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BLOG

2022.05.06

「許されざる悪」としての先制的武力行使 
Preemptive Use of Force as an Unforgivable Evil

Category : 思想
Author : 宮﨑 哲弥

 第十三代FRB議長のアラン・グリーンスパンは、歴代議長の中で最長の18年半に及ぶ在任期間はもとより、そのあまりにももったいぶった難解かつ含蓄に富んだ(ように聞こえる)議会での発言の数々(当時、日本の金融報道番組でもその解釈をめぐって盛んに議論が繰り広げられた)等を含め、「生きながら一つの神話となった」とも評される人物だ(現在96歳!)。

 グリーンスパンは、その若き日に弟子としてアイン・ランドが主宰するサークルに出入りし、自身の思想的基盤を形成したとされる。当時の彼は、「知識は事実と数値からのみ得られる」とする、ヴィトゲンシュタイン由来の論理実証主義の信奉者であり、「道徳的に絶対的なものなどない」という信条の持主だったという。「人間には確信できるものなど何もない」という彼に、ランドは、「では、そう“確信”しているのは誰なのですか?」と訊ね、一発で、その思想の矛盾点を看破した。そのときの衝撃について、グリーンスパンは「その場に居合わせていなければ──より正確にいえば、26歳の数学オタクでなければ──そのときのショックが私にとってどれほどのものだったかは誰にも想像できまい」と述べている。村井明彦氏の言葉を借りれば、「若き日の議長は何も知らずに巨人の門を叩き、その思想の神殿の前で裸にされて『存在』の息吹を吹き込まれたのだ」。グリーンスパン神話形成の背後には、ランド・サークルという「神殿」の存在があったわけだ。

 グリーンスパンとランドは、彼女が一九八二年に亡くなるまで親しい関係が続いており、回顧録のなかでも、敬愛する「師」に対して誠実な感謝の言葉を記している。その本のなかで、彼は、ソ連崩壊後のロシアを最初に訪問したときに、政府高官からある信じがたい発言を聞いて「度肝を抜かれた」というエピソードを紹介している。

 「驚いたという表現では、その瞬間の衝撃は伝えられない。二〇〇四年十月、国際通貨基金(IMF)の米露二国間協議の後、ウラジミル・プーチン大統領の主任経済顧問であるアンドレイ・イラリオノフが近づいてきて、こういったのだ。『つぎにモスクワにおいでになるときには、わたしの友人たちとアイン・ランドについて語り合いませんか』。自由放任資本主義の妥協を許さぬ支持者であり、共産主義を徹底的に嫌っていたランドが、ロシアの知識層という隔絶された飛び地に浸透していたことに、わたしは度肝を抜かれた。プーチン大統領は、イラリオノフが自由競争市場を強く支持していることをよく知っていて、主任経済顧問に起用したはずだ。だとすれば、イラリオノフは、プーチン大統領の政策方針の窓なのだろうか。ロシア国民を育んできた文化を、それほどあっさりと捨て去れるのか、KGBの一員であったプーチンが、ソビエトとはかけ離れた考え方をこれほど短期間に身につけたとは信じられない思いがした。(中略)だが、プーチンは、資本主義を目指す有望な政策をとった後に、全体主義へと逆戻りしはじめた。」(アラン・グリーンスパン『波乱の時代──わが半生とFRB── 上』山岡洋一・髙遠裕子訳、日本経済新聞出版社、2007年)98頁。

 プーチン政権下のロシアで知識人たちがアイン・ランドを読んでいたというまさかの事実は、たとえグリーンスパンでなくとも驚愕に値するエピソードにおもえるが、共産主義体制の崩壊後、ロシア人がアメリカの資本主義を研究するために、「聖書に次いでアメリカ人に影響を与えた」とされるランドの著作を参照するのは、きわめて理にかなった妥当な政治戦略的手段だったともいえる。アメリカ人の政治思想や自由主義経済思想、そしてその個人主義的な道徳観を深く理解するためには、ランドの著作を避けて通るわけにはいかないからだ。

