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「訃報:保守主義」開催のお知らせイベント
2022.09.25
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アメリカで「市場の女神」とも呼ばれるアイン・ランドはロシアで生まれた。十代で共産主義革命を目の当たりにし、その哲学の矛盾と限界を見抜いたランドは、のちにアメリカに帰化し、個人主義・合理主義・資本主義を柱とする自身の哲学を小説を通じて世に問い続けた。その思想は先鋭的であるがゆえに異端として扱われてきたが、その作品は自由至上主義の古典としていまも読み継がれている。
1905年サンクトペテルブルク生まれ。比較的裕福なブルジョア家庭で育ち、幼少時は英国人の家庭教師に学び、地元の名門女学校で教育を受けた。1917年の十月革命でサンクトペテルブルクがボルシェビキの支配下におかれると、1918年にはランドの父が経営する薬局も国有化される。家族は戦禍を避けて一時クリミア半島に逃れたが、やがて全土がソビエトの支配下に置かれるとペテルブルクに戻る。
ペトログラード大学に入学したランドは反動的な言動をはばからず、一時大学を追放処分になりかけた。当時のソビエト政府はまだ完全な思想統制をおこなってはおらず、レニングラードを訪れていた外国の科学者が一連の学生追放を非難したため当局がこれに配慮し、ランドは復学が許された。ランドは大学で歴史を専攻し、古代哲学ではプラトンに反発する一方でアリストテレスに心酔した。
9歳の頃から作家を目指し思想を生涯のテーマにすると決意していたランドだが、大学卒業後に得た仕事は市内のツアーガイドだった。1925年、シカゴの親戚から届いた便りを手掛かりに、ランドはアメリカに渡ることを決意する。そしてハリウッドで脚本を書くことを目標に、ペトログラードの映画学校に入学した。やがて映画館を経営するシカゴの親戚から財政的援助の保障を得て米国訪問のビザを手にすると単身アメリカへ渡る。その後、1929年に結婚し、1931年にアメリカに帰化した。渡米後、雑多な仕事をし、脚本を売って当座の資金を得るなどしながらランドは小説を執筆し始める。4年を費やして生まれた処女作が革命後のロシアを舞台にした『われら生きるもの』だ。この小説は売れ行きも芳しくなかったが、これによりロシアと訣別したランドは以降、アメリカを舞台にした小説を書くことになる。
1943年に出版された『水源(原題:The Fountainhead)』はベストセラーとなり、1949年に映画化され、ランドの作家としての地位をゆるぎないものにした。『水源』の映画公開後、ランドはニューディールに代表される社会主義的政策を危惧しはじめ、積極的にアメリカの保守派の思想家や政治家と交流を持ち始める。1957年に発表した『肩をすくめるアトラス』は、資本主義の道徳的正当性を主張して知識人やメディアから酷評されたが、口コミが評判を呼んでベストセラーとなった。1982年、ニューヨークで死去。