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BLOG

2021.02.02

「摩天楼」からの手紙
A Letter from New York

Category : 影響
Author : 宮﨑 哲弥

 
 今からちょうど70年前の1951年(昭和26年)の春に公開された、成瀬巳喜男監督の『銀座化粧』は、銀座のシンボル、服部時計店(現・和光)の時計塔に続き、銀座四丁目交差点にあった地下鉄の出口から幼い坊やが駆け上ってくるカットで始まる。カメラが捉えた晴海通りの先の数寄屋橋交差点には、やがて新たな銀座の“顔”となる、高度成長期の日本を象徴するモダニズム建築の傑作「ソニービル」が建てられることになるが、この当時の映像にはもちろん映っていない(そのソニービルも数年前に惜しくも取り壊されてしまったが……)。

 服部のショーウィンドーを眺めながら、見知らぬおじさんに「いま何時?」と尋ねた坊やは、その後、木挽町一丁目(現・銀座東二丁目)で昭和通りを渡り、木挽町(ちなみにその町名が消えたのも映画と同じ昭和26年)にあった高級料亭「万安楼」(現在はタワーマンションが建っている)の脇を抜けて、新富町・入船方面へと走っていく。映画の随所に出てくる築地・新富町界隈は、空襲による焼失を免れたので、戦前の雰囲気を残した下町の街並みが連なる一方、銀座中心部の光景には、つい五年ほど前に壊滅的な被害を受けたとは思えないほど、活気にあふれたにぎわいがみられ、撮影当時、とてつもない急ピッチで復興に向けて街並みが整備されていたことがわかる。

 常に現実を凝視しながら、その時代特有の空気(生活感)を本能的にすくい取り、時代の変化や移り変わりを自作に反映させることにかけては、誰よりも長けていた成瀬監督ならではのきめ細かい演出のなせる業といえるだろう。(しかも、撮影監督は、1919年に単身渡米し、日本人として唯一、ハリウッドで本格的な修行を積み──『市民ケーン』を撮った映画史上最高の天才カメラマン、グレッグ・トーランドにも師事したという──ハリー三村(三村明)である。)

(高橋重治『帝都復興史』(1923)にも、「江戸っ子は昨日のことを忘れやすい」と書かれているが、大災害に見舞われてもすぐにケロっと忘れて──正確には忘れたフリをして──何事もなかったかのように本気で立ち上がるのは当時の日本人の気質だったともいえる。)

 わずか数秒だが、坊やが昭和通りを渡るカットには、当時、再建されたばかりの歌舞伎座の「裏側」が映っている。人々の服装から察するに、撮影されたのは1月もしくは2月初旬の真冬の時期だと推定できる。ということは、その歌舞伎座の先の斜め向かいにある東劇では、まさにそのとき、その場所で、アイン・ランドの原作・脚本による映画『摩天楼』(The Fountainhead, 1949)が上映されていたはずだ。

 『摩天楼』が封切られたのは、まさしく70年前の1951年1月(正確には、1950年(昭和25年)の大晦日が初日で、その前日の30日には特別有料試写会が行われていた)。上映館であった東京劇場(東劇)は、1700名以上を収容できる豪華なスパニッシュ様式の大劇場として、戦前から築地~東銀座一帯のランドマークでもあった(東劇は今でも同じ場所にあるが、当時の建物は1975年に取り壊されて残っていない)。奇跡的に戦火を免れた同館は、空襲で半壊した歌舞伎座にかわり、戦後しばらくは歌舞伎の興行を行っていたが、歌舞伎座の再建にともない、映画館に転身した際のこけら落としとして上映された最初の作品が『摩天楼』だった。

 正月興行の目玉として、大々的に宣伝され、当時の雑誌記事をみると、連日盛況で、単館ロードショーとしてはかなりのヒットであり、批評的にも高く評価されている。(このあたりの事情については、以前、佐々木一郎氏がまとめた「架空対談」でも詳しく述べているので、興味のある方は参照されたい。)

(本国アメリカでは、原作が一大ベストセラーとなっていた(主演女優のパトリシア・ニールの回想によれば、「四十年代のアメリカの女子学生はみんな、ベッドの中で(この小説を)読みふけった。主人公のハワード・ロークに胸をときめかしたものだった」(『真実 パトリシア・ニール自伝』新潮社、P114)にもかかわらず、興行収入もふるわず、ボロクソに酷評された本作が、まだGHQ占領下にあった当時の日本で、観客にも批評家にも好評をもって迎えられたのは奇妙に思われるかもしれないが、原作を知らない日本人のほうが、かえって余計な偏見もなく、作品のなかの本質的なエッセンスを素直にとらえることができたと考えることもできる。)

