2020.09.26
アイン・ランドのレイシズム論
先月の定例会では、アイン・ランドの論文集のうちVirtue of Selfishnessの中から「レイシズム論」を読みました。参加者はオンライン含め5名。
レイシズムの本質とその政治利用についてのランドの洞察は見事で、他の著作同様、半世紀以上も前に書かれておりながら古びていません。
ここしばらくBlack Lives Matter運動が盛り上がっていますが、論文が書かれた1963年は、キング牧師のワシントン大行進の年、公民権運動のピーク。南部ではいまだジム・クロウ法が有効で、リアルな人種差別が残っていた時代でした。
そんな時期に、アイン・ランドが人種差別をこのように強く非難していたことは、意外と知られていません。
ランドの思想を近代的な文脈で語るならば欠かせない分野だと私は思うのですが、彼女の作品と人物とアメリカ政治への関わりが、当時の公民権運動や市民権運動が目指したところ、論拠とした考え方とは相入れなかったから、かも。
ランドにとって、レイシズムとは化学的組成が人間の属性を決定づけるという考え方です。つまり人の性格や能力——優劣は生まれや祖先で決まるというもの。
それは何もアメリカの黒人差別に限りません。出生地や家系で人を判断することにも当てはまります。名門一家も、ナチスドイツも、血統によって人を判断する意味では同じだとランドは主張しています。かなり広義のレイシズムなのです。
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あらゆる集団主義がそうであるように、レイシズムは自分が稼ぎ出していないものの追求です。それは自動的な知識の追求であり、人々の人格に関する自動的な評価の追求であり、何よりも自動的な自尊心の追求です。(佐々木一郎訳)
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ランドにとってレイシズムは、怠慢な自己の確立法に過ぎないのです。
その上でランドは、レイシズムの解毒剤は一つしかない、それがすなわち個人主義の哲学であり、資本主義だと説きます。個人主義において、人は個人の特性で判断され、自由市場において、評価されるのは生産能力だけだからです。
ランドは政府によって制度化された南部の人種差別を戦った黒人指導者たちを高く評価していました。一方、歴史的な差別による人種クオータ制、いわゆるアファーマティブアクションについては、差別そのものであると否定します。
アイン・ランドは「個人主義」と「自由放任資本主義」だけがレイシズムの解毒剤であり、リベラルな福祉国家はむしろレイシズムを悪化させると主張します。ランドにとってはリベラルな福祉国家も集団主義と国家主義の一つの形なのです。
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「混合経済」におけるレイシズムの台頭は、政府の統制の強化と歩調を合わせます。「混合経済」は、制度化された内戦へと一国を崩壊させます。合法的えこひいきと特権を互いの犠牲で獲得しようと争う、圧力団体同士の内戦へと一国を崩壊させます。
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人種差別はよくないことに現代の高等教育を受けた人間であれば誰も異論はありません。意見が分かれるのは、様々な差別に由来して現実に存在する格差、「制度化された人種差別」に対して政治は、私企業は、一個人はどう対処するか。
いわゆるアファーマティブアクションを是とするかどうか、です。
この会の参加者の中では、必要一名、不要三名、わからない一名(私)でした。
必要とした参加者からは「差別が制度化された社会では、個人主義は人種差別を解消する万能薬にはならない」という声。
不要論者は、人種差別(逆差別も含む?)が権力と結びつくとろくなことにならない。政治におけるアファーマティブアクションは票集め、など。
私自身は、正直そこまで掘り下げて考えたこともなく、学生の時からどこかしらで誰かが熱く議論していたこのテーマについて、いまだ結論が出ていない状態。
ただ、アメリカの大学にいたとき大学新聞はじめあちこちで飽きもせずこのテーマが繰り返し取り上げられていた理由がわかってきました。
人種差別は無意味、だから無視、というのが、アイン・ランドの立場。
人種差別は悪、だから政府が是正策を講じる、というのが公民権運動だったり黒人女性その他様々なマイノリティーの政治団体の主張(おそらく)。
そこには、人種差別とは無関係に政府の役割についての思想の違いがあって、ランドのレイシズム論は、公民権運動と同時代という以外、なんの共通点もない…!
もう一つの論点は、ランドの広義のレイシズム批判をどうとらえるか。
まず、所属する民族や組織にアイデンティティーを見出すことについて、必ずしもネガティブなことばかりではないし、自分はそうではないけれど、そうした生き方を否定したくはない、という意見がありました。これには全く同意で、私はむしろ、歴史や繋がりの強い民族なりコミュニティーが、伝統や技術をアップデートしていくことで文化はどんどんよくなる、というスタンスです。
かくいうランドも、本人は完全に否定しているけれど、アメリカというよりは生まれ育ったロシア文化(とユダヤ人文化)の産物だと私は思っています。
『肩をすくめるアトラス』を訳していたとき、何かの参考になるかとドストエフスキーやトルストイを読んでましたが、帝政ロシアの文化で育った人たちにとっては作品の長さは気にならないし、ランド作品の中の長い演説も、それに比べたら特に違和感がないかも。
最後に、今のBlack Lives Matterにどう反応するか、について。
アメリカ人の参加者のお父さんが警察官(白人)ということで、実際はどうなんだろうねーという話になりました。本当に黒人の方が職務質問されて不当に扱われ殺されているのか、データを提示されないとなんともいえないよね、と。
あと、自分はどうなんだという話ですが、日本では、日々生まれつきの人種で差別されたり、を感じたことはあまりないので、アメリカでの短い体験で言うと、人種というよりは外国人であることと英語が辿々しいことのデメリットの方が多かったような。生々しいあからさまな差別は7年間くらいで一度も受けませんでした。
Black Lives Matter運動自体はかなり原始的な映像ばかりが目につくけれど、いま現在ある差別はもっとずっと曖昧で言語化し難いものではないか、というのが実感です。
次回9月26日の定例会では、「ポリティカルコンパス」についてディスカッションを行います。