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BLOG

2018.12.07

「ベーシックインカム」という妖怪

Author : 脇坂あゆみ

以前いた会社で事業開発を担当し、あるファンドを経て、いま官民ファンドの役員になっている前の会社の先輩に会った。なんの拍子だったか、「ベーシックインカム」の話になった。

「ベーシックインカム」はいまや歴史の必然みたいなものだそう。テクノロジーやAIによっていまある仕事のほとんどはなくなり、富が集中し、多くの人の暮らしはなりたたなくなる…とか。

「ふうん。じゃあどうしていまこんなに人手不足なんだっけ? 介護は? 保育は?」

「いやあ、だからだいぶ先のことだよ」

そんな感じで、互いに素人だからそれ以上は話をしなかったのだけど。またざわざわしました。

いまある仕事がなくなって、多くの人が食べていけなくなるというのが、胡散臭い。

「仕事がなくなる」というのは、市場に参加しつつ生活している人々が、なにも手を動かさなくても心豊かに幸せに生活していける状態をさすのだと想像してみると。

たとえば百人いたとして、十人しか働かないでみんながそんなふうに暮らしていける社会はいま想像する限りでは不可能だし、それが実現しているなんてことがあればそれこそ胡散臭い。そこには正直に働く人だけが、理不尽に、不本意に、ひどく働かされている状況があるはずだから。

たしかに、社会保障費を合計して均等に割って何も考えずに配った方が行政コストがかからない、という理論は胡散臭くはない。ただそれは人の人生のステージを考えた時によいしくみではないだろう。弱くて能力もない18歳までの子供や、90歳以上の長生き老人、たまたま身体的なハンディを背負っている人、病気の人は、いまの社会保障費を均等に割った金額では十分に幸せには生きていけない。弱者のみを救済する仕組みは、合理的と思う。

また、健康で、それなりに教育もうけて、更新を続けている普通の大人たちが、炊事洗濯買物育児に煩わされることもなく、仕事もそこそこに、本を読んだり音楽を聴いたり、休暇には旅行にいったり、どこかの産油国の特権階級の生活を、機械やAIが仕事はもとより特段のメンテナンスもケアもなしに、人間と同じレベルかそれ以上で実現可能となったときには、さて仕事がなくなった、ベーシックインカムが必要、という議論があってもよいかもしれない。

でも現実はそうじゃない。会社員もフリーランスでも自営業の人も、学生さえも、いまだにみんなバタバタと起き、朝ごはんもそこそこに、きつきつの仕事や勉強にむかっている。10年前よりもいろんなことが便利になったけれど、そこのところの窮屈さは、あまり変わっていない。

ベーシックインカムって、あらゆる日常の雑務は献身的な家族や周囲にまかせて自分で1日とちゃんと生活したことがない経済学者や南国のサーファーのファンタジーなんじゃないだろうか?

世の中に十分な仕事がなくなるとか、100年早い議論じゃないかと思う。