 日本では関東大震災後の高さ規制で、建築物の軒高が31m(100尺)に制限されていたため、戦後になっても、超高層ビルの建築などは夢のまた夢という状態であり、数々の摩天楼が立ち並ぶ世界最大の都市、ニューヨークの光景は、建築家をめざす者にとって、とてつもない憧れの対象だったことだろう。そうした事情を踏まえても、映画『摩天楼』がもたらした衝撃は、はかり知れないものがあっただろうし、その体験は、かれらを突き動かす原動力になったにちがいない。

 では、当時、敗戦から一心不乱に立ち直ろうとしていた多くの日本人にとって、この映画が──そして、当時のトップスター、ゲイリー・クーパー演じる主人公「ハワード・ローク」の姿が──何かしらの勇気を与えたのだとしたら、それは「具体的に」どのようなもので、どのような「結果」につながったのだろうか。もしもこの映画を単なる娯楽映画として楽しんだだけではなく、映画(および原作)が提示している「哲学」に敏感に反応した人々がいたとしたら?

 佐々木氏の手による対談でも語っているとおり、この映画を観て建築家を志した、あるいは自らが選択した建築家としての道にヴィジョンと目的をみいだしたという日本人は少なくない。じつは、本文の冒頭でも触れたソニービルをはじめ、東京芸術劇場、オリンピック・駒沢体育館及び管制塔、日本万国博・イタリア館、国立歴史民俗博物館等を設計した、戦後の高度成長期の日本を代表する大建築家の芦原義信(1918-2003)もその一人だった。

 後年、芦原氏は、その代表作である「ソニービル」を設計するにあたり、「花びら構造」と呼ばれる特異なフロア構造を生み出した。ソニービルに一度でも足を踏み入れたことのある者ならよくご存じだろうが、同ビルの内部は、「田」の字型のフロアが90cmずつずれながら繋がっていき1階から7階まで連続した空間になるという斬新な構成になっていた。したがって、どこのフロアいても上下2段ぶんの空間を見渡すことができ、各フロアが連続性を持った「縦型のプロムナード」として機能する。これは、フランク・ロイド・ライトによるグッゲンハイム美術館のらせん構造からヒントを得たとされる。

 ライトといえば、いうまでもなく『水源』、すなわち『摩天楼』の原作の主人公、天才建築家「ハワード・ローク」のモデルとみなされる二十世紀を代表する大建築家だ。ライトの師匠であり、高層鉄骨建築の父といわれるルイス・H・サリヴァン(『水源』でロークの唯一の師となる「ヘンリー・キャメロン」のモデルでもある)に、「形態は機能に従う Form follows function」という、ランドもたびたび引用する有名な建築原理がある。

 昨年急逝した建築評論家・建築史家の松葉一清氏の言葉を借りれば──「芦原はソニービルの発表時の『新建築』1966年7月号への寄稿のなかで、ソニーとはなにかを突き詰めて『ソニー製品にあらわれている質のよさからくる正確さ、無用の装飾を排した機能的美しさ』こそが『近代建築の精神にも相通じる』と記している。そして、『広告塔であるとか、ごたごたしたものを一切よして、よごれのない白色の材料や金属そのものの材質を中心に大きな製品であるかのごとく表現してみた』と述べている」。「通常、レプリカというものは、もとの製品より小さくなるものだが、ここではソニー製品が極大化されて都市の一角を占めた」。「ただ、モダニズム批判が顕著になって以降は、工業生産の下僕としての近代建築のあり方は、自嘲的な文脈で語られることになったが、この時点の芦原には、持ち前の明るい性格もあって、シニシズムは影もない。いや、その屈託のなさがあればこそ、ソニービルは、一般のひとたちの人気を呼び、建築界からも評価されたのである」。(松葉一清、国内建築ライブラリ「建築家芦原義信」)

 もちろん、だからといって、芦原氏がランドの影響を受けていたと指摘できるわけではない。そうした表面的なことではなく、じつは、芦原氏は、1951年の1月もしくは2月初旬(つまり東劇で『摩天楼』を観た直後)に、自作の建築作品の写真を添えてアイン・ランド本人に直接ファンレターを出しているのである。(!)

