2022.08.24
アイン・ランドのロシア・ファクター; 「ロシア的人間」としてのランド、「ロシア文学」としてのランド小説
「ロシアは今日、世界の話題(トピック)である。誰一人ロシアに無関心ではいられない。人類の未来とか、世界の運命とか、人間的幸福の建設とかいう大きな問題を、人はロシアを抜きにしては考えることができない。」
「全世界の目が向けられている。全世界が耳をそばだてている。ロシアは一体何をやりだすだろう、一体何を言い出すだろう、と。今やロシアは世界史の真只中に怪物のような姿をのっそり現してきた。」
「今日、ロシアはまさに文字通り一個の全世界史的「問題(プロブレーム)」として自己を提起した。みんながこの「問題」を解決しようと焦心する。ロシアの正体を誰もが知りたいと念願する。この怪物は一体何者なのか?彼は何をしようというのか?」
「今日でも、ロシアは依然として多くの人々にとって不気味な謎なのである。今も昔とかわりなく人はロシアの前に立って首をかしげている。」
これは、1953年2月、スターリンの死(1953年3月5日)の直前に初版出版された、井筒俊彦著『ロシア的人間』の冒頭の一節である(2022年7月に中公文庫から新版が出されている)。今も昔も、ロシアは世界史におけるゲーム・チェンジャーであり、既存秩序の破壊者であり、世界が抱える矛盾や問題そのものを体現する存在として立ち現れており、そのトップに君臨する支配者の言動は肥大化し、あたかも国家の意思そのものを体現するかのようである。2022年2月に始まったウクライナ侵攻後、世界はプーチンのロシアという「現代のリヴァイアサン」の一挙手一投足に反応し、その「意図」や「目的」を分析しようとし、映像で流れる彼の表情や会談の席次からすらも、何らかの「兆候」を読み取ろうと躍起になっている。
アイン・ランドが生まれ育った20世紀前半のソ連・ロシアも、政治、経済、文化、思想といったあらゆる分野において、国家体制とそこに生きる人々の内面までをも垂直的・強制的に統合しようとする包括的な価値体系(イデオロギー)の提示によって、文字通り世界史を変える程のインパクトを世界に与えていた。
言うまでもなく、ランドにとっては、このソ連が提示した価値観(国家による利他主義の強制、共産主義イデオロギーによる個人の権利・自由の接収、生産の計画化・平準化による個人の能力・創意工夫の否定)への徹底的な嫌悪と反発は、アメリカ亡命後の創作や哲学形成の原点であり、立脚点とも言える体験である。さらに言えば、ランドが確立した価値体系、客観主義哲学において「倫理的に正しい」とされる多くの点は、まさにソ連社会における価値体系を極悪として全否定し、そこから180度反転させたものとさえ言える。
しかし、ソ連への反発にも関わらず、いやむしろその反発の極端さの故にこそ、ランドの人格や生き方は極めて「ロシア的」であり、ランドの著作は「ロシア文学」の特徴を極めて濃厚に表している。
今回は、そのようなランドの「ロシア・ファクター」について、井筒の『ロシア的人間』を手引きとして考察してみたい。
「学生時代以来、ロシア文学は私の情熱だった。ロシア文学との出遭いは私を異常な精神的体験とヴィジョンの世界の中に曳きこんだ。」
「そしてそれが、私の魂を根底から震撼させ、人生にたいする私の見方を変えさせ、実存の深層にひそむ未知の次元を開示して見せた。この意味で、十九世紀ロシア文学の諸作品はどんな専門的哲学書にもできないような形で、私に生きた哲学を、というより哲学を生きるとはどんなことかということを教えた。」
井筒は、日本で最初の『コーラン』の原典訳の完成等のイスラーム研究者としての業績や、30以上の言語に通暁する語学の天才であったことが広く知られているが、若き日に19世紀ロシア文学に耽溺したことはあまり知られていない。井筒が19世紀ロシア文学によって魂を根底から揺さぶられた体験を「自分自身のなまの言葉で、そのままじかにぶちまけた」のが本書であり、日本人によって書かれたロシア人論・ロシア文学論の名著である。
ランドの小説は、いわゆる「ニューイングランド」としてのアメリカ植民地を起源とする「アメリカ文学」の系譜からは全く外れている。また、ランドは、ほぼ同世代のウラジーミル・ナボコフら「亡命ロシア人作家」のカテゴリーにも含まれない。多くの亡命ロシア人作家が、愛憎いずれにせよロシアへの望郷やノスタルジーをテーマとするのに対し、ランドの小説にそのような要素は微塵もないからである。ランドの小説は、様々な政治的レッテルにも関わらず、文学史的には「未分類」のまま放置されてきたと言えるのではないか。
