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映画『摩天楼』をめぐるマニアック対談

Part.2 小説『水源』から入ったファンは 映画『摩天楼』のココを楽しめ!

『水源』ファンにとっての見どころ(1)‥‥原作の世界観を忠実に再現する建築

宮崎
原作の『水源』からファンになった人は、映画『摩天楼』にどうしても不満を持ってしまうんですよね。主人公ハワード・ロークの年齢やキャラクターに始まり、原作と違うところがあまりに多くて。
佐々木
そもそも原作のファンを納得させるような映画化というのが、不可能なのかもしれません。ましてあれだけ長大で濃密なストーリーを、2時間弱に圧縮するわけですから。
宮崎
佐々木さんは、映画より先に原作のファンになったんですよね。原作から入ったファンがこの映画を楽しむには、どんなところに注目すればいいと思いますか。
佐々木
まずは、主人公ハワード・ロークが設計する建物でしょう。原作には挿絵などありませんから、ロークがどんな建物を設計したのかは、文章から想像するしかありません。おおざっぱなイメージや雰囲気は伝わってくるのですが、建物の全体から細部にいたるまで目に浮かぶような描写ではありません。映画では、ロークの建物の映像が、スケッチや模型や合成処理を駆使して次々に登場します。しかもその一つ一つが、「たしかにロークが設計すればこうなる!」と納得させるデザインなんです。

佐々木
単に「いかにもロークのデザイン」というだけではありません。それぞれの建物のデザインが、そのストーリー展開やその建物の位置づけに、いちいちピタッとはまってるんです。私が特に好きなのは、ロークが設計したモダンな銀行本店ビルに、銀行側が、古典風の装飾を加えるように要求するシーンです。


宮崎
原作では正面玄関だけ変えてほしいとなっていたところが、映画ではビルの側面まで変えるように要求されるんですよね。
佐々木
元のビルの模型には、ロークの思想やセンスや天才性がみごとに表現されています。そこに銀行側が装飾のパーツを持ち出して、元の模型にカパッとはめて「こういうふうに修正してほしい」と言うわけです。元のビルと見事にミスマッチなあの装飾パーツ自体、原作でロークが闘った「学部長の思想」=「セコハン人間の思想」を、ありありと表現しています。あの装飾パーツをカパッとはめる感じ自体からも、「建物の形は機能に従わなければならない」、「建物はそれ自身のアイデンティティに忠実でなければならない」という思想への無理解が伝わってきます。ロークに共感する観客は、あの「カパッ」に、絶望や憤りをつのらせるわけです。
宮崎
あの模型は本当によくできています。実は、製作にあたって映画会社はロークの建築物のデザインを、じっさいにフランク・ロイド・ライトに依頼したらしいんですね。でも、ライトが提示したギャラが高すぎて──確か200万ドルとかで──、結局見送られて、ワーナー専属のデザイナーが設計しているんですが、それでもよくできていますよね。おそらくランド本人もデザインの監修をしているんじゃないでしょうか。あれは原作者であるランド承認済のデザインなんですよ、きっと。
佐々木
ニューヨークの既存のビル群と、ロークが設計したビルとの対照も、原作の精神をよく表現しています。冒頭近くで、ロークの師匠のヘンリー・キャメロンが、事務所の窓に拡がるニューヨークの街を指して、「見ろ。お前にはあの連中が見えているのか? 連中が建築をどう考えているかわかってるのか?」と憤りながら叫ぶのですが、そのときは観客には、キャメロンの怒りがよく理解できないわけです。窓の外のビル群が特に醜いとは思えないし、この時代のビルなんて、まぁあんなものだと思っている。というか、あんなものだと思っていることさえ自覚しない。物語が進行し、ロークが設計したビルが現実のものになると、既存のビル群との対比でロークの才能や思想が一瞬で了解されて、これまでなんとも思わなかった既存のビル群が、急に陳腐に見えだします。