 70年前のまだ戦後まもない頃に、あのアイン・ランドに手紙を出した日本人の若者がいたという事実だけでも驚きを禁じえないが、その事実は、ランド哲学のもつ人を鼓舞する力が、その映画版にもしっかりと備わっていたことを物語っている。小説を読んだのではなく映画を観ただけで、その原作者に手紙を出さずにいられないという──若き建築家をそうした行動にかり立てるほどの。

 そして、じつは、ナント、その芦原氏に宛てたランドの返信が残っているのだ。今回は、ランドの日本上陸(?)70周年を記念して、その手紙の内容を以下にご紹介する。

 1951年2月26日
 親愛なる芦原さん

 とても興味深いお手紙をありがとうございます。映画『摩天楼』を気に入っていただけたようで嬉しく思います。そして、そのことについて書いてくださったことに深く感謝しています。特に、映画の哲学に興味を持ってくださり、わたくしの小説を読みたいと思っていただけたことが嬉しいです。哲学的な考えはどこにいてもすべての人にとって真実であり、地球上のどの国にも哲学的な真実に反応する人が必ずいるというわたくしの信念を支えてくれています。

 映画から伝わった印象では、わたくしが個人の能力を強調しすぎているとおっしゃっていますね。これほど激しく強調することはできません。個人の能力こそが、建築でも他の職業でも、すべての偉大な業績の唯一の源泉であり、重要なものなのです。あなたは科学が提供する技術や材料について言及していますね。個人の能力ではないとしたら、科学はどこから来るのでしょうか? 人類の科学的発展が高ければ高いほど、集団の成果を利用するために、個人の能力がより必要とされるようになります。いずれにせよ、集団などというものは存在しません──単なる人間の数でしかないのです。一人一人の人間が自分の能力で判断しなければならず、その能力だけが問題なのです。百人のうすのろが一人の天才を構成するわけではありません。わたくしの哲学の基本的な信条は、個人の能力こそが、人間の人生におけるすべての成果の源泉であり、すべての善の源泉であり、すべての偉大さの源泉であり、人間が生き延びるための唯一の手段であるということです。

 わたくしの小説を読んでいただければ、わたくしの哲学をより深く理解していただけると思います。それについての話を聞かせていただけることにわたくしはとても興味を持っております。

 お送りいただいた建物の写真、ありがとうございました。貴殿の作品にはとても感銘を受けました。モダニズム建築の優れた例だと思います。

                            アイン・ランド
(Letters of Ayn Rand, Edited by Michael S. Berliner, A Dutton Book, 1995, p493)

 この手紙を受け取った芦原青年はどんな反応を示したのだろうか? また、じっさいに原作小説を読んだのだろうか?

 しかし、その後の芦原氏が、自身の「個人の能力」を最大限に発揮し、自らの仕事に根本的な確信と明確な目的をもって、戦後日本の復興と発展に多大な貢献を残したことは、2年後の1953年に第1回のフルブライト留学生選考試験に合格して単身渡米し、日本人建築家としてはじめて、「新大陸のモダン・デザインの殿堂」であったハーバード大学大学院に留学した華麗な経歴や、帰国後の目ざましい活躍、そしてそれらが達成した見事な業績を鑑みれば、火を見るよりもあきらかだ。

 したがって、その疑問に対する答えは……これ以上クドクド説明するのは野暮というものだろう。

 芦原氏の場合は、もっとも劇的でわかりやすいケースであり、並外れた成果を達成した例を示している。しかし、そのスケールはちがえど、これと似たようなケースは数え切れないほどあったのではないだろうか。原作が翻訳される50年以上も前に、多くの日本人がその映画版を通じて、意識的にせよ無意識的にせよ、ランドが作り出した「ハワード・ローク」という英雄の抽象概念に感情的な統合を果たし、「自らの自信、自らの果敢さ」を自分なりの流儀で掴んでいたのかもしれない。作者本人も夢想だにしなかったかたちで。

 ランドは、1963年10月1日にルイス・アンド・クラーク大学から名誉博士号を授与されたときの記念講演のなかで、“人はなぜ芸術を必要とするのか”について、次のように語っている。

 

 芸術は最終的なゴールを“教える”のではなく、“見せる”のです──完全かつ具体的なリアリティとして見せるのです。教えることは倫理学の仕事です。芸術作品の目的ではありません。飛行機の目的もそうです。研究したり分解したりすることで飛行機から多くのことを学ぶことができるように、人の存在の性質、その魂の性質について、芸術作品から多くのことを学ぶことができます。しかし、これらは単なるフリンジ・ベネフィット(追加給付)にすぎません。飛行機の主たる目的は、人間に飛行方法を教えることではなく、実際に飛行体験を与えることです。それが芸術作品の本源的な目的なのです。

 「ある得るものをあるべき」だと表現することは、人間の実生活でそれを達成するのに役立ちますが、これは二次的な価値にすぎません。本源的な価値は、物事が本来そうであるべき世界を生きる体験を人に与えることなのです。この体験は決定的に重要です。それは人にとっての精神的な生命線となるのです。

