2020.06.07
米国リバタリアニズムのルーツと現在
金曜日、「米国リバタリアニズムのルーツと現在」をテーマにオンラインでの定例会を開催しました。講師は、米国でリバタリアンの草の根運動の経験もある会員のマット・ノイスさん。
現在、日本のシンクタンクに勤務されていますが、草の根の政治運動を日本でも広めていきたい、というなかなかチャレンジングな野心を持っておられます。
リバタリアンといえば、日本では他人の我慢に便乗し自由に生きるフリーライダーと捉えられがちですが、アメリカではコーク兄弟に代表されるように活動家の層も厚く、政治思想としてのリバタリアニズムの「草の根運動」が組織化されています。
せっかくなので、彼ら活動家の一人の視点から、リバタリアニズムとは何か、そのルーツと現在の広がりについてお話いただきました。
詳細はこちら。
リバタリアニズムは、個人の自由(Liberty)を最高の価値とし、政府は人権(アメリカ独立宣言の言葉で「生命、自由、及幸福の追求を含む不可侵の権利」)を守るために存在するという考え方。国家は個人に仕えるものでありその逆ではないことが前提。自由至上主義と訳されることが多いですが、個人至上主義ともいえます。
自然権としてのLibertyは、17世期にジョン・ロックが既に提唱していた概念ですが、独立宣言を起点に現代に至るまで合衆国の成立と政治思想の根幹にあります。
リバタリアニズムの定義は様々ですが、アイン・ランドのObjectivismに近いのは、この「政府は国民の自由と人権を守るためにのみ存在する」というもの。
ただしリバタリアニズムの人権は、他人の人権を侵害しない限り自由に活動する自由(Liberty)であり、最低限度の生活を保障するものではありませんが。
マットさんの政治スペクトラムも個人と国家の関係におけるLibertyの度合いを物差しに政治体制を評価しています。リバタリアンは個人の自由度が最も高い国家を目指すのです。
象徴的な政策としては、移民・貿易は自由化し、銃規制はしない、といったもの。
ただし個別の政策によって当然ですが、個人差はあります。
Black Lives Matter運動に関しての立ち位置なども、いずれ掘り下げてみたいですね。
ちなみに、アイン・ランドはリバタリアニズムと関連づけられることを大変嫌っていましたが、マットさんのプレゼンテーション中のJon Allisonの引用が分かりやすい。
「オブジェクティビストは皆リバタリアンだがリバタリアンが皆オブジェクティビストとは限らない」
リバタリアニズムの中でのスペクトラムも相当幅広いのですが、少なくとも、objectivismは無政府主義ではありません。ランド自身、同時代のマレー・ロスバードとも交流はありましたが、ロスバードの主張ははるかに「過激」でした。
ではなぜ、ランドがリバタリアニズムと結びつけて語られるかというと、1950年代以降、ランドの小説をきっかけにリバタリアンとなった若者が多かったからです。
橘玲さん翻訳の『不道徳な経済学』で知られる学者のウォルター・ブロックはその典型で、学生時代バーニー・サンダースと同じ学校の陸上部に属し、当時のニューヨークでは一般的な社会主義者でしたが、ランド思想をディスろうと大学内での演説会に参加し、ナサニエル・ブランデンに誘われたランドとのランチの席で勧められた『肩をすくめるアトラス』を読んで、リバタリアンに転向しています。
ランドはリバタリアニズムの生みの親ではありませんが、アメリカ建国の前提となっているリバタリアニズムをよりシャープに言語化することで、一つの政治思想として確立させ、政治文化として定着させる大きな力になったといえます。
自分自身をリバタリアンと認識しているアメリカ人は現在、20%弱はいるとのこと。
ディスカッションでは、日本のリバタリアニズムの可能性についても。
日本では、「国の成り立ちがかなり違うので、リバタリアンの考え方が馴染むかというとかなりローカライズしていかないと、正直難しい」(ゲスト参加の早稲田大学国際戦略研究所の佐藤正幸さん)というご指摘。
次回は、レナード・ピーコフ博士のObjectivism: The Philosophy of Ayn Randからの一節を読みます。ご興味のある方は、ぜひ。