ランドの小説は、井筒が19世紀ロシア文学から得た衝撃的なまでの実存的体験、即ち「哲学を生きるとはどんなことか」という問いを、アメリカ社会の多くの読者に与え続けてきたのであり、それ故にこそ「聖書に次いでアメリカ人が最も大きな影響を受けた本」とされる程に読み継がれてきた。その意味では、ランドの小説は、アメリカ社会を舞台として英語で書かれた「ロシア文学」として捉えるのが適当ではないだろうか。
「ロシアの自然は、西ヨーロッパの自然や日本のそれとはおよそかけへだたった恐ろしい、巨大な自然なのである。」
「ロシア人が棲息する精神的風土は極限であり精神の限界地点である。彼は常に極限を想い、「遥かなる彼方」を望見する。中庸の徳は彼にとっては徳ではない。だから彼は絶え間なく、一つの極端から他の極端へと傍若無人に身を翻して脱出する。」
「ロシア人の魂は、ロシアの自然そのもののように限界を知らず、たとえ知っても、あえてそれを拒否しないではいられない。「一切か、しからずんば無!」というロシア独特の、あの過激主義(ラディカリズム)はこういう魂の産物である。」
まず井筒は、ロシア人の民族的性格・精神的風土について、人間が生存し得る極限的な自然環境からなる「過激主義(ラディカリズム)」を挙げている。確かに、ドストエフスキーやトルストイといった、その著作のみならず人生そのものが極端にドラマチックな作家たちや、デカブリストから始まる革命家たちの系譜を見るまでもなく、ロシア人、特に知識人・文学者は、極限まで論理を突き詰め、極端から極端へと飛躍する思考様式、そしてそれを現実の政治的発言・行動に直結させてしまう独特の過激な行動様式を共有している。
ソ連的価値観への徹底的な否定から、自由放任主義、利己主義の全面的な肯定へと飛躍するランドの思考・行動様式は、このロシア知識人に特有のラディカリズムの傾向を強く受け継いでいると言える。
「ロシア人にとって限界は自由の束縛、すなわち悪を意味する。限界があることこそ醜悪なのである。」
「自由への非合理的な愛、この自由への熱狂的な情熱はロシア人に特有のものである。ロシアの偉大な思想家たちはいずれも、人間存在の究極の問題を自由の問題として把握した。」
「ロシア文学全体の中心軸は人間である。ロシアの文学者は全精力を挙げて人間という問題にぶつかって行く。」
「ロシア文学の人間学は、全体から見て、人間存在の根源的な危機の自覚に立った人間学であり、今日の世界文学の常識から言えば正に実存主義的である。」
権力による自由の圧殺を受容する一方で、ロシア人は、原初的な、野放図な、時に暴力的ですらある「無制限の自由」を愛する人々である。より正確には、無制限の自由を愛する人々が好き勝手に行動しては無政府状態となり社会がバラバラになってしまうため、社会をまとめるためには時に暴力を伴う強い権力が必要である、という考えを多くのロシア人が消極的にせよ受入れている。(それは端的には、「ゴルバチョフ・エリツィンの時代よりもプーチンの時代の方がマシ」という言葉で表される。)
ランドは、この「暴力による社会統制」を完全に拒否し、最小国家主義、自由放任主義的資本主義という制度によって、極限まで個人の権利・自由や創意工夫を担保すべきと主張する。この意味で、ランドもまた、合理主義をまとった理論武装にも関わらず、このロシア人の「自由への非合理的な愛」、「自由への熱狂的な情熱」を密かに共有し、ロシアの思想家たちと同じく「人間存在の究極の問題を自由の問題として把握」しようとした作家と言えるのではないか。ランドの問題設定は、「守るべき至上の価値である「何物にも邪魔されない人間の自由」をどうすれば確保することができるか」であり、そこからあるべき社会の姿や国家の役割、そこに生きる人間が備えるべき倫理・道徳・能力とは何か、という主題が導かれてくる。
ランドの小説『水源』や『肩をすくめるアトラス』では、まさに「国家権力による利他主義の強制」という暴力を受けて価値観の存亡の危機に瀕した資本主義社会において、最も倫理的な人間の在り方とは何か、という実存の問題を主題としているのである。
「現状に満足しきった文学者はロシアにはいない。だから、何らかの方向に問題を解決できた人、ないしは少なくとも解決への見通しのついた人は、みんな予言者的になる。文学が予言的であることはロシア文学の、著しい特徴である。」
「自分が世界を、人類を救わなければならぬ、悩める同胞のために救済の道を指し示してやらなければならぬ、そう考えて仕事をしているところにロシア文学者の異常な予言者的熱情がある。」
ランドの小説『アンセム』、『肩をすくめるアトラス』は、明らかに、ソ連及びその価値体系が帰結するであろう「個人の自由という概念が死滅した社会」というディストピアを予見しており、ランドの予言者的性格・熱情を最も顕著に表している。
