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「誰のための哲学か」
アイン・ランド

米国ウェストポイント陸軍士官学校の卒業式にて
ニューヨーク 1974年3月6日


 私はフィクション作家ですので、ショートショートの物語から始めましょう。あなたは宇宙飛行士で、宇宙船が制御不能になり未知の惑星に墜落しました。意識を取り戻し、大きな怪我をしていないことがわかると、まず次の三つの疑問が心に浮かんできます。自分はどこにいる? どうすればわかる? 何をすべき?

 宇宙船の外にはみたこともない植物が生えていて、とりあえず呼吸はできそうです。地球にくらべ太陽の光が弱く、ずっと寒そうです。空を見上げようとした途端、あなたは突然ある感覚に襲われます。見なければ、地球から遠すぎて帰還不可能と知らずにすむ。知らなければ、好きなことを信じられる。そしてどこかやましさを覚えながらも、ぼんやりと心地よい希望に浸ります。

 あなたは計器類に目を向けます。どれくらい損傷しているんだろう。でも急にはっと怖くなります。計器は信用できる? 誤作動しないと確信できる? 別世界でもちゃんと作動する? そして計器類にも背を向けます。

 どういうわけか、何もしたくありません。何かが起こるのを待つだけの方がずっと安全に思えます。宇宙船をいじったりするなと自分に言い聞かせます。遠くからなにやら生物が近づいてきます。人間かどうかわかりませんが二本足で歩いています。そうだ、どうすればいいかやつらに教えてもらおう、とあなたは決めます。

 その後あなたからの通信は途絶えます。

 なにをありえないことを、自分でもしないし、そんなことをする宇宙飛行士もいるもんか、とおっしゃいますか? おそらくそうでしょう。ですが、これが、この地球のほとんどの人の生き方なのです。

 ほとんどの人は、先ほどの三つの疑問から逃れつつ日々を過ごしています。ですが三つの疑問への答えは、自覚していようといまいと、人間のあらゆる思考、感情、行動の根底にあるのです。私はどこにいる? どうすれば分かる? 何をすべき?  まだこれらの疑問を理解できないうちから、人は自分がその答えを知っていると信じてしまいます。私はどこにいる? ニューヨークです。どうすれば分かる? あたりまえです。何をすべき? これはあたりまえではないですが、よくある答えは皆がしていることです。

 唯一の問題は、そうした人々は生き生きとしておらず、自信に欠け、あまり幸せではないことです。そして、わけもなく怖くなったり、説明できないけれども、さりとて頭から追い払うこともできないおぼろげな罪悪感を感じたりしています。

 彼らは、この問題が答えの定かでない三つの疑問から来ていることと、たった一つの科学だけが、そうした疑問に答えられることに気付いていません。その科学とは“哲学”です。

 哲学は世界や人間について、そして人間と世界の関係の“根本的な”性質を研究します。哲学は、この世界の特定の側面のみを扱う個別科学とは対照的に、この世界に存在するすべての側面を扱います。認知の領域では、個別科学が樹木なら、哲学は森を支える土壌なのです。

 例えば、哲学はみなさんがニューヨークにいるのかザンジバルにいるのかを教えてはくれないでしょう(調べ方は教えてくれますが)。しかし哲学はその次の疑問への答えを教えてくれます。この世界が法則に支配されており、したがって安定的で、堅固で、絶対的で、理解できるものなのか? それとも、みなさんの精神は理解できない混乱や、不可解な奇跡が起き、予測できない、知ることもできない流れの中にいて、世界を把握することに無力なのか? みなさんの周りに見えるものは実在するのか? ただの幻なのか? それは観測者とは関係なく存在するのか? 観測者が作り出しているのか? 人間の意識から独立した客観なのか? 人間の意識が作り出す主観なのか? それは“あるがまま”か? それとも願望で意識するだけで変質してしまうのか?

 みなさんの行動、野望の性質は信じる答えによって異なります。これらの答えの探究は、存在それ自体、アリストテレスの言葉でbeing qua being(存在としての存在)を考察する“形而上学”という哲学の基本分野です。

 いかなる結論に達したとしても、“必然的に”生じる疑問に答える必要性に直面します。どうすれば分かる? 人間は全知全能ではないので、知識として主張できるものと、結論の妥当性を“証明する”方法を見つける必要があります。人間は理性のプロセスによって知識を獲得するのでしょうか、それとも超自然的な力の突然の啓示によって知識を獲得するのでしょうか? 理性とは人間の感覚によってもたらされる判断材料を明らかにし統合する能力ですか? それとも人間の心に先天的に植え付けられた生得観念によって与えられていますか? 理性は現実を知覚する能力がありますか? それとも人間は理性よりも優れた認知能力を他に持っていますか? 人間は間違いない事実にたどり着くことができますか? それとも永久に疑わしいものに振り回されるよう運命づけられていますか?