 調べてみると、このエピソードに登場するアンドレイ・イラリオノフとは、ロシアの経済学博士で、2000年4月から2005年1月まで、プーチン大統領の経済顧問を務め、主要国首脳会議で、大統領代理としての事前交渉や合意文書のとりまとめにあたる「シェルパ」を務めた人物だという。きわめて例外的なロシア人のランド信奉者(いうまでもなく、ランド自身もロシア人だったわけだが、ランドほど母国ロシアを悪しざまに罵ったロシア人は誰一人いないだろう)として、当時彼がどんなことをプーチンに助言していたのかは知る由もないが、ウィキペディア(ちなみに、ウィキペディア創立者のジミー・ウェールズも熱烈なランド信奉者である)によれば、「イラリオノフは(プーチン政権に対する)率直な批判者でもあり、2004年10月には、ロシア経済が自由主義的市場経済から国家による統制経済に移行しつつあると述べ、プーチン及びシロヴィキの強権的な経済運営に対する批判を繰り返し」、翌年1月に大統領代理を解任されたというから、両者のあいだに和解できない深刻な意見の対立があったことは疑い得ない。その後、イラリオノフは反プーチン派の急先鋒に転じ、プーチン体制のもっとも厳しい批判者となったといわれている。

 今、そのイラリオノフの発言が注目されている。彼は、8年前に今回のロシアによるウクライナ侵攻を正確に予言していたというのだ。(「プーチンはこれでは終わらない。さらに先に進む」 元側近が証言した“暴君”の実像とは」 AERA.dot (2022年3月8日)

 その記事によれば、2014年に行われた朝日新聞の取材で、イラリオノフは次のように語っていたという。「侵略者は誰かに止められない限り、侵略を続けることを歴史が示している。ナチスドイツも、ソ連も、あなたには悪いがかつての日本もそうだった」「プーチンはこれでは終わらない。さらに先に進む」「いつ、どこに向かって、どんな方法で進むかは予見できない。しかし、彼がここで止まることを示すような歴史の前例は一つもない」「経済的理由、政治的理由、安全保障上の配慮、地政学的な理由で説明することはできない。すべてNATOが原因? そんなのは、ばかげた話だ!」。

 イラリオノフによれば、プーチンの動機は、「そこに何か奪うものがあるから、奪う」という単なる衝動や願望ともいえる子供っぽい感情に依拠しており、「それがどんなに高くつくかよりも、やったこと自体が重要」であり、いずれ「理性に従って行動するのではなく、子供時代のコンプレックスに突き動かされて振る舞うようになる」だろうと断言している。

 元側近によるこの見解は、その記事が指摘するように、あたかも今回の事態を見越した発言のようでもあり、間近でプーチン本人に接してきた人物による発言だけに──ランドによるロシア批判と同じく──看過できない説得力を有しているように思える。と同時に、この見立ては、アイン・ランドの「アッチラ」理論に基づいたものではないかとも思えてくる。イラリオノフがランドの論考を踏まえた上で発言しているのかどうかはわからないものの、グリーンスパンによるエピソードを踏まえると、その可能性は大いにあり得る。

 前回のブログ記事で紹介したので詳細は省くが、ランドによれば、人類の歴史上、あらゆる独裁者は「アッチラ」──すなわち、「いかなる概念の『干渉』も受けずに“知覚”レベルの意識で生き、原理や理論の『妨げとなる制約』もなく、ある経験を別の経験に、ある瞬間を次の瞬間に統合する必要もなく──その瞬間の気まぐれと範囲で行動することに憧れる」自尊心を欠く人間であり、それゆえにあらゆる存在を憎むようになるのだという。そして、「目的を持たないにも関わらず、行動せずにはいられない人物、他者を破壊するために行動する人物」となって、「破壊のための破壊」に手を染めるようになるのだと。言い換えれば、「知性」はないのに「意欲」だけはある指揮官が、力づくで敵陣に自分の部隊を突進させて全滅させてしまうようなものか。
 

 自問してみてください。なぜ全体主義の独裁者が、抗議や防御の手段をもたない、鎖につながれ、猿轡をはめられた無力な奴隷に向けたプロパガンダに、お金と労力を費やす必要があるのかと。その答えは、もっとも気弱な農民やもっとも低能な野蛮人でさえ、つかみどころのない「崇高なる目的」のためではなく、ありのままの人間の姿をした悪のために自分が生贄となっていることに気づけば、なりふりかまわず叛乱を起こしかねないからです。(アイン・ランド『自己本位(セルフィッシュネス)の美徳』)

 