しかし、全体主義的ディストピアを題材とした小説自体は、ランドの他にもザミャーチン『われら』(1927)、ハクスリー『すばらしい新世界』(1932)、オーウェル『動物農場』(1945)、『1984年』(1949)等、多くの作品がある。ただ、こうした作品はほぼ全て、体制の欺瞞に気づいた個人が体制側に物理的/思想的に殺されるか社会から追放されて幕を閉じるのに対し、ランドの『肩をすくめるアトラス』が持つユニークな点は、能力ある人々(芸術家、科学者、資本家、エンジニア、経営者)が利他主義の強制に毒された社会から次々に脱出して外界から隔絶した理想郷(ゴールト峡谷)に集結し、最後には大統領の国民向けラジオ演説の電波をジャックして旧社会に絶縁状を叩きつけるという痛快な(?)筋書である。これは、他の作家達と異なり、旧大陸を脱出してアメリカという新天地に亡命したランドにしか構想し得なかったシナリオであろう。
『肩をすくめるアトラス』で執拗に描写されている、誰もが無責任な「たかり屋」となり、結果の平等のために「最上のもの」が「最低のもの」と同列に扱われた結果、あらゆる産業やインフラが麻痺状態になり、人民の不満が爆発し社会が崩壊していく有様は、ソ連社会末期の様相を驚くほど正確に予見している。ここで腐敗・堕落したアメリカ社会は明らかにソ連社会のアナロジーであり、ゴールト峡谷は亡命者たちが辿り着く理想郷としてのアメリカを示している。その理想郷を建設し、そこに加入する資格のある者たちを選別・勧誘・保護し、旧社会の干渉を拒絶するジョン・ゴールトは、ランド自身の分身に他ならない。(だからこそランドは『肩をすくめるアトラス』出版以後の講演やインタビューで、自身の主張を述べる際にゴールトの演説を頻繁に「引用」するようになる。)ランドはまさにソ連社会の終末の予言者であると同時に、「あるべき資本主義」とそれが「実現されるべき場所としてのアメリカ社会」、そして何よりも「最上の価値としての人間の自由と道徳」の守護者たらんとする熱情に満ちているのである。
「あの気狂い沙汰としか思えない検閲制度の下で、一切の言論の自由と思想の自由とを封鎖された帝政ロシアにあって、文学だけがわずかに許された思想発表の抜け道だったのだから、文学がますます思想性を帯びてくるのは無理もない。」
「外国では、もうとうの昔に専門の学問にまかされている政治や法律や経済上の諸問題がここでは文学者によって真剣にとりあげられる。」
「作家のこういう態度は、ロシア文学の構造を根本的に規定する。つまり文学の芸術としての形態とか、美的観照とかは二の次で、何よりもまず内容が問題なのだ。」
「その反面、質料的なものの過重は芸術性の見地から見ると多くの欠陥を生むことにもなった。」
ロシア文学においては、人間の実存、宗教、哲学、思想、芸術、恋愛、政治、戦争、法律、経済、科学技術といった、個人/社会/国家/世界に跨るありとあらゆる問題が、ひとしなみに「ごった煮」の状態で盛り込まれる。そこでは「個人の問題」と「世界の問題」といった主題の区別はなく、むしろ個人と世界は直結している。文学的なカテゴリー、ジャンル分けもあまり意味をなさず、「ロシア文学はロシア文学である」としか言いようがない。ランドの小説も、プロットにおいてはロマンス、ミステリー、SF等あらゆる要素が散りばめられつつ、自由と統制、個人と国家との対峙といった社会的・思想的問題が混然一体となって取り上げられる「ごった煮小説」の典型であると言える。ランドの小説においても、その独特の比喩、同一内容の繰り返し・強調、修飾語の多用といった表現の過剰さや、ドストエフスキーの小説の登場人物を思わせる異常に長いモノローグは、小説の文体としての美的側面の観点からは明らかに欠点であると同時に、大きな魅力ともなっている。
ここまで井筒の『ロシア的人間』を手引きとして考察してきたが、「聖書に次いでアメリカ人が最も大きな影響を受けた本」「リバタニアニズムの女神」とまで言われるランドの著作、そしてランド自身に、多くのロシア的な要素が隠されていることは、意外な印象を与えるかもしれない。しかし、それはランドの出自を考えれば至極当然のことでもある。
ランドはソ連社会の価値観を全身全霊で否定し、それと正反対の価値観をアメリカに打ち立てようとしたが、それを可能としたものがランドのロシア的性格であり文学手法であったとすれば、少なくともアメリカのナショナル・アイデンティティの一端は、ソ連・ロシアを起源としランドを媒介として移植されたものであると言えるのではないか。ランドの哲学や著作が、アメリカ社会の中でも極めて特異な位置を占める理由も、こうしたところにあるのかも知れない。
(参考文献)
井筒俊彦『ロシア的人間 新版』(中公文庫、2022年)