 どの答えを信じるかによって、みなさんの自信と成功の度合いは異なります。これらの答えは知識の理論であり、人の認識方法を研究する“認識論”の領域です。

 これら二つの分野は、哲学の理論的基盤です。 三番目の分野は“倫理”であり、その技術と見なされる場合があります。倫理は、すべての存在に適用されるわけではなく、人間だけに適用されます。ただし、性格、行動、価値観、あらゆる存在との関係といった人間生活のあらゆる側面に適用されます。倫理、または道徳は、人生の進路を決定する選択と行動を導くための価値観を規定するものです。

 物語の宇宙飛行士は、自分がどこにいるのか、どうすればそれが分かるかを知ろうとしなかったので、何をすべきか分かりませんでした。それと同様に、みなさんも自分が扱う宇宙の性質、人間の認識方法の性質、そして自分自身の性質を知るまでは、何をすべきか知ることができません。みなさんは倫理の話をする前に、形而上学と認識論によって提起された疑問に答える必要があります。人間は現実に対処できる合理的な存在ですか、それとも無力な盲目の不適応な存在であり、宇宙の流れに揉まれるだけの欠片でしょうか? 地上の人間は達成と喜びを享受できますか? それとも失敗と嫌悪に陥る運命にあるのでしょうか? その答えによって人間にとって何が良いことで、何が悪いことなのか、そしてその理由は? という倫理が提起する疑問の検討に入ることができます。人間の最大の関心事は喜びの探求であるべきか、それとも苦しみからの逃避であるべきか? 人生の目標は自己実現か、または自己破壊か? 自分の価値観を追求すべきか、利他を利己よりも優先すべきか? 幸福を求めるべきか? 自己犠牲を求めるべきか?

 二つの答えがどのように異なる帰結をもたらすかは指摘するまでもありません。どこにでも答えを見い出すことができるからです。みなさんの中にも、みなさんの周りにも。

 倫理がもたらす答えは、人が他人をどのように扱うべきかを決定し、これは哲学の四番目の分野である“政治”(適切な社会システムの原則を定義)を規定します。哲学の機能の例として、政治哲学はみなさんがどれだけの燃料の配給をどの曜日に受け取るべきか教えてくれませんが、政府が何かに配給を課す権利を持っているか否かを教えてくれます。

 哲学における五番目の、そして最後の分野は“美学”──すなわち芸術の研究です。美学は、形而上学、認識論及び倫理学を土台としています。芸術が対処するのは、人間の意識のニーズ──つまり、精神の燃料補給です。

 多くの人たちと同じように、みなさんのなかにはこう言う人がいるかもしれません。「やれやれ、そんな抽象的な言葉で考えたことなんてないし、具体的で個人的な現実の問題に対処したいだけだから、哲学なんて必要ない」と。それに対する私の答えは、具体的で個人的な現実の問題に対処するために、つまり、地上で生きることを可能にするために哲学があるということです。

 それでもみなさんは、ほとんどの人と同じく、哲学に影響を受けたことなど一度もないと主張するかもしれません。では、その主張をチェックしてみましょう。みなさんは、これまでに、次のようなことを言ったり思ったりしたことはないでしょうか。「決めつけないほうがいい。何であれ、誰にも確信できることなんてないんだから」。これは、デヴィッド・ヒューム(をはじめとする非常に多くの哲学者)が考えたことです。たとえ彼の名前を知らなかったとしても、あなたはこの考え方を彼から得ているのです。あるいは、「理論的には正しいかもしれないけど、じっさいには役に立たないね」。これはプラトンからきています。あるいは、「腐ってる。でもそれが人間ってもんだ。完璧な人間なんていない」。これはアウグスティヌスです。さらに、「それはきみにとっては真実かもしれないけど、おれにとっては真実じゃない」。こう言ったのは、ウィリアム・ジェイムズです。もしくは、「どうしようもなかったんだ! 誰だって自分にはどうしようもないことばかりだろ」。これは、ヘーゲルからきています。あるいは、「証明できないけど何となく真実だと“感じる”んだ」。これはカントからです。「なるほど、その考え方はたしかに論理的だな。だけど論理ってやつは現実には何の役にも立たないぜ」。これもカントです。「そりゃ良くないだろ。だって自分本位じゃないか」。これもカントです。さらに、現代の活動家が「まずは行動だ。考えるのは後でいい」というのを聞いたことはないでしょうか。同じことをジョン・ドゥーイが言っています。

