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BLOG

2021.09.26

クリント・イーストウッド作品にみるリバタリアニズムの在り方

Category : 思想
Author : 内藤 明宏

 当会の定例会では、香港、ウイグル、台湾情勢に大きな動きがあったこと、ロシアについても知見あるメンバーがARCJに加わったこと等から政治的なセッションが続いていた。

 そろそろアートや思想の面でも議論の機会を持ちたいと考え、今回はARCJ設立メンバーの1人である宮﨑哲弥さんにセッションをお願いした。宮﨑さんはアイン・ランドの作品やエッセイに精通し、文学、映画や音楽といった文化について、広さと深さの両方において並々ならぬ知見を持つメンバー。

 今回は、アイン・ランドのエッセイ『如何にして非合理的な社会で合理的な人生を送るか。(How Does One Lead a Rational Life in an Irrational Society?)』を念頭に置きつつ、リバタリアンとも保守ともいわれているクリント・イーストウッド監督による3作品を選び議論を交わした。

・荒野のストレンジャー (1973)

・ダーティハリー4     (1983)

・リチャード・ジュエル (2019)

 映画についての解説は宮﨑さんにお任せするが、ここではその前提となった思想についてまとめようと思う。

 

アイン・ランド『如何にして非合理的な社会で合理的な人生を送るか。(How Does One Lead a Rational Life in an Irrational Society?)』:

 アイン・ランドは本章で「人は道徳的な判定を下すことをけっして怠るべからず」という原則を説くが、これは「人を裁くことなかれ。しからば汝らも裁かれざらん(Judge not, that ye be not judged.)」という聖書の教えとは正反対の考え方であり、「自分に裁く権利はない」という常套句に代表される多くの人の価値観でも忌避されがちな原則である。
 
 アイン・ランドは理詰めでこの原則の正当性を明らかにする。人を裁かず悪徳をとがめないならば、それは悪徳を奨励する結果となる。人は常に選択しなければならず、選択することは道徳的価値から逃れられないことであり、道徳的中立は悪の擁護と同義であるという。判定を下すことは簡単ではなく、気分や本能や勘に頼って行われることではない。最も正確で、最も厳密で、最も冷徹に客観的であるとともに、合理的な思考プロセスを要求するものだという。
 
 常に道徳的な判定を下すという方針は、出会ったすべての人に道徳的評価を与えねばならないということではなく、自分がかかわるすべての人、問題、出来事に対する道徳的評価を、明確に、完全に言葉で識別できる形で認識し、それに基づいてふるまうこと。及び沈黙が客観的に悪への同意や承認を意味すると捉えられる状況では、声を上げねばならないということを意味すると述べる。
 
 これらを怠れば、年老いたある日、遠ざかった人生の春に自分が愛したすべての価値を裏切ってしまったことに気づき、言い訳をしながら生きていくはめになるだろう、とランドは警鐘を鳴らす。
 
 アイン・ランドは、オブジェクティビズム(客観主義)を掲げ、近似と見られるリバタリアニズムに強い拒否反応を示していたが、その理由の一端が本エッセイに見て取れるのではないだろうか。同じく個人主義、自由主義に立脚していても、リバタリアニズムは「自分は自分、他人は他人」とより割り切っているように思われ、「他者を裁き、自らも裁かれる」ある種の闘争とも解釈できるスタンスは希薄ではないだろうか。アイン・ランドにはこの差異が、リバタリアニズムが否定すべき対象に妥協的であるように見え、許せなかったのかもしれない。

 

クリント・イーストウッドの思想:

 イーストウッドは、自身が体現する強固な「個人主義」について、政治家時代(カーメル市長職にあった1986年)のインタビューで次のように述べている。
 

── あなたの政治的な立場はどのあたりですか?

