2018.12.14
ランドとクリスマス
クリスマスのイルミネーションが街を飾っていますね。
ランドは無神論者でしたが、クリスマスは好きだったようです。
小説『水源』が大ヒットしてカリフォルニア州の大邸宅に住んでいた頃は、毎年クリスマスシーズンになると、夫フランクが3メートルもあるモミの木を邸内に運び込んで、クリスマスツリーにしていたとか[1]。
クリスマスカードも、夫婦の署名入りで普通に知り合いに送っていたようです[2]。
米国アイン・ランド協会のWebサイトで公開されているレキシコン(ミニ事典)の「Christmas」の項には、ランドによる次の言葉が引用されています[3]。
————-(佐々木訳ここから)————-
(「無神論者がクリスマスを祝うのは適切か」という質問に応えて)
もちろん適切です。アメリカの国民的祝日に、排他的に宗教的な意味はありません。クリスマスの祝日の世俗的な意味は、どの宗教の教義よりも広いものです。クリスマスの祝日が意味するのは、善意の精神です。これは、キリスト教の独占的財産ではありません(本来キリスト教の一部ではありますが、キリスト教ではこの精神をあまり尊重していません)。
クリスマスの素晴らしいところは、まったく犠牲的ではない、温かく、愉快で、心踊るやり方で善意を表現するところです。クリスマスに人々は「メリー・クリスマス」と言います。「涙を流して悔い改めよ」とは言いません。そして善意が物質的な、世俗的な形で表現されます――たとえば友人にプレゼントを贈ることで――あるいは心にかけていることを伝えるカードを送ることで。
クリスマスの最も良いところは――これは神秘主義者たちがよく非難する点ですが――クリスマスが商業化されてしまっているところです。贈り物をする人々の消費行動のおかげで、「人を喜ばせる」ことを唯一の目的とする製品の開発に、膨大な発明工夫の才が注ぎ込まれます。デパートやその他の施設がしつらえるクリスマスツリー、点滅するイルミネーション、きらびやかな色とりどりの装飾で、街は壮観な景色を呈します。あの壮観な景色は、「商人の強欲」だけが私たちに与えてくれるものです。あの壮観さがもたらす素晴らしい陽気さを我慢したら、人はまったく意気消沈してしまうでしょう。
(「ザ・オブジェクティビスト・カレンダー」1976年12月号)
————-(佐々木訳ここまで)————-
キリスト教徒でもない大かたの日本人がクリスマスを祝うことに対して、私はなんとなく居心地の悪さを感じていたのですが、ランドのクリスマスに対するこうした考えを知ってから、クリスマスにあまり批判的な気持ちを持たなくなりました。