 こんなことを言う人もいるかもしれません。「たしかにそういうことをいろんな場面で言ったよ。だからって、いつも信じてたわけじゃない。昨日は本気でも、今日もそうとは限らない」。この考え方は、ヘーゲルに立脚しています。また、そういう人はこう言ったりもします。「一貫性は偏狭な心に住む小鬼」。こう言ったエマーソンはかなり偏狭でした。こんなことを言った人もいましたね。「その時々の都合で別の哲学からいいとこ取りをしたらいいんじゃないか?」。言ったのはリチャード・ニクソンでしたけれど、彼はウィリアム・ジェイムズから引用していたのです。

 自問してみてください。抽象観念に興味がないなら、なぜみなさんは(そしてすべての人間は)、抽象観念を使わなければと思うのでしょう? 実は抽象観念は無数の具体的な事象を概念に統合したものです。抽象観念がなければ実生活で遭遇する個別具体的な問題に対処できません。生まれたばかりの赤ん坊の立場に立たされてしまいます。新生児には、あらゆることが類例もなければ前例もない現象です。みなさんと新生児の精神状態の違いは、頭脳が行ってきた概念統合の数にあるのです。

 自分の観察や経験や知識を抽象観念、すなわち原則に統合しなければならないという事実に選択の余地はありません。選択できるのは、正しい原則に統合するか、それとも間違った原則に統合するかだけです。つまり、原則を意識的で合理的な自分自身の確信に基礎づけるか、それとも出所も正当性も文脈も帰結も知らないまま適当に自分のものにした観念――出所や正当性や文脈や帰結を知ったとたん放り出すであろう観念――のごった煮に基礎づけるかだけです。

 しかしみなさんが意識的・無意識的に受け入れた原則同士が、互いに衝突する、あるいは矛盾することもあるかもしれません。原則にもまた統合が必要なのです。何が統合するのでしょう? 哲学です。哲学体系とは統合された世界観です。人間たるみなさんが哲学を必要とするという事実に選択の余地はありません。みなさんに選択できるのは、自分の哲学を意識的で合理的な規律ある思考過程と綿密で論理的な熟考によって定義するか、あるいは潜在意識に根拠のない結論、不当な一般化、曖昧な矛盾、丸呑みのスローガン、あいまいな願望や疑念や恐れといったガラクタの山を蓄積させ、潜在意識がそれを適当な雑種哲学に統合し、“自己不信”という名の重い鉄球に変え、思考の翼が育つべきだった場所に鎖でつないでしまうに任せるかだけです。

 こうおっしゃるかもしれません。「いつでも抽象的な原則に従って行動するなんて難しい」と。多くの人々が言います。そうです。簡単ではありません。しかし抽象的な原則がどんなものかも知らないまま抽象的な原則に従って行動しなければならない方が、はるかに大変ではありませんか?

 潜在意識はコンピューターのようなものであり、人が製造するコンピューター以上に複雑ですが、その主な機能は思考を統合することです。それをプログラムするのはみなさんの明晰な頭脳です。その手続きを投げ出し、確固たる信念に達しないならば、潜在意識は偶然によってプログラムされます。そして受け入れた覚えのないアイデアの力に身をまかせることになります。 いずれにせよ、コンピューターは感情という形で、四六時中出力を続けます。感情とは価値観に従って計算された、周囲の事象に対する稲光のような瞬時の見積もりです。コンピューターである潜在意識を、意識的な思考によってプログラミングした場合、自分の価値観や感情の性質がわかります。さもなくば、わからないままです。

 今日特に、人間は論理だけでは生きられず、感情的な要素を考慮すべきであり、感情に導かれて行動するものと主張する人は多くいます。さて、先ほどのショートショートの宇宙飛行士もそうでした。彼の行動は間違っているように、そのように主張する人は勘違いしています。人の価値観と感情は、それぞれの根本的な人生観によって決定づけられます。潜在意識の究極のプログラマーは哲学、感情主義者によれば感情の闇に影響も浸透もしない科学なのです。

