2019.03.02
アイン・ランドのエリート思想
いくら断捨離しても離れられない一冊の本がある。オルテガの『大衆の反逆』だ。
といっても最後に読んだのは10年ほど前。先月のNHKの『100分で名著』でとりあげられていたので、中島岳志先生の解説つきのその講座をみた。
講座は自分の読書体験とはだいぶ違っていて、オルテガの「死者」の捉え方や、同時代の保守思想家のなかでの位置付けなどがわかりやすく解説されていて新鮮だった。とくに第2回以降は、リベラルとはなにか、保守とはなにかというテーマ設定であり、『大衆の反逆』というより政治学のゼミのよう。
最後はトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』にまで遡り、オルテガが予見したマスメディアの台頭によるアメリカの民主主義の破綻にもふれていた。おそらくトランプのツイッター政治の現状を、オルテガの大衆批判に結びつけていたのだろう。
私は、トランプの支持者の大部分がオルテガのいう「大衆」であるとは思えず、青春時代にともに暮らした中西部の支持者は、知性も知識欲もありながらあえて地域に根をおろして生活をしているオルテガのいう「庶民」に近いことを肌感覚として記憶しているので、そうした示唆があったとすればその部分は共感できなかった。
それはともかく、少し前の自分の強烈な読書体験はなんだったのかとパラパラと読み直してみた。まずは、番組で紹介されていた『思想は真理への王手』といった一文に代表される懐疑主義、まっとうさ。価値観というよりは、スタイルに近い。
だが私にとってこの本の意味は、「高貴さ」を再定義したことにあったように思う。
「高貴さは、自らに課す要求と義務の多寡によって計られるものであり、権利によって計られるものではない」
それは、生まれではなく、文化度の高さですらない。「選ばれたる人とは、自らに多くを求める人」なのである。これはアイン・ランドの高貴さの思想と通ずるものがある。ほぼ同じといっても問題ない。オルテガも評論のなかで、大衆とそうでない高貴な人(いま風には意識高い系?)をわけているが、ランドも便宜上、小説の中で人を二分している。よりこまかくいえば三種類。創造する英雄たち。彼らほどクリエイティビティーはないけれどもまじめに仕事をする生産者たち。そしてたかりやたち。その極端な区分が、ランドが多くの人を激昂させるトリガーになっている。
正直、そうして人々を区分することの是非は、私にはわからない。オルテガやランドのように、あの人はどちら側、私はこちらと区分したこともない。なぜなら、すべての人が、どのタイプにもなりうると思うから。
オルテガやランドを読んだ時、人は自分の立ち位置をたしかめながら、そうか、自分はもっと高みをめざすべき、ということを確認するのではないか。消費ばかりしてないでもっと仕事をするとか、そういう程度のことにしても。
あるいは、もっとたちが悪いのかも知れない。
時代に流され、はやりすたりに浮かれ沈んで、楽しく生きたい。ワイドショー上等、凡庸な人生でなにが悪い。オルテガが嫌悪した開き直りの人生を、現実として、生きている。
でもそんな大衆人でさえ、いやだからこそ、お盆には必ずお墓参りをするように、オルテガやランドのエリートの思想や物語を読まずにはいられないのだ。
なぜならそこにしか、「私と、私の環境」のもっと明るい未来はないからである。