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2021.06.23

「個人の権利」と香港の民主化運動

Category : アート
Author : 宮﨑 哲弥

  ボブ・ディランが主演(及び脚本)を務め、2003年に公開された『マスクト・アンド・アノニマス(ボブ・ディランの頭のなか)』(監督:ラリー・チャールズ)は、近未来の架空の独裁制社会主義国家(アジェンデ大統領によるマルクス主義政権下のチリ、あるいは、ノーベル賞作家のマリオ・バルガス=リョサ『チボの狂宴』や、ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』にも描かれている、独裁者のトルヒーヨ政権下にあったドミニカ共和国あたりがモデル?)を舞台にした一種のSFディストピア映画だったが、ディラン演じる落ちぶれた歌手「ジャック・フェイト」(映画の最後にその意外な素性が明かされる)が、ステージに上がり《ダウン・イン・ザ・フラッド》を歌うシーン(そのバックバンドの名が「シンプル・ツイスト・オブ・フェイト」というギャグ)に続いて、荒廃した街の通りに響き渡るラジオ放送から、説教師がこう告げている声(声の主は監督のラリー・チャールズ)が流れる──

「政府が持つ唯一の力は、犯罪者を取り締まることだ。犯罪者が足りなければ、犯罪者を作るのだ。なんでもかんでも犯罪にしてしまえば、法律を破らずに生きることができなくなる。法を守る市民の国を誰が望む? そんなことをして誰のためになる? 順守も、施行も、客観的な解釈さえもできない法律を作ればいい。法を犯す人々の国を作り、その罪悪感を利用して儲けるんだ。それが制度であり、ゲームなのだ。そのことを理解すれば、おまえたちも安心して眠れるようになる。人生とは、タクシーに乗っているようなものだ。止まっていてもメーターの料金は上がっていくんだ」

 熱心なアイン・ランドの読者であれば、「ハテ? どこかで聞いたような台詞だな」と思ったのではないだろうか。そう、思い出されるのは、『肩をすくめるアトラス』のなかで、「だが、結局のところ、私は君らの法律を破ったんだ」と言う、独立独行の鉄鋼王ハンク・リアーデンに対して、彼を説得しに来た政府の使者が言う次の台詞──

 「やれやれ、法律が何のためにあると思われます?」(中略)「あんな法律を守ってほしいなんて思うものですか」フェリス博士がいった。「破ってほしいのです。あらゆる政府の唯一の権力は犯罪者を取り締まる力です。で、犯罪者が足りないときにはそれを作るのです。何もかも犯罪だときめれば、法律を破らずに生きていくのは不可能になる。誰が法規に従順な市民国家を望みますか? だが、順守も、施行も、客観的な解釈も不可能な法律を通過させれば──法律破りの国家ができる──そこで罪悪感につけこむのです。さあ、リアーデンさん、それが制度です。駆け引きです。いったんそれを理解いただければ、あなたはずっと取引しやすくなるでしょう」(脇坂あゆみ訳『肩をすくめるアトラス 第二部』~第三章「白いブラックメール」アトランティス、2014、P.169)

 はたして映画の台詞が『肩をすくめるアトラス』からの「引用」なのか、「パクリ」なのかはさておき(ディランにとっては、『浅草博徒一代』(佐賀純一著)をはじめ、自分が読んだ本の一節を、版権者への断わりもなく自作に取り入れることは、朝飯前の常套手段だともいわれているようだが)、そんなことよりも、政府の使者の言葉に耳を傾けていたリアーデンの顔に、「探していたものを初めて見つけてはっとした表情」が浮かんだとあるように、ランドの読者のなかには、2020年6月30日に香港で「国家安全維持法」が発令・施行されたという報道を受けて、思わず『肩をすくめるアトラス』の台詞を連想し、「はっとした表情」を浮かべた者も少なからずいたのではないだろうか。

 ランドは、「個人の権利」と題したエッセイにおいて、「権利」の意味を、以下のように明確に定義する──

 「権利」とは、社会的文脈において人間の行動の自由を定義し、承認する道徳原理です。基本的な権利はただひとつしかありません(他のすべての権利は、その帰結もしくは付随物にすぎません)。それはみずからの人生に対する個人の権利です。人生とは、自己持続的・自己生成的な行動のプロセスであり、みずからの人生に対する権利とは、自己持続的・自己生成的な行動に従事する権利を意味します──つまり、みずからの人生を支え、促進し、充実させ、楽しむために、合理的存在としての本来的性質から必要とされる、あらゆる行動をとる自由があるということです。(それが生きる権利、自由、幸福の追求の意味です。)(Rand, Ayn, “Man’s Rights”, The Virtue of Selfishness, New American Library, 1964),(拙訳、以下同)