 コンピューターの出力の質は、入力の質によって決まります。潜在意識がランダムにプログラムされる場合、出力も同様の様相を呈することになります。いわゆるコンピューター用語の「GIGO(garbage in, garbage out」という言葉が雄弁に物語るように、「ゴミを入れたら、ゴミしか出てこない」のです。同じ数式は、人の思考と感情の関係にも当てはまります。

 感情に動かされる人は、出力を読めないコンピューターに動かされる人のようです。そのプログラミングの真偽や正誤について、あるいはそれが成功につながるのか破壊につながるのか、自分の目ざすものに合致するのかなんらかの悪に加担することになるのかを知りません。彼は自分を取り巻く世界と自分自身の内面の二つの領域において盲目です。そして現実や自身の動機を把握することができず、絶えず両方に怯え続けることになります。感情は認知の道具ではありません。哲学に無関心な人とは、えてして感情のおもむくままに行動する無力な人であり、彼らこそもっとも切実に哲学を必要としているのです。

 哲学に無関心な人は、学校、大学、本、雑誌、新聞、映画、テレビなど、周りの文化的環境からその原則を吸収します。文化的な風潮を決めるのは? ほんの一握りの哲学者たちです。彼らは納得してか無批判にか、彼らの先導に従います。この二百年余りの間、イマニュエル・カントの影響により、哲学の大きな潮流は人間の頭脳、すなわち理性の力への信頼を破壊するという一つの方向に向けられてきました。 今日、その潮流が最高点に到達しつつあるのを私たちは目撃しているのです。

 理性を放棄するとき、人は感情が自分を導くことができないばかりか、自分が恐怖以外の感情を経験できないと思い知ります。今日の知的トレンドの中で育った若者の間での麻薬中毒の広がりは、認知の手段を奪われ、現実から、存在と対峙できない恐怖からの逃避に走る人間の内面の堪え難い状態を示しています。こうした若者が孤立を極端に恐れ、なんらかのグループに身を置くことで何が何でも「所属」したいと願っていることに注目してください。彼らのほとんどは哲学の存在も知りませんが、怖くて聞けない質問への基本的な答えが必要だと感じています。そしていつ何時、どこかのまじない師や教祖、あるいは独裁者に翻弄されてもおかしくない状態にあります。人間にとってもっとも危険なのは、道徳的自主性を他人に委ねてしまうことです。先ほどの宇宙飛行士の話と同じく、二足歩行だから人として信頼できるとは限りません。

 ここでみなさんは尋ねるかもしれません。哲学が悪ならば学ぶ必要があるのかと。とりわけ、恐ろしく間違っていたり、意味をなさなかったり、現実の生活と何の関係もない哲学理論をなぜ学ばなければならないのかと。

 それは自分を守るため。そして真実、正義、自由、そして、あなたのこれまでとこれからのあらゆる価値を守るためです。  特に近代においてはどうしようもない哲学がはびこっていますが、哲学が全て悪いわけではありません。科学、技術、進歩、自由といったあらゆる文明の偉業の根底、この国の誕生を含めて今日私たちが享受するあらゆる価値の根底には、二千年以上前に生きたアリストテレスの偉業があります。

 みなさんのなかで哲学者の理解不能な理論を読んでも退屈しか感じない方がいらっしゃるとしたら深く同情します。 だとしても、「明らかなナンセンスを研究してどうする」と避けて通るのは間違っています。 確かにナンセンスかもしれないですが、みなさんはそれを知らないのです。そうした哲学者の裁定や、かれらが作り出した常套句を受け入れ続ける限りは。 そしてそれに反論できない限りは。

 そうしたナンセンスは、人間の存在において最も重要な生死に関わる問題を扱っています。重要な哲学的理論の根底にはすべて、人間の意識が本当に必要としているという意味で、深く考察すべき問題があります。この点を明確にせず、むしろ難解にしたり、貶めたり、発見をさまたげたりする理論がありますが、哲学者の戦いは頭脳の戦いです。敵の理論を理解しなければ、最悪の敵につけこまれることになります。

 哲学を学ぶ最良の方法は、推理小説の読み方に似ています。誰が殺人者で誰が英雄かを解明するために、あらゆる足跡や手がかりやヒントをたどるのです。推理の基準は「なぜ」と「どうやって」の二つの問いです。ある推理が正しいと思われるのはなぜでしょう? そうではない推理が間違っている気がするのはなぜでしょう? それはどうやって成功したんでしょう? こうしてすべての正解がすぐに見つかるわけではありませんが、本質的なことを考えるという極めて重要な能力を身につけることになります。