 世の中は矛盾に満ちているといわれる。たとえば、「正義」という概念ひとつをとっても、ランドが提唱した資本主義的、すなわち合理的利己主義に基づく「正義」の概念と、ジョン・ロールズが提唱した社会主義的、すなわち「最大多数の最大幸福」という利他主義に基づく「正義」の概念が正反対であるように、あるいは、「存在は存在する」という、アリストテレス=トマス・アクィナス的公理に基盤を置くランドの形而上学と、ヘラクレイトス的公理にしたがって、万物は流転しているだけで本来存在しないものとみなし、究極的な「無」に至上価値をおく大乗仏教思想(唯識)とでは、同じ概念においても途方もない隔たりがあるように、異なる視点をもつ者同士は、互いに対立し、一見、矛盾を免れ得ないようにみえる。しかし、この宇宙においては矛盾は存在し得ないというのが、オブジェクティビズムの根本的な立脚点であり、ヘーゲル的な弁証法に頼らず、いかにして合理的な無矛盾律にしたがって矛盾を捨て去るかという点に、ランド哲学の極意があるといってもよいだろう(その「極意」を完全に会得していたのは高弟のグリーンスパンだけだったのかもしれない?)。

 ちなみに、ランドが提唱する「正義」に関する道徳規範とは次のとおりである──
 

 人は皆、自然の特性を偽ることができないように、人間の特性を偽ることはできず、すなわち、無生物を判断するのと同じように良心的に、真実を尊重し、清廉な視覚をもって、純粋かつ合理的な自同性識別のプロセスによって、すべての人間を判断しなければならない。
 人は皆、錆びたスクラップに輝く金属片よりも高い値段を払わず、腐った人間に英雄より高い評価を与えないように、ありのままに判断され、それに応じて扱われなければならない。
 道徳的な評価は、人の美徳や悪徳に対して支払う硬貨であり、この支払いは、金融取引と同じくらい慎重な信用を要求されるものである。
 人の悪徳を軽蔑することを差し控えるのは道徳的な偽造行為であり、人の美徳を賞賛することを差し控えることは道徳的な横領行為である。
 正義の不履行によって失われるのは善だけで、利益を得るのは悪だけであり、正義よりも他の関心を優先させることは、道徳的な通貨を切り下げ、悪を優先して善をだまし取ることである。
 その道の先にある落とし穴の底、道徳的破産行為とは、人の美徳を罰し、悪徳に報いることであり、それこそが完全なる堕落への転落、死を崇拝する黒ミサ、存在の破壊に自分の意識を捧げることにほかならない。(『肩をすくめるアトラス』)

 
 さらに、ランドはさまざまな著述において、先制的な武力の行使を、最も忌まわしき許されざる「悪」として糾弾し、それを容認することの危険性について警鐘を鳴らしている。そして、「悪」を悪として認めることを避け、中立・公平な立場で物事を見ることが「善」だとする利他主義的な「教訓」についてこう述べる──
 

 そんな教訓によって誰が得をして、誰が損をするかは歴然としています。人の美徳を褒め称えることも、悪徳を咎め立てすることも、一様に差し控えるというならば、あなたが人に与えているのは正義でも平等な扱いでもありません。その中立的な態度が、事実上、善人にも悪人にも何も期待してくれるなと表明するとき──あなたは誰を裏切り、誰を励ましているのでしょうか。(ibid.)

 
 いかなる道徳規範も持たない(すなわち善悪の判断基準がない)人間は、客観的現実を自分の思いつきや願望で好きなように歪め、根拠もなくでたらめな意見を声高に主張した挙句、矛盾を突かれるとふてくされて開き直るのが常だが、今回のロシアによるウクライナ侵攻をきっかけに、平然と「善」を裏切り、「悪」を励ます半獣人や、偏向した「正義」をふりかざして「悪」におもねり、「善」に唾を吐きかけておきながら、知識人や文化人の仮面を被ったまま恥じることもない偽善者や、相手の知性を力づくで押さえつける権利に対して、それを悪とみなさず、黙って容認しておこぼれにあずかろうとする寄生虫がさまざまなメディアで大量発生している様は、さながら、魂を失ったゾンビが集団で練り歩くおぞましい光景をみせられているような気分にもなる。かれらの言動は人々に「犠牲」を推奨していることにほかならならず、その存在はランド哲学において、もっとも忌避される道徳的な「死」を完璧なまでに体現しているともいえる。規範がない以上、どこまでが「善」で、どこからが「悪」なのかという判断がつかないわけだから、かれらにとっては、物事の本質などどうでもよく、自分が勝手に決めつけさえすれば、もうなんでもありなのだ。