 
 そして、「個人の権利を侵害する」ということはどういうことなのかについて、こう述べている──

 個人の権利を侵害するということは、その人の判断に反した行動を強要すること、価値を剥奪することを意味します。基本的にそのための方法とは、物理的強制力の行使しかありません。個人の権利を侵害する可能性があるもの、それはすなわち犯罪者と政府です。米国の偉大な業績は、この両者を区別したことでした──犯罪者の活動の合法化された形態を政府に禁じることによって。

 さらにランド曰く──

 自由な社会を生んだのは、個人の権利という概念でした。自由の破壊は、個人の権利を破壊することから始まる必要があったのです。

 集産主義の専制政治は、物質的もしくは道徳的な価値を公然と没収して一国を奴隷化することはできません。それは、内部腐敗のプロセスによって行われる必要があります。物質的な領域においては、通貨のインフレによって国家の富が略奪されるように──今日では、インフレのプロセスが権利の領域に適用されているのを目のあたりにすることできます。このプロセスでは、新たに公布された「権利」が増大するため、人々は概念の意味が逆転していることに気づきません。悪貨が良貨を駆逐するように、これら「印刷される権利」は、真正の権利を否定するのです。

 個人の権利は、人類の歴史のなかでとても新しい概念であるため、ほとんどの人は今日まで完全にそれを理解していません。神秘主義と社会主義のふたつの倫理理論に従って、権利は神の賜物であると主張する者もいれば、権利は社会の賜物であると主張する者もいます。しかし、実際には、権利の源は人間の本来的性質なのです。(前掲書)

 さて、前置きはこの辺にとどめるとして、4月に開催した「ウイグル問題共有会」に続き、今月のARCJ定例会では、大規模なデモによる動乱が記憶に新しい香港に焦点をあて、アイン・ランドによる上記エッセイ等も参照しながら、2010 年以降の環境変化、「犯罪者」の中国への引き渡しや立法院議員の選挙、国家安全法などをめぐる最近のデモや政府の弾圧について、その概要やポイントを共有した。

 発案・発表は、当協会メンバーのうち、中国での起業経験を通じて中国人および中国事情に精通し、『なぜ中国はこんなにも世界で嫌われるのか』(幻冬舎新書、2013年)の著作もある内藤明宏氏。当日配布された資料はこちら

 「個人の権利」のなかでランドは、個人を神秘的または社会的な何らかの上位の権威に従属させる利他主義・集産主義の教義に基づく伝統的な社会を「非道徳的社会」とし、近代に登場した個人の生得的な権利を認める社会を「道徳的社会」と定義する。この定義に基づき、ファラオを現人神としたエジプトの神権政治、アテネ(古代ギリシア)の無制限多数決または民主主義、ローマ皇帝が運営する福祉国家、中世後期の異端審問、フランスの絶対王政、ビスマルクのプロイセンにおける福祉国家、ナチスドイツのガス室、ソ連の虐殺施設は、いずれも非道徳的社会が人民にもたらした結果であると位置づけられるのに対し、個人の権利に立脚した歴史上初めての「道徳的社会」こそ、アメリカ合衆国であるという。そして、次のように断言する──「自由放任資本主義を擁護する者だけが、人間の権利の擁護者なのだ」と。

 自由放任資本主義社会の代表格の一つであり、2014年から2020年にかけての動乱を通じて様々な影響と余波で揺さぶられ、社会構造が大きく変質してきたとされる香港。周知のように、2019年に始まったデモは2014年を大きく上回る200万人級(香港の総人口約750万人のうち約3割が参加)となり、その後の国家安全法成立による一国二制度の事実上の崩壊は、香港返還に次ぐ戦後最大級の事件となった。

 まず、内藤氏は、そうした動乱の最大要因として、世代交代と中国への反発により、それまで意識されることのなかった「香港人アイデンティティ」が生じたことを指摘した。そして、現在の香港を理解するための最大のポイントとして、香港において「世代の分断」が起きていることを挙げた。つまり、中国への親近感を持つ親世代と、反発しか感じない若年世代には意識の分断があるということ。

 それと同時に「社会の分断」もあり、今回のデモ弾圧により、この数十年で醸成された正義感ある香港警察のイメージが完全に失墜し、市民との信頼関係が完全に失われたという。そうしたことから、金儲けだけに関心のある香港人と、政治的権利を諦められない香港人がもはや分かり合うことはないだろうと内藤氏はいう。