 人間の野心には限りがなく、価値の追求と達成は生涯にわたるプロセスであるがゆえに──追い求める価値が高くなればなるほど闘争は困難になります。そのため、人間はやり遂げた仕事、自らの価値が首尾よく達成された世界を生きているという感覚が体験できる一瞬、ひととき、または一定の期間を必要とします。それは安らぎの瞬間、より遠くへ前進するための燃料を補給する瞬間のようなものです。芸術は人にその燃料を与えます。芸術は、はるか彼方にあるゴールを、完全かつ眼前にある具体的なリアリティとして見せる体験を与えてくれるのです。

 この体験の重要性は、そこから“何か”を学ぶのではなく、“それ自体”を体験することにあります。その燃料は、理論的な原理ではなく、教訓的な「メッセージ」でもありません。本源的な喜びの瞬間──存在への愛を体験する瞬間こそが命を与えてくれるという事実なのです。

 その体験を得た個人は、その体験の意味を自身の人生経験に変換することで、前進することを選択するかもしれません。あるいは、それを成就することができず、残りの人生をその体験を裏切ることに費やすことになるかもしれません。しかし、どのような場合でも、芸術作品は無傷で残ります。それ自体で完成し、実現された不動の現実的事実として。世界のほの暗い岐路に掲げられたかがり火のごとく。そしてこう言うのです。「“これ”は可能だ」と。(拙訳)

(The Romantic Manifesto: A Philosophy of Literature; Revised Edition, Signet.1971)

 また、ランドは、『水源』の25周年版の序文のなかで、哲学者ニーチェの言葉を引用しながら──人間の能力は生得的なものであるとする、決定論的なその言葉に全面的に首肯することはできないと付け加えた上で──次のようなことを述べている。

 

「高貴な人間であることを決定的に示すのは、その位階の秩序を定めるのは、古い宗教的な用語を新しい、もっと深い意味で使うとすれば、その人の業績ではなく、「信仰」である。すなわち高貴な魂が、自分は高貴な魂であることを根本的に確信しているかどうかなのだ。これは探してえられるものでもなく、みつけられるものでもなく、おそらく失われることもないものである──“高貴な魂は、みずからに畏敬の念を抱くのである”──。」(フリードリヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』、中山元訳、光文社古典新訳文庫、2009年)

 このような人間観は、人類の歴史のなかでほとんど表現されてきませんでした。今日では、事実上存在しません。しかし、この見解は──さまざまな程度の憧れ、切望、情熱、そして苦悩にみちた混乱のなかで──人生において人類最高の青春がスタートするという見解です。ほとんどの人にとっては、それは見解ですらなく、生々しい痛みと説明できない幸福からなる、霧に包まれた、手探りのような、定義されていない感覚です。それは巨大な期待感であり、自分の人生が重要であり、偉大な業績が自分の能力の範囲内にあるという感覚であり、偉大なことが前途に待ち受けているという感覚です。

 諦めることから始めて、自分の顔に唾を吐いて存在を貶めることは、人間の本性ではなく、いかなる生き物の本性でもありません。それは、人によって速さが異なる堕落のプロセスを要求します。ある者は最初のプレッシャーであきらめ、ある者は寝返りし、ある者は、ほんのわずかな程度、衰えただけで火を失います。その火がいつ、どのようにして消えたのかわからないままに。そして、すべての火は、成熟とは自分の精神を捨てることであり、安全とは自分の価値観を捨てることであり、実用性とは自尊心を失うことであると、しつこくかれらに言う、年長者たちの広大な沼地のなかに消えてしまいます。それでもなお、何人かは持ちこたえ、その火が裏切られるべきものではないと知り、その火をかたちにし、それに目的と現実を与える方法を学びながら、前進していきます。たとえ、かれらの未来にどんなことが待ち受けようとも、人生の夜明けに、人間たちは人間の本質と人生の可能性についての崇高なヴィジョンを探し求めます。

 道標がみつかることはほとんどありません。『水源』はそのひとつです。

 これが、『水源』が永続的に魅力を発揮し続ける根本的な理由のひとつであり、この本は、若さの精神を確認し、人間の栄光を宣言し、どれほどのことが可能であるかを示しているのです。(拙訳)
(The Fountainhead with an Introduction by the Author, The Bobbs-Merrill Co.1968)

