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「平等主義とインフレーション」
アイン・ランド

(1974年)

無責任の極みの典型に、燃え盛るローマで弦を奏で詩に興じたネロ皇帝の話があります。ここまで劇的でなくとも、似たような行為は今日でも見られるかもしれません。そこに登場する役者たちに王侯貴族めいたところはなく、ひとりの暴君もおらず、血色の悪い教授たちが群れをなすばかり、作る音といえば誇大であるほかには下手な詩の体すらなしていないのですが──彼らは火事場を跳びまわり、何とかせねばと唱えながら、火に紙くずを投げ入れています。それが、未曾有の大惨事の間際に、リーダーのいない国で平等主義を説く有象無象の知識人たちの姿です。

平等主義ほど悪辣で、まともな研究や議論にすら値しない愚かしい教義はありません。ですがこの教義によってあることが明らかになるという価値があります。それは、数知れない偽装と隠蔽のもとに2世紀以上にわたって文明を蝕んできた隠れた病気の存在を明らかにするのです。家族に半人前扱いされている者が認めてほしくてあがくように、平等主義は暗い押入れから抜け出して、思いやりある、「人道的」で、利他的で、集産主義的な兄弟たちの動機は、貧しい人たちを救うことではなく、有能な人間を破壊することだと世界に向かって叫んでいるのです。かれらの本当の動機は善を善であるがゆえに憎悪していることだと。とりわけ、精神的であれ物質的であれあらゆる良いものの源泉、すなわち有能な人間に対する憎悪だと。

目標を達成するための平等主義者の願望にかくされている心理としては三段階あります。第一に、かれらは自らが認識を拒否しているものが存在しないと信じています。第二に、ゆえに、人間の能力なんてものはありません。第三に、であるから、かれらはこの存在しないものを抹殺するであろう社会的な枠組みを自由に作ることができます。いまの議論にとって特に重要なのは、平等主義者の「因果律」への抵抗、すなわち同等ではない原因による平等な結果、または同等ではない業績に対しての平等な報酬への要求です。

例えば、カリフォルニア州立大学サンディエゴ校の社会学教授、バーネット・M・バーガー(Bennett M. Berger)による論評(The New York Times Book Review、1974年1月6日)をから引用しましょう。ハーバート・ガンズ(Herbert Gans)著の『さらなる平等』(More Equality)なる本についての書評です。私はその本を読んだことがないし、読むつもりもありませんが、特に興味深く、よい事例となるのは評者自身の考え方です。バーガー氏によれば、「(ハーバート・ガンズは)もはや異論を唱える者のいない機会の平等ではなく、かつて「条件の平等」といわれた「結果」の平等についての議論であるとはじめから明確にしている……重要なのは収入、富、そして政治権力の不平等を減らすことであり……ガンズによれば、おもに所得税の控除の活用による所得の再分配と権力の分散によってさらなる平等は実現できる。分権には、企業や大学といった階級組織にさらなる平等をもたらすことや、「共同体管理」に類するものによって、不平等によって最も苦しめられる少数派が、大きな政治勢力をなす相対的に裕福な多数派に常に票数で負けてしまうことがないようにするなど様々な方法がある」

常に「票数で負ける」ことが社会正義にかなわないなら、もっとも少数であり常に他の勢力に票数で負けている大企業の経営者はどうなるのでしょう? バーガー氏は言及していませんが、氏が一貫して経済力を政治権力と同一視していること、お金でなんでも買えると信じているらしいことから、答えを想像することはできます。いずれにせよ彼は「民主主義」を信じてはいません。

ハーバート・ガンズをある種の「倦怠感」に襲われた「政策科学者」と評することで、バーガー氏の真意がいくらかあきらかになっています。「この『倦怠感』は「政策科学者」が、用意周到に、提言する変革を説得力をもって推進するため事実と理由と計画を周到に準備したにも関わらず、議会の委員会や上級スタッフら、背後の有権者や支援者に政治的な恩義がある者たちに苛立ち、敗北し、侮辱されるという悪夢からきている」つまり、かれらが思い通りにさせてくれないというのです。