 内藤氏がまとめた資料によれば、イギリス統治下の香港は、基本的に自由放任の資本主義社会だったとはいえ、香港市民に参政権はなかった。当時は香港市民の政治参加意識は希薄で、経済活動に注力していた。レッセフェールらしく経済成長率が乱高下したり信用危機も起きたが、大体において社会は順調に発展してきたという。また、大陸からは多くの避難民が流れ込み、急速に人口が拡大するなか、多くの期間において、大陸出身者(第一世代)が香港人口の40 %近くを占めてきたとされ、香港の人口動態は大陸での混乱と関係値が最大の変数となってきた。

 いっぽうで、内藤氏の説明で今回初めて知ったのだが、香港は生活用水の60 %を広東省から敷かれたパイプラインによる給水に依存しており、香港の生活は中国からの給水なしには成り立たない。したがって、深刻な渇水とパイプラインの恩恵を実感し、幼少期を大陸で過ごした第一世代の多くは中国本土に対し好印象をもっていたという。ところが、新世代は異なっていた。新世代の若者たちは、中国政府が民主化の約束を破ったと感じ、自由な香港の将来に深刻な不安を覚えたのだった。彼らが台頭してきた返還後の香港では、本土との関係悪化によって、それまで表面化することのなかった香港人のナショナリズムが顕在化し、急速に広まっていった。

 2014年に、次期香港行政長官の普通選挙導入が否定されたことや、愛国教育導入案への反発から巻き起こった、通称「雨傘革命」と呼ばれたデモもまた、そうした世代間の意識格差が大きく影響していたという。そのときは、約三か月にわたるデモや占拠活動の後、愛国教育カリキュラムは取り下げられたが、民主化(普通選挙)要求は通らないまま、一旦は収束に向かった。

 しかし、2019年の逃亡犯条例改正の動きにより、香港市民が中国政府に身柄を拘束されるという恐怖から、再び大規模な反対デモが勃発。「雨傘革命」では、デモを率いた若いリーダーたちの存在があったが、今回のデモ参加者らはあえてリーダー不在とする戦略を採り、匿名通信アプリで連携しながら、香港行政府に対し、①逃亡犯条例改正案の全面撤回、②(警察の暴力について)独立した調査委員会の設置、③林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官辞任と普通選挙の実施、④デモ参加者の逮捕撤回、⑤デモの「暴動」認定の撤回という、5大要求を突き付けた。いっぽう、香港警察はデモ隊に強硬に対応し、大量の催涙ガスやゴム弾を使用。白バイによるひき逃げや、至近距離から実弾を撃ち高校生を重体にする等の「物理的強制力の行使」により、市民の香港警察への信頼は完膚なきまでに損なわれ、結果的に、一国二制度の限界も明らかとなった。

 内藤氏は、今回のデモが新型コロナの影響により急速に沈静化したのち、逃亡犯条例改正案が廃案となるも、「国家安全法」が新たに成立したことが大きな転換点となったと指摘する。この法律は、政治犯を大陸で裁く機能があり、2021年5月時点で百名以上の民主派が逮捕された。さらに、2019 年デモのリーダーではないが、「雨傘革命」でデモを率いた黄之鋒(ジョシュア・ウォン)氏、林朗彦(アイヴァン・ラム)氏、周庭(アグネス・チョウ)氏の三名が見せしめ的に収監され、それぞれ 10 ~13 か月の禁固刑を受けている。さらに追い打ちをかけるように、普通選挙、調査委員会等の他項目も受け入れられず、中学生向けの歴史教育カリキュラムに「愛国、国家安全保障教育」が追加されたことで、“洗脳教育”も近く開始されるという。

 加えて、国家安全法の成立以降、富裕層の海外移民、財産移転も進んでおり、Bank of Americaの試算では2021年度だけで4兆円以上が香港から海外へ流出する見込みだとのこと。ちなみに、香港には中国のような食料品に対する輸入規制や高額な関税がないため、日本の農林水産物の最大の輸出先となっている等、我が国の輸出戦略においても重要な拠点とされているが、このまま富裕層の流出が続けば、国際的な経済拠点としての香港の重要性もまた、次第に失われていくにちがいない。

 それ以上に注視すべきは、中国共産党や政府への批判的論調で知られる香港紙「リンゴ日報」の創業者である黎智英(ジミー・ライ)氏や、中国本土で発禁処分となっている本を扱う「銅鑼湾書店」の経営者だった林栄基(りんえいき)氏など、知的な活動能力を持つ民主派の人物が、“政治犯”として多数弾圧されていることだろう。「銅鑼湾書店」はかろうじて台湾に移転して営業を再開することができたというが、先日も、民主化運動のマスコット的存在として知られる周庭氏が釈放されたのに対し、「リンゴ日報」の幹部5人が逮捕され、その資産が差し押さえられたという衝撃的な報道があった(追記:結果、「リンゴ日報」は廃刊に追い込まれた)。すなわち、牙を抜かれ、求心力をなくした者はとりあえず無罪放免となるいっぽうで、今もなお影響力が高いとみなされる者は、口封じのため、政府の意のままに“犯罪者”に仕立て上げられ、言論の自由を剥奪されるということなのだろう。日経新聞が書いたように、本当に「香港は死んだ」のだろうか。