 ランドは、「犠牲」の本質について次のように述べる──
 

 「犠牲」とは、無価値なものを拒絶することではなく、貴重なものを拒絶することを意味します。「犠牲」とは、善のために悪を拒絶することではなく、悪のために善を拒絶することを意味します。「犠牲」とは、自分が大切にしているものを、そうでないもののために放棄することです。(……)ある人が自分の自由のために戦って死んだとしても、それは犠牲ではありません。彼は奴隷として生きることを望んでいなかったのです。しかし、死ぬくらいなら奴隷になったほうがましだと考える類の人間の場合は犠牲となります。(……)犠牲は、犠牲にすべきものを何も持たない者──価値観もなく、基準もなく、判断力もなく──不合理な気まぐれで、ただなんとなく願望を思いつき、簡単にあきらめてしまう者にのみ、ふさわしいものとなり得ます。願望が合理的な価値観から生まれた道徳的な人間にとって、犠牲とは、正を誤に、善を悪に明け渡すことなのです。(ibid.)

 

 そして、「人間の生」とは、けっして「命」だけを意味するのではないことを指摘する。
 

 人間の生とは本来、知性を欠いた半獣人の生ではなく、掠奪を働くごろつきの生でもなく、乞いねだる神秘家の生でもなく、考える存在としての生であり──武力や詐欺によるものではなく、業績による生であり──どんな代償を払ってでも生き延びさえすればいいというものではありません。人間が生き延びるために払う代償はただひとつ、理性しかないゆえに。

 
 これらの言葉は、「命」さえ助かれば、あとはどうなってもいいと考える人間の卑劣さと邪悪さをはっきりと示している。あくまで中立的な立場をとって、対立する両者の「正義」を認め、一方的に強制された武力に対して、ただ逃げてしまえばいい、降伏することが「命」を守ることにつながるのだという論理は、「生」そのものの本質を理解していない証拠ともいえる。

 日本語では、「生命」と「人生」は、(重なりあう意味合いをもつとはいえ)別個の言葉であり、言葉としてちがう以上、異なる概念を表わしていると考えられるが、英語の「LIFE」は、「死」に対する「生」のすべての意味を含んいる。それは、「生命」「人生」「生活」が一体となった概念に相当する言葉であり、他のインド・ヨーロッパ語族においても同様である(当然ながらウクライナ語も含む)。「生命」と「人生」を別々のものとして切り離して考えるのは、(個人の「命」は、集団(主君や国家)に預けられているものであり、その要請に応じていつでも投げださなければならないものと考えられていた(そしてそれが美化されてきた)時代が長かった)日本人特有のきわめて特殊な価値観といえるのではないだろうか。

 ともあれ、もっとも基本的な道徳規範とは何か──すなわち善と悪を見極めるときの最低限の判断基準とは何か──を知りたい人のために、ランドの代表作『肩をすくめるアトラス』から、知性を追放し、武力による強権支配を推し進めた挙句、なすすべもなく滅亡していく世界の人々に向けたジョン・ゴールトのラジオ演説から、その一節を引用する──
 

 いかなる意見の相違があったとしても、許されない悪の行為がひとつある。それは、何人(なんぴと)たりとも他人に対して犯してはならない行為であり、何人たりとも承認したり許したりしてはならない行為だ。人々が共存したいと願う限り、何人たりとも武力行使の口火を切ってはならない──聞こえているか? 何人たりとも──他者に対して武力の行使を始めてはならない。

 人間と現実の知覚のあいだに物理的な破壊の脅威を介在させることは、その生存手段を否定し麻痺させることだ。人に自身の判断に反する行動を強制することは、視覚に反する行動を強制するのと同じことだ。どのような目的であれ、どのような程度であれ、最初に武力の行使を開始する者は、人間の生きる能力を破壊することを前提にした、殺人よりも広い意味での死を前提に行動する殺人者にほかならない。

 自分の思考が相手の思考を力づくで押さえつける権利を確信しているなどと、まかりまちがっても口にしてはならない。武力と思考は相反するものであり、銃が始まるところで道徳は終わる。何者かが、人間は非合理的な動物であると宣言し、そのように扱うべしと主張するとき──矛盾の提唱者がそれを主張できないように──その者はそれによって自分自身の人格をも定義しており、もはや理性の承認を主張できなくなる。権利の源泉であり、善悪を判断する唯一の手段である知性を破壊する「権利」などありえない。

 三段論法の代わりに銃を突きつけ、証拠の代わりに恐怖を与え、死を最終弁論として、相手に思考を放棄させ、自分の意志を代用品として受けいれさせることは──現実に逆らって存在しようとすることだ。現実は人間に対して、自身の合理的な利益のために行動することを要求している。現実は、合理的な判断に基づいて行動しない者は死を招くと脅すが、独裁者は、そのように行動する者が死を招くと脅す。そして命の代償として、生きるために不可欠なすべての美徳を放棄するような世界に人間を追いこみ──やがて死が人間の社会における支配力、勝利の論拠とされるとき、独裁者とその体制が到達するのは、徐々に破壊されていく段階的な死のみだ。