CE:わたしは徹底して個人主義者だから、右でも左でもない。

── しかし、あなたは保守的な共和党員と見なされています。

CE:そういうレッテルには賛成しかねる。たしかに、昔から共和党支持者だ。(中略)

でも、わたしは党派は嫌いだ。選挙で民主党に入れたこともある。財政や経済に関しては、わたしは保守派かもしれない。国が経済に介入することには賛成ではない。一国の政治は、企業みたいに運営するべきだといつも考えてきた。だが、その一方で、個人の自由の保護にはとてもこだわりをもっている。

(中略)

── アメリカを作り上げてきた個人主義的な価値を脅かす最大の要因は何でしょうか?

CE:流行だ! (中略)楽して大金を稼ぎたいとか、いいステレオが欲しいということしか人生の目標がない連中だ。(中略)ここ数年、物欲に凝り固まったピラニアみたいな若造どもが高い地位についている。やつらが念仏みたいに唱える「自分のことだけを考えろ」は、わたしが擁護する個人主義的な価値観とはまったく別ものだ。(マイケル・ヘンリー・ウィルソン/石原陽一郎訳『孤高の騎士クリント・イーストウッド』、フィルムアート社、2008年、110-111頁)

 
 この発言から察せられるのは、イーストウッドの考える「個人主義的な価値観」が、合理的な人間同士が、お互いの価値に見合った価値を交換することによって成り立つ、アイン・ランドの提唱する「合理的な利己主義(ラショナル・セルフィッシュネス)に、限りなく近いということだろう。

 
 また、「個人主義」と並んで、イーストウッド映画に一貫して明示される特徴に「反権威主義」が挙げられる。

 

「イーストウッドにあっては、おのれの体現しているはずの価値をもっとも深刻に損なうのは、権力の側である。警官にしろ、教会にしろ、軍隊にしろ、政府にしろ、さまざまな制度の問い直しは、彼の映画の常数である。「わたしはいつも組織の腐敗を憎んできた」と彼は、すでに『荒野のストレンジャー』(1972)の頃に述べていた。イーストウッドの個人主義は、確信犯的に反骨的であり、アメリカ人の言う意味で、「絶対自由主義的(リバタリアン)」に見えるときもある。しかし、アナーキズムをほめたたえるどころか、彼は個人の責任を強調する。彼は、市民生活への政府のさまざまな形をとった介入を減らそうとする。「大きな国家」と「軍産複合体」に強い嫌悪感を抱いている」。(マイケル・ヘンリー・ウィルソン/石原陽一郎訳『孤高の騎士クリント・イーストウッド』、フィルムアート社、2008年、43頁)

 

 さらに、自身の考えるリバタリアン的な政治観については、TVのインタビューで次のように明確に定義している。

 

── 今あなたは、ご自身をリバタリアンとみなしているんですか?

CE: そうだな、リバタリアンと呼ぶのが正しいだろう。・・・(略)リバタリアンとは、社会的にはリベラルで、誰にも手を出さず、財政的責任を果たし、政府が自分の生活に関与しないことを信じているという意味だったはずだ。

(「Clint Eastwood discusses being libertarian on Ellen」、2016年)

 

 以上、引用が長くなったがイーストウッドは長年ブレることのない強固な個人主義思想を持っており、リバタリアンと自覚している。日本(を含む多くの国)ではリバタリアンはマイノリティーであり、フリーライダーとか身勝手な人々という偏見を持たれがちだが、イーストウッドにそうした軽薄さを見出すことはできない。

 

 これまでイーストウッドはさまざまな役柄を演じてきたが、それらのキャラクターの性格は驚くほど一貫している。宮﨑さんによると、自分自身が監督していない作品においても、そのキャラクターの一貫性を保ち続けることができるのは、彼が資金調達、キャスティング、脚本の選定から最終編集権まで、イーストウッド氏自身の法人「マルパソ・プロダクション」で行い、コントロールできる体制を維持してきたことにあるという。映画会社の管轄は配給のみであることから、内容については外部から干渉することはできない仕組みであり、イーストウッドの自主独立の精神が形になった企業、映画作品(商品)であることが分かる。

 