 知識や自信や内面の静けさと同様、正しい頭の使い方もひとりでに身につくものではありません。人が必要とし、求める価値はすべて、発見し、学び、獲得しなければなりません。人間の正しい姿勢ひとつをとってもそうです。ちなみに私は常々、ウェストポイントの卒業生たるみなさんの姿勢を賞賛してまいりました。みなさんの姿勢は、誇り高く規律ある肉体の統制という人間のありかたを投影しています。さて、哲学的な訓練は、人間の“知的”姿勢を正します。誇り高く規律ある頭脳の統制です。

 みなさんは専門の軍事学で、敵の武器や戦略や戦術を把握し、それに対抗する備えをする重要性をご存知かと思います。 同じことは哲学にも当てはまります。敵の考えを理解し、反論する準備をしなければなりません。かれらの基本的な論点を知り、論破できなければならないのです。

 みなさんは戦場で部下を地雷原に送らないでしょう。地雷原の位置を特定するために、あらゆる努力を払うでしょう。さて、哲学の歴史上、最も大掛かりで最も複雑なシステムの地雷原を作り上げたのはカントです。とはいえカントのシステムは穴だらけなので、そのからくりがわかれば簡単に無効化できます。からくりさえわかれば、カントが仕掛けた地雷の上も安全に歩けます。そして彼よりも劣るカント主義者たち――カント哲学軍の現代における軍曹、二等兵、傭兵たち――は、彼ら自身の中身の無さによって連鎖反応的に倒れてしまうでしょう。

 将来のアメリカ合衆国陸軍指導者であるみなさんには、今日哲学的に武装しなければならない特別な理由があります。今日の文化界を支配するカント・ヘーゲル主義的集団主義者たちにとって、みなさんは特別な攻撃目標なのです。みなさんは、地球上に残された最後のほぼ自由な国家の軍隊です。にもかかわらず、帝国主義の手先と非難されています。軍事的支配に乗り出したことが一度もなく、自ら始めたわけではない二度の世界大戦に参戦して勝利しながら何一つ利益を得なかったこの国の外交政策が「帝国主義」と呼ばれているのです(ついでながら二度の世界大戦への参戦は、愚かしいほど気前の良すぎる政策でした。この国は自らの同盟国と旧敵国を助けるために国富を消耗したのです)。この国で起きているあらゆる問題が、俗に言う「軍産複合体」(そんなものは神話ですらないのですが)のせいだとされています。血なまぐさい過激派学生たちが、キャンパスからROTC〔訳注 予備役将校訓練部隊(学生に陸軍将校になる訓練を行う部隊)〕を排除せよと叫んでいます。「環境に優しいバラ園」や「スラムの住民のための美的自己表現講座」に優先的に予算を付けるように主張する者たちが、私たちの防衛予算を攻撃・非難・削減の標的にしています。

 みなさんの中にはこのようなキャンペーンに当惑し、「自分たちはどんな誤りを犯したのだろう?」と善意から自問している人もいるかもしれません。そのような疑問を抱いているなら、敵の性質を理解することは喫緊の課題です。みなさんは過失や欠点ゆえに攻撃されているのではありません。美徳ゆえに攻撃されているのです。みなさんは弱さゆえに非難されているのではありません。強さと能力ゆえに非難されているのです。アメリカ合衆国の守護者であるゆえに罰せられているのです。同じ問題の一段低い変種として、警察に対しても類似のキャンペーンが張られています。この国の破壊を目論む者たちは、この国の武装解除を目論みます――知的にも、物理的にも。しかし、これは単なる政治の問題ではありません。政治は原因ではありません。哲学的な思想の最終的な帰結です。それは共産主義者の陰謀ではありません(自分には引き起こす力もなかった惨事にここぞと付け込むうじ虫のような共産主義者も少しは関わっているかもしれませんが)。破壊者たちを動機づけているのは共産主義への愛ではありません。アメリカへの憎しみです。なぜ憎まれるのでしょう? それはアメリカがカント的世界観に対する反論の証だからです。

 虚弱な者、欠陥ある者、苦しんでいる者、罪ある者に対する今日の過剰なまでの関心と同情は、罪なき者、成功している者、有徳者、信念ある者、幸福な者に対する、カント主義者たちの根深い憎悪のカモフラージュです。人間の頭脳の破壊を志向する哲学は必然的に、人間と、人間の命と、あらゆる人間的価値に対する憎悪の哲学です。善に対する善ゆえの憎悪は二十世紀の特質です。これが、みなさんが直面している敵なのです。