 「金をとるか、命をとるか」と旅行者に条件を突きつける追いはぎであれ、「子供の教育をとるか、自分の命をとるか」と国民に条件を突きつける政治家であれ、その最後通牒の意味は「思考をとるか、命をとるか」であり──どちらも他方なくしては人間に可能たり得ない。

 仮に悪に程度があるとしたら、相手の思考を力づくで押さえつける権利を前提とする半獣人と、その権利を容認する道徳的堕落者のどちらがより卑劣であるかは言うまでもない。それこそは議論の余地なき道徳的絶対性である。私は、私から理性を奪うことを企てる人間に理性の条件を認めたりはしない。私に思考を禁じることができると考える隣人と議論したりはしない。私を殺そうとする殺人者の願いに道徳的承認を与えたりはしない。諸君が私を武力によって扱おうとするとき、私は──武力によって応じる。

 武力行使が許されるのは報復の場合においてのみであり、先に武力行使を発動した者に対してのみである。だからといって、私は相手の悪を共有しないし、相手の道徳概念に没するわけでもない。単に、破壊という相手の選択を認めるだけだ。その中で、彼が唯一選択する権利のある破壊、つまり彼自身の破壊に。彼は価値を奪うために武力を使う。私はただ破壊を破壊するためにのみ武力を使う。強盗は私を殺すことで富を得ようとするが、私は強盗を殺すことで富を得たりはしない。私は悪によって価値を求めないし、悪に価値を明け渡したりもしない。

 諸君を生かし続ける代わりに、その対価として死の最後通牒を受けたすべての生産者の名において、私は今、我々自身のひとつの最後通牒をもって諸君に答える。我々の仕事か、諸君の銃か。どちらかを選択するがよい。どちらも取ることはできない。我々は、他者に対して武力行使を開始したり、他者からの武力行使に屈したりはしない。もし諸君が再び産業社会に住むことを望むなら、それは我々の道徳的な条件に基づくことになるだろう。我々の条件と我々の原動力は、諸君の対極にあるものだ。諸君は恐怖を武器にして、諸君の道徳を拒否した罰として、人間に死をもたらしてきた。我々は、我々の道徳を受けいれる報酬として、人間に生を提供する。

 無(ゼロ)の崇拝者たる者どもよ──諸君は、生を得ることは死を避けることと等価ではないことにまるで気づいていない。喜びとは「苦痛がないこと」ではなく、知性とは「愚かさがないこと」ではなく、光とは「暗闇がないこと」ではなく、実体とは「非実体がないこと」でもない。建築は、解体を留保することによって行われるのではない。何世紀もそうした禁欲のなかに座って待っていたところで、諸君が解体を留保するための行桁一本すら渡されることはない──そして今や諸君は、建造者たる我々に向かって、「生産しろ、そして我々を養うのだ。お前たちの生産を破壊しない代わりに」と言うことはできない。諸君の犠牲者たちの名において答えよう。おのれの虚無とともに、虚無のなかで自滅するがいい。存在は否定の否定ではない。不在であり、否定であるのは悪であり、価値ではない。悪は無力であり、せいぜい我々からゆすり取る力しかない。自滅するがいい、我々はいまや無(ゼロ)が命を抵当にとることはできないと知っているのだから。

 諸君は苦痛からの脱出を求める。我々は幸福の達成を求める。諸君は罰を免れるために存在し、我々は報酬を得るために存在する。脅威は我々を機能させない。恐怖は我々の動機ではない。我々は死を免れることを求めるのではなく、我々が生きたいと願う人生を求める。
 
Ahoy! Ahoy! The doer alone learneth…

 
(参考文献)
アイン・ランド『肩をすくめるアトラス 第三部 AはAである』(脇坂あゆみ訳、アトランティス、2015年)
Rand, Ayn. The Virtue of Selfishness: A New Concept of Egoism (Signet Publishing, 1964)
村井明彦『グリーンスパンの隠し絵(上)』(名古屋大学出版会、2017年)
アラン・グリーンスパン『波乱の時代──わが半生とFRB──(上)』山岡洋一・髙遠裕子訳、日本経済新聞出版社、2007年

(オマケ)