 ふたたびランドの言葉を引用する──

 いかなる者であれ、選択されていない義務、報酬のない任務、不本意な隷属を他人に課す権利はもちえません。「他人を奴隷にする権利」などあり得ません。(中略)

 言論の自由とは、ある人がその考えを、政府による抑圧、干渉、処罰の危険なしに表現する権利をもつことを意味します。(中略)

 特定の集団の「権利」などありません。「農民の権利」「労働者の権利」「ビジネスマンの権利」「従業員の権利」「雇用者の権利」「老人の権利」「若者の権利」「未来の世代の権利」といったものはないのです。あるのは「個人の権利」だけです──それは、一人ひとりの人間と、個人としてのすべての人間がもっている権利です。
 財産権と自由取引の権利は、人間の唯一の「経済的権利」(実際には“政治的”権利)であり、「“経済的”権利章典」などというものは存在し得ないのです。しかし、後者の提唱者たちが前者をほとんど破壊してしまったことを注視してください。

 権利とは、人間の行動の自由を定義し保護する道徳原理ですが、他人に義務を課すものではないことを忘れてはなりません。民間人は、お互いの権利や自由を脅かす存在ではありません。物理的な力に頼ったり、他人の権利を侵害したりする民間人は犯罪者であり──人々は犯罪者に対する法的な保護を受けます。

 犯罪者はいつの時代、どこの国でもごく少数です。そして、彼らが人類に与えた危害は、人類の政治体制によって実行された──流血、戦争、迫害、没収、飢饉、奴隷化、大規模な破壊──といった恐怖に比べれば、限りなく小さいといえます。潜在的には、政府は個人の権利にとってもっとも危険な脅威なのです。政府は、法的に武装していない犠牲者に対して物理的な力を行使することを合法的に独占しているのです。

 個人の権利による規制や制限がない場合、政府は人々にとって致命的な敵となります。「権利章典」に書かれているのは、“私的な”行為に対する保護ではなく、政府の行為に対する保護なのです。(前掲書)

 本稿の冒頭で触れた映画『マスクト・アンド・アノニマス』は、ディラン演じる主人公による次のようなナレーションで締めくくられる──

 「おれはずっと一介の歌手にすぎず、それ以上でもそれ以下でもなかった。ときには、物事の意味を知るだけでは不十分なこともある。ときには、物事の意味を知らないほうがいいこともある。たとえば、きみが愛している人の能力を知らないほうがいい場合も……。物事は壊れやすい。規則や法律の整然とした秩序は特にそうだ。おれたちが世界をどう見るかで、おれたちが何者であるかが決まる。祭りの遊園地から見れば、何もかもが楽しく見える。高原に登れば、略奪と殺人が見える。真実と美は、それを見る者の目に宿る。おれはもうずっと前に答えを探すことをやめてしまった」。

 今、香港の自由は完全に終焉したかにみえる。そして、今日の世界の現状に対して本気で怒り、人間の「あり得る姿、あるべき姿」を描きながら、真実や美を語る(ランドや、かつてのディランのような)芸術家もまた、どこにもいないかのようにみえる。しかし、自由を勝ち取ろうとする「個人」は世界のどこかに必ず存在する。人間が「答え」を探すことをあきらめてしまわないかぎり──たとえそれが「風のなか」にあるのだとしても。

 人間の権利は神の法律でもなく議会の法律でもなく、同一原理に由来する。AはAであり──人間は人間なのだ。“正当な権利”とは、まっとうに生きていくために人間本来の性質によって必要とされる存在の条件のことだ。人がこの世界で生きていくものならば、知性を使うことは“正しく”、みずからの自由な判断に基づいて行動することは“正しく”、みずからの価値に基づいて働き、成果を手にするのは“正しい”。この世の人生が人の目的ならば、人は合理的な存在として生きる“権利”がある。自然は非合理的な人間を存続させはしない。(脇坂あゆみ訳、文庫版『肩をすくめるアトラス(三)』586-587頁)

 ディランの歌や、アイン・ランドが遺した言葉のなかに、その「答え」につながるヒントが見つかるかもしれない。

〔オマケ〕Living In A Political World – Songs by Bob Dylan Vol. 1 (Spotifyプレイリスト)