 この種の闘いには特別な武器が必要です。この闘いは、大義を完全に理解して闘わなければなりません。自分自身を完全に信頼して闘わなければなりません。そして大義と自分自身が共に道徳的に正しいと完全に確信して闘わなければなりません。これらの武器をみなさんに提供できるのは哲学だけです。

 本日は、みなさんに私の哲学を売りこむことでなく、哲学そのものを売りこむつもりでこちらにうかがいました。しかしここまでずっと、それと言わずに私の哲学についてお話してきました。なぜならいかなる人も、いかなる主張も、哲学的前提から逃れることはできませんから。これについて私自身にどんな利己的な意義があるか申し上げましょう。みなさんが哲学の重要性を認め、批判的に哲学を検討してみたとすれば、受け入れるのは私の哲学だと確信しているのです。私は自分の哲学を正式には「オブジェクティビズム」と呼んでいますが、くだけた表現として「地上で生きるための哲学」とも呼んでいます。オブジェクティビズムの明示的な紹介は私の著作、特に『肩をすくめるアトラス』でしています。

 最後に個人的な話をさせてください。今回の講演は、私自身にとって極めて意義深いものです。みなさんの前でお話する機会を与えられたことを、たいへん光栄に感じています。私は、単なる愛国者の決まり文句としてでなく、形而上学的、認識論的、倫理学的、政治学的、そして美学的に当然の根拠に立脚して、このように申し上げることができます。すなわち、アメリカ合衆国は史上最も偉大で、最も高貴な、建国の原則において唯一の道徳的国家であると。ウェストポイントという名前には、私の中である種の静謐な輝きが結びついています。なぜならみなさんは、この国の建国の原則の精神を守ってきたのですから。この国の建国の原則の象徴なのですから。アメリカ合衆国建国の原則にも矛盾や欠陥はありました。みなさんにもあるかもしれません。ですが申し上げているのは本質的な部分です。みなさんの中にも最高の基準にもとる個人がいたかもしれません(どのような組織にもそのような個人はいます。いかなる組織も社会制度も、その構成員すべての完全性を自動的に保証はできませんから。個人の完全性は本人の自由意志次第です)。私が言っているのはみなさんの基準です。みなさんは建国当時アメリカらしさそのものだった三つの性質――今は存在しないも同然の三つの徳性――を守ってきました。それは、真摯さ、献身、そして名誉心です。名誉とは行動に現れた自尊心です。

 みなさんはこの国の防衛に命をかけることを選択しました。私はみなさんが私心なき奉仕に身を捧げていると侮辱したりはしません。そのような行為は私の哲学では美徳ではないのです。私の道徳律では、個人が自国を防衛することは、国内外を問わず、敵に征服された奴隷として生きることを是としないことを意味します。それこそが偉大な美徳なのです。自覚していない方もいるかもしれません。みなさんに理解していただけるように説明したいと思います。

 自由な国の軍隊は偉大なる責任を負っています。すなわち軍事力を歴史上他国の軍隊が行ってきたように強制や残忍な征服の手段としてでなく、自由な国家の自衛の手段としてのみ、つまり個人の権利を守る手段としてのみ行使する権利を与えられています。最初に力を行使してきた者への報復としてのみ力を行使するという原則は、力〔might〕を権利〔right〕に従属させるという原則です。よほどの高潔さと誇りがなければ、このような任務は果たせません。これは世界のどの国の軍隊も果たせなかったことです。みなさんは、それを果たしてきたのです。

 ウェストポイントは、有名・無名の無数の英雄たちをこの国に送り出してきました。今年卒業するみなさんが受け継ぐこの光輝ある伝統に、私は深く敬服いたします。それが伝統だからではありません。それが本当に輝かしいものだからです。

 地上最悪の独裁国家から来た私には、みなさんが守っているものの意味と、偉大さと、至高の価値が特によくわかります。ですからみなさんに、ウェストポイントの過去、現在、そして未来のすべての方々に、私自身の名のもとに、そして私と考えを同じくする多くの人々の名のもとに、心からの感謝を述べさせていただきます。ありがとう。


2019年12月 米国アイン・ランド協会の許諾を得て翻訳・公開
翻訳:宮崎哲弥・佐々木一郎・内藤明宏・脇坂あゆみ
監修:脇坂あゆみ