス(1885-1951)が1922年に発表した小説『バビット』の主人公の名に由来し、「中流階級の一般的な基準に考えなしに迎合する人物、特にビジネスマンや専門家」という意味で英語の語彙に入っている言葉。アメリカの文化や社会を風刺したこの作品は、中流階級の生活の空虚さや、社会的な同調圧力を批判し、発表当時大きな論争を引き起こした。
 アイン・ランドは、「アッチラ」や「バビット」のように、特定の固有名詞で表現される、ある種の人間がもつ普遍的な性質の概念について、「芸術と認識心理」(『ロマン主義宣言』所収)のなかで次のように述べている──

 「芸術を含む認識心理のプロセスの最良の例は、ある特定の芸術のひとつの側面、すなわち、文学作品における性格描写から見て取ることができます。人間の性格──あらゆる可能性、美徳、悪徳、不一致、矛盾のすべてを備えたもの──きわめて複雑であるため、人間自身ですら途方に暮れるほどの謎にみちています。さまざまな人間の特徴を特定し、統合することは非常に困難です。それらを純粋に認識的に抽象化しても、出会った人間を理解しようとするとき、それらすべてをいちいち念頭に置くことなどできないからです。
 そこで、シンクレア・ルイスのバビットの姿を考えてみましょう。彼は、あらゆるタイプの無数の男性が持つ、無数の特徴の観察と評価の合計を包含した抽象化された存在です。ルイスは、彼らの本質的な特徴を特定し、それをひとつのキャラクターの具体的なかたちとして統合しています──そして、あなたが誰かのことを『彼はバビットだ』と言うとき、あなたの評価は、そのひとつの判断のなかに、その人物が伝える膨大な合計を含んでいるのです」。

 なお、ビジネスマンを主人公とするもう一つのルイスの小説『孔雀夫人』について、政治史家のリチャード・ホフスタッターは、『アメリカの反知性主義』(田村哲夫訳、みすず書房、2003年)において、ビジネスマンを高潔な人物として描いた文芸史上に3つしかない例外的な作品の1つとして挙げている。ランドは、ルイスの文学的才能を高く評価し、ルイスの政治SF小説『それはここ米国では起こりえないIt Can’t Happen Here を例に出して、「彼の小説には、鋭敏で批判的な、一流の知性が発揮されている」と述べていることを付け加えておこう。(アイン・ランド「ロマン主義とは何か」『ロマン主義宣言』所収)

 
We salute Ayn Rand Center Ukraine (ARCU).

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