「映画的」作家としてのアイン・ランド

佐々木
『水源』は、建築と建築をめぐる人間の行動を通じて、個人と社会の関係に関わる大きな思想的対立を描いた作品です。建築という、目に見える具体的存在のあり方を、思想という、目に見えない抽象的存在のあり方の反映として描いた作品です。目に見えない存在の描写は、小説の得意とするところですし、目に見える存在の描写も、小説であれば、細部まで詰めなくてもある程度は読者が想像で補ってくれます。ところが映画では、目に見える存在の描写に、ごまかしがききません。目に見えない存在は、映画でも言葉で説明できますが、目に見えない存在を可能な限り映像で表現しようとしない映画に、芸術性は宿らないでしょう。『摩天楼』に登場する建築は、言葉でも伝えるのが難しい高度な思想的対立を、いっさいの言葉抜きに、映像だけで、瞬時に観客に伝えています。
宮崎
監督のキング・ヴィダーが、サイレント(無声映画)時代からの巨匠だったことが大きいと思います。トーキー(発声映画)時代になってからの監督だったらセリフやナレーションで説明してしまいそうなところも、ヴィダーは、これでもかとばかりに映像で表現しきっています。
佐々木
「巨匠」監督と呼ばれたのも納得がいきます。
宮崎
もう一つ、僕はアイン・ランド自身が、非常に「映画的」な作家だったと思っています。『水源』を読んでいても、『肩をすくめるアトラス』を読んでいても、「映画だったらこう描かれるだろうな‥‥」と想像してしまう場面が、次々に登場します。登場人物の言葉にも、映画のセリフのような切れがあります。ランドは小説家としてデビューする前に、ハリウッドで脚本家としてデビューしています。『ときにはハリウッドの陽を浴びて』(トム・ダーディス著、研究社出版)という本によると、1930年代~40年代のハリウッドでは、フォークナーはじめ、フィッツジェラルド、ナサニエル・ウェスト、オルダス・ハクスリー、レイモンド・チャンドラー等の大作家が、糊口をしのぐために、映画の脚本を書いていた時代があるのですが、実際に書き上がった脚本はほとんど使い物にならなかったんだそうです。映画の脚本というのは、台詞の呼吸や、ストーリーの流れや、場面転換のタイミング等、小説を書く要領とはまったく違うらしいんですね。いくら秀れた文学作品を書く力量があっても、いきなり映画の脚本は書けないわけです。その点、アイン・ランドという人は、小説を書きながら、ハリウッドで脚本家としての経験を積んだので、映画的な山場の作り方、視覚に訴えかける描写、効果的な台詞の書き方等をよく心得ていたのでしょう。
佐々木
小説家として優秀でも、脚本家として優秀とは限らないのですね。小説であれば、認識の世界さえしっかり描ければ、実体の世界を細かく描かなくても成立してしまうからでしょう。ランドの場合、映画として撮影できるほど実体の世界もしっかり構築した上で、小説を書いていたのでしょうね。ランドは小説家としてだけでなく、思想家としても多くの支持者を獲得していますが、ランドの思想って、頭で中で論理的に構築した思想というより、身体の実感を通して構築した思想という感じがします。ランドの思想の身体性の強さと、彼女の小説の視覚性の強さは、表裏一体のものだと思います。 宮崎 そうそう、僕もそう思うんですよ。特に『水源』は、はじめから映画化を前提に書かれた小説という印象を受けます。『肩をすくめるアトラス』になると、もう映画化されることを放棄してますよね。ジョン・ゴールトの演説なんてラジオですよ! 映像ないんですから(笑)。僕は、映画『摩天楼』の興行的な失敗が、その後のランドの創作活動に大きく影響したのではないかと思ってます。もし『摩天楼』が成功していたら、ランドはあのあと『肩をすくめるアトラス』ではなく、『水源』のように映画の原作にもなる小説を、もっと書いていたように思うんです。
佐々木
映画化を前提にすれば、大衆の共感を意識せざるを得ません。『肩をすくめるアトラス』のように大衆を突き放しきった小説に向かったり、小説を書くのをやめてカルトの教祖のような地位に収まったりすることもなかったかもしれませんね。

『水源』ファンにとっての見どころ(2)‥‥ランドの台本そのままのセリフ

宮崎
他に、原作から入ったファンが『摩天楼』を楽しむためのポイントはありますか。
佐々木
登場人物たちのセリフです。キャスティングのせいもあって、原作からかけ離れた作品になっている印象を受けがちですが、言葉としてのセリフそのものに注目すれば、疑いもなくランドの思想の表現そのものになっています。
宮崎
なるほど。ランド自身が台本を書いているのだから当然ですね。しかもランドは、「ギャラは受け取らない。その代わり台本の変更は認めない」という条件で脚本執筆を引き受けたらしいです。
佐々木
ロークがコートラント住宅の設計を引き受けた条件と、そっくりですね。
宮崎
台本を変更する時は、必ずランドに電話で連絡しなければならないことになっていたそうです。電話するとランドは1時間で撮影現場に飛んできて、あーでもないこーでもないと口出ししたのだとか。これは監督もコマッタろうな~(笑)。俳優たちには「アドリブ禁止」が言い渡されていたといいますから、演じる方もやりにくかったはずです。特にクーパーは困っただろうな。いつもは、「Yap」とか言っていればサマになる役ばかりやっていたんですから(笑)。この辺りの事情は、パトリシア・ニールの自伝に詳しいです。こんな条件は、通常ハリウッドでは通用しないのですが。映画は最終的にプロデューサーのものであり、監督でさえ最終的な編集権をもっていません。唯一、例をあげれば、『市民ケーン』(1941)を撮ったときのオーソン・ウェルズが、あらゆる権限をオーソン個人が掌握するという条件で契約できたくらいです。その意味でも、ランドが提示した条件は破格のものだったといえます。しかし、英語圏の観客にとっては、あまりにも説明的で不自然な台詞が頻出することが失笑を買ったという事実もあるようです(笑)。
佐々木
その点、字幕を読んで台詞を理解する日本人には、かえってストレートに作品のメッセージが伝わりますね。しかも、公開時点で原作を読んでいた人は、ほぼ皆無だったわけですから、違和感なしにスッと理解できる。クーパーが演じるロークの演説が棒読みくさいのは、必ずしもクーパーのせいばかりではないのですね。あまりにも「ランドの台本どおり」を守ったために、俳優たちの演技から躍動感や自然さが失われてしまったのかもしれません。ただそれぐらい「ランドの台本どおり」なだけに、英語のセリフを改めて文章として追っていくと、原作のファンは、原作の世界観を随所で追体験できると思います。残念ながら日本語字幕は、画面上での読みやすさが優先されているので、訳としてはあまり正確ではありません。訳としての正確さを優先した字幕対訳を、今私の方で作っています。これは完成次第みなさんに無料でお配りします。
宮崎
それはすばらしい! あの映画の脚本は、ランドのもうひとつの「作品」だと思うんですよ。作者本人による“『水源』リミックス・ヴァージョン”という感じですよね(笑)。結果として、興行的に失敗したことで、ランドはこの映画を嫌っているフリをしていますが、本当は、心血注いで「監修」したはずで、そのことがかえってジャマをしたということを認めたくないんでしょうね(笑)。その気持ちもわかるような気がします。