 すなわち、イーストウッドは、名監督と呼ばれるようになるはるか以前から、きわめて優秀なビジネスマン(商人)であり、自身の映画製作にまつわるあらゆる問題について、誠実な取引を重んじる「商人」として適切な判断を下してきたことが、長年にわたり映画界での人気と地位を維持し、成功し続けることができた最大の要因なのではないか。

 

 ランドの言葉を借りるなら、「人が武力ではなく理性を最終的な仲裁者とする取引によって生きるときに勝つのは、最高の商品、最高のパフォーマンス、もっとも優れた判断力と能力をもつ人間であり──人は生産に応じた報酬を受けとるようになる」(『肩をすくめるアトラス』)が、商人としてのイーストウッドのイメージは、まさしく『肩をすくめるアトラス』に登場する、独立独行の鉄鋼王ハンク・リアーデンを彷彿とさせる。(宮﨑さんによれば、実際にイーストウッドは、『ゴッドファーザー』のプロデューサーが『肩をすくめるアトラス』の映画化を企画していた70年代初期に、「ハンク・リアーデン」役の第一候補に上がっていたという。)

 

 その意味で、次の言葉を体現する人物としてイーストウッドほど相応しい者はいないだろう。

 

  “取引”の原則は、個人的なものと社会的なもの、私的なものと公的なもの、精神的なものと物質的なものといった、すべての人間関係における唯一の合理的な倫理原則です。それは“正義”の原則です。

 商人 (トレーダー=取引を糧とする者 )とは、自分が得るものを自分で稼ぎ、受け取るに値しないものを与えたり受け取ったりしない者のことです。彼は、人間を主人や奴隷としてではなく、独立した対等の存在として扱います。自由で、自発的で、強制せず、強要もされない交換──それぞれの独立した判断で行う、お互いにメリットのある交換という手段によって、人間と取引します。商人は、自分の失敗に対してではなく、自分の成果に対してのみ当然のこととして支払いを期待します。彼は、自分の失敗の重荷を他人に転嫁せず、他人の失敗の尻ぬぐいのために、自分の人生を担保にして束縛されることもありません。

 スピリチュアルな事象においても──(わたくしのいう「スピリチュアル」とは、「人間の意識に関わる」という意味です)──交換する通貨や手段は異なりますが、原則は同じです。愛、友情、尊敬、称賛は、相手の美徳に対する感情的な反応であり、一人の人間が相手の人格的美徳から得る、私的で利己的な悦びと引き換えに与えられるスピリチュアルな“報酬”です。相手の美徳を評価することは無私の行為だとし、取引する相手が天才だろうが愚か者だろうが、知り合う相手が英雄だろうが極悪人だろうが、結婚する相手が理想の女性だろうが尻軽女だろうが、自分の利己的な利益や悦びに関する限り、何のちがいもないと主張するのは、獣人(けだもの)か利他主義者だけです。スピリチュアルな事象においても、一商人たる者は、自分の弱点や欠点で愛されようとはせず、自分の美徳だけで愛されようとする者であり、相手の弱点や欠点に対して愛を与えず、その美徳に対してだけ愛を与えます。

 愛することとは、価値を認めることです。愛することができるのは、合理的に利己的な人間、つまり“自尊心ある”人間だけです──なぜならその人こそ、確固たる、一貫した、妥協のない、裏切られない価値観を保持し得る人間だからです。自分自身に価値を認められない人は、何かに価値をみいだすことも、誰かに価値を認めることもできません。

 人間が自由で、平和で、豊かで、慈愛にみちた“合理的な”社会で、共に生きるにふさわしい存在たり得るのは、合理的な利己心(ラショナル・セルフィッシュネス)に基づいて──つまり正義に基づいて──のみだといえます。 (アイン・ランド「オブジェクティビズム倫理学」、御歩是句亭美頭夢 訳)

 

 イーストウッドは、映画の中で「道徳的な裁きを下す」だけでなく、現実においても、自身の理性と価値観に基づいて、常に合理的かつ道徳的な判定を下す“ビジネスマン”なのである。