2020.05.10
The Goal of My Writing
新型コロナウィルスの流行により延期していた定例会をZoomで開催しました。
今回は、ランドの論文集Romantic Manifestoから The Goal of my Writing.
メンバーの宮崎さん、佐々木さんの日本語訳をベースにディスカッションしました。
ランドの小説のスタイルは独特です。特に代表作『水源』、『肩をすくめるアトラス』では、ありえない人物造形と、読者を辟易させるほどの長い演説が特徴。(処女作『われら生きるもの』は、このスタイルが確立される前の作品のため、ごく普通の小説として読むことが可能です。)
このエッセイを読んで、参加者からは「ランドの小説がなぜこんなに変わっているかよくわかる」という声がありました。
ランドがフィクションを書く目的は理想的な人物とその価値観、かれらが存在し続けられる社会システムを提示すること。小説においては、主題とそれを支えるストーリー、プロット、キャラクターがまず厳格に選択されていくべきとランドは主張します。
だから小説では、道徳的理想を体現する主人公と真逆のアンチヒーローを鮮やかに、対比させます。そしてあらゆるニュアンスを排除した長い演説が登場人物の行動規範を説明するのです。
現代の優れたアートとして認められた作品は、その倫理的前提というよりは、それを示唆する文脈やメタファーなどの技巧的表現が評価されています。スーパーヒーローがアンチヒーローをやっつける明快な勧善懲悪の物語は、そんなハイコンテクストな文化に慣れた私たちの多くをしらけさせてしまう。
一部の読者からのランドに対する強い拒否反応は、思想的な対立に起因することがほとんどかとは思いますが、複雑であること、暗示的であること自体を洗練のサインとみなす文化からの自然の反応でもあるかもしれません。一方、熱狂的な支持は、ときに偽善的で息苦しいハイコンテクスト文化、その排他的な様式と胡散臭さへの抗議と解釈することもできます。
エッセイの中でランドは、レンブラントの『屠殺された牛』を引き合いに出し、こう言います。
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「目的と手段の間には、二分法はなく、必然的な対立もありません。倫理学においても美学においても、目的が手段を正当化することはありません。また、手段が目的を正当化することもありません。屠殺された牛を描くことに費やされたレンブラントの偉大なる絵画的技巧を、美学的に正当化できる根拠などないのです」(訳 宮崎哲弥)
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ランドにとってアートとは、理不尽でおぞましい現実世界の描写ではなく、人間のあるべき姿を示す光であり、例えば優れたユゴーの小説などは「燃え続けるかがり火」だったのです。
さて、私自身は、全てのアートや小説に理想どころか意味を求めることもしません。美しい小説は、価値観は別として、読むだけで楽しいものです。平野啓一郎さんの思想に全く同意できなくても『葬送』の小説世界には耽溺できる。
一方で、「手段は目的を正当化しない」とはすべての仕事、すべての行為に当てはまること。
レンブラントの技術を取得することだけに心を尽くしてはいないだろうか。
仕事のやり方や形式、「見栄え」ばかりに気を取られてはいないだろうか。
さしあたり目の前の人に優しくすることだけで日常をやり過ごしてはいないだろうか。
ランドのように全てにいちいち厳格な判断を下していたら死んでしまいますが、時々はそんな視点も持ちたいものです。
次回は6/5(金)、アメリカで草の根の政治運動(Tea Party)に関わっていたメンバーのMatthew Noyesさんが、アメリカのリバタリアニズムについて解説してくださいます。奮ってご参加ください。