 ランドの哲学の根底にあるものとは、政治思想や資本主義の擁護や利己主義の美徳を唱えることではなく(それらはすべて二次的な問題にすぎない)、そうした「人間崇拝」──自分のなかに人間の最高の可能性をみて、それを実現しようと努力すること──であり、その作品の目的とは、人間がその能力を発揮するための原動力を「具体的な」人間像として提示することにほかならない。

 さて、話を冒頭に戻すと、『銀座化粧』のラスト、坊やは、ふたたび木挽町一丁目で、クレーンで鉄骨が組み上げられる工事現場を興味深そうにみつめながら、見知らぬおじさんに「いま、何時?」と尋ねる。成瀬巳喜男は、築地にあった工手学校(現在の工学院大学の前身。日本銀行本店や東京駅を設計した辰野金吾が造家学科教授を務めた)の出身であり、若い頃に建築学を学んでいる──とりわけ工手学校出身者は製図が非常に上手であるという定評があった──ため、「正確に図面の読める稀有な監督」だったと、成瀬組の美術監督だった中古智は語っている。

 少年時代の成瀬もまた、工事現場を飽くことなく眺め、頭のなかでその光景が実現する完成図を夢みていたのかもしれない。滅多に自己主張をしなかったと言われる成瀬だが、翌年の『稲妻』(1952)では、東京駅、両国国技館、第一相互館など、辰野金吾設計の建築物をさりげなく風景に取り入れる等、その「わかる人にしかわからない」、一見ささやかながら、じつは強固な自己主張は、作品の随所に見受けられる(どの作品にも必ず「平手打ち」のシーンが出てくるのもそのひとつ)。

 成瀬組の助監督経験もある黒澤明の世界観が、壮大なスケールのなかで提示されるシェイクスピア的な悲劇性(人間は意志を持たず、その運命に抗うことはできないという信念)に囚われていた一方で、成瀬は、現実の日常の些末な(主としてネガティヴな)出来事を詳細に記録する「自然主義的」手法を用いながら、主人公(そのほとんどは女性である)は、それらの事象に惑わされることなく、個人としての存在を堅持し、その意志を徹底して貫くという意味で、日本にはきわめて珍しい「ロマン主義的」な資質を備えた映画作家だった(他にはイタリア留学経験のある増村保造がいるくらいか?)。

 成瀬は、特に後期の作品、『稲妻』(1952、林芙美子原作)、『晩菊』(1954、林芙美子原作)、『流れる』(1956、幸田文原作)、『あらくれ』(1957、徳田秋声原作)、『鰯雲』(1958、和田傳原作)、『放浪記』(1962、林芙美子原作)、『女の歴史』(1963)、『乱れる』(1964)等において、原作にみられる自然主義な視点をロマン主義的な視点に転換し、いかなる状況に直面しようとも、けっして、流されない、「あくまでも自己を貫き通そうとする誇り高き存在」としての女性像を明確に提示した。(代表作とされる『浮雲』(1955年、林芙美子原作)だけは、やや位置づけに困るが──原作者林芙美子と、日本のハワード・ロークともいえる「異端の建築家」白井晟一の知られざる恋愛関係を踏まえると、またちがった観方が成立するとはいえ──それはまた別の話。)

 偶然とはいえ、アイン・ランドと成瀬巳喜男は、同じ1905年(明治38年)生まれであり(ちなみに白井晟一も同年生まれ)、『銀座化粧』で坊やが昭和通りを渡る何気ないカットは、同時代を生きた、まったく性格の異なる二人の芸術家が、ほんの一瞬だけ空間的に交差した、奇跡的な瞬間をとらえていたともいえる。(さらに、ラストのカット──柳が芽吹き、季節はすでに春になっている──では、主人公の田中絹代が、築地警察署前の亀井橋を渡る(そのまま直進すれば、冒頭で坊やが渡った昭和通りの交差点に辿り着く)。橋を渡りながら、絹代はチラリと南西の方角をみる。その視線をまっすぐ進めば、500メートルほど先に「東劇」がある。)

 寡黙な成瀬には珍しく自伝的要素を含んだ『秋立ちぬ』(1960)は、新富町・築地界隈を舞台にした『銀座化粧』の姉妹編ともいえる内容だが、ラストのカットで主人公の少年が、松坂屋の屋上から立ち並ぶビルの先の晴海方面をみつめている(遠くに歌舞伎座の「正面」がみえる)。その視線の方向に「東劇」があることもまた不思議な偶然といえるかもしれない。

 ※なお、『銀座化粧』の撮影地に関する記述は、大瀧詠一氏によるきわめて探求的かつ網羅的な研究資料(『東京人』2009年11月号所収「大瀧詠一の[映画カラオケ]のすすめ。」等)を参照させていただいた。

(オマケ)