バーガー氏が物質的な富を破壊することだけが目的だと思わないように、以下を考慮してみてください。「分権は、必ずしもさらなる平等を意味するわけではない……ニューイングランド地方のタウンミーティングの直接民主制でさえ……高い教育を受け、より雄弁で、政治センスのある者たちが過剰な影響力をもつ地域の政治コミュニティーを排除できない」これが意味するところは、高い教育を受けたものと無知な者、雄弁なものと支離滅裂な者、政治的に活発な者と消極的で鈍い者が全員の人生に対して同等の影響力と権力を有するべきということです。このような平等を実現する道具はたった一つ、銃しかありません。

バーガー氏はガンズ氏の平等主義の目的に同意すると強調していますが、それがさらなる平等をあからさまに促進することで達成されるかは疑わしいとしています。そしてひどくあからさまなシニシズムによって、バーガー氏は「別の戦略」が必要と示唆します。「平等主義の擁護は、個人主義や成果主義といった他の自由主義的な価値観と必然的に衝突する。だが、『市民権』の擁護は違う。民主主義の歴史はより多くの人々のためにより多くの『権利』を勝ち取り、人口のより多くを完全なる市民に近づける闘争であった……20世紀には人種や性別の障害を取り除く闘争があり……まともな住宅や、医療や、教育への権利を勝ちとるための闘争があった。全ては『平等』ではなく、定義上平等たるべき、自らを律する責任を行使する市民の必要条件を根拠とするものだった。この先どんな『権利』が掲げられるかは知る由もない。オーガズムへの権利? あるいは自分が美しいと感じる権利? これらは人々をよりよい市民にするだろう」言い換えれば、彼は平等主義の目的は「市民」という言葉を全体主義の概念、つまり、あらゆる人々のよりよい生活を保障するという概念に膨らませることで達成できると示唆しているのです。

バーガー氏がこうまで大っぴらに仕掛けることを提言しているイデオロギーの子供騙しに、どんなバカが引っかかるでしょう? 恵まれない人たちでしょうか? 一般大衆でしょうか? あるいは個人主義や成果主義を忘れる代わりに「オーガズムへの権利」でつられた知識人でしょうか? 見当もつかないといったほうがまだまともでしょう。

『肩をすくめるアトラス』を書いたあとで、いまさら個人主義、成果主義、能力のある人間を擁護して平等主義の教義を論破するつもりなどありません。むしろ現実の方が雄弁です。

1974年4月19日付のウォールストリート・ジャーナル紙の「アジェンデの遺産」という記事の見出しの下に、所得、富、権力がすべての人間に、その能力や、人格、知識、成果や頭脳に関わらずに平等に分配された時に何がおこるかという具体的で生々しい実例が提供されています。

「軍がアジェンデ政権を倒したころには、価格は2年で1000パーセントも高騰し、終盤では毎日3パーセント上昇していた。国庫は事実上空っぽだった」社会主義政権は幾多の米国企業を押収していた。新しい軍事政権はアメリカの経営陣を呼び戻し、多くがそれに応じた。

そのなかに、チリにプラスチック工場を所有していたダウ・ケミカル社がある。ダウの南米事業部のトップのボブ・G・コールドウェルは技術班をともなって、工場がどうなったかを視察にやってきた。「『目を疑うような光景でした』と彼は振り返っている。『工場はなんとか稼働していましたが、半年もすれば工場自体が消滅していたでしょう。一切の点検が行われていませんでした。放置されたバルブから強力な化学物質が漏れ、あやうくすべてが腐食してしまうところでした』……さらに恐ろしいことに、工場で扱われていた引火性の化学物質がいつ爆発してもおかしくない危険な状態だった。「安全管理は無茶苦茶でした」コールドウェル氏は言う。『火災用のスプリンクラーの接続が切れ、バルブは別の用途に使うために取り外されていました。しかも作業員たちは最も危険なエリアでタバコを吸っていたのです。『前にあなたたちがいたころには火災はなかったから、そんなに危険なはずがない』と言って」

この最後の一文に表現されている精神、このように機能することが可能な精神こそ、すべての人間の悪行の根本にある忌まわしい根源と言わざるを得ません。

みたところ、チリの新政権の精神も同じ部類に属する部分があるようです。同じような範囲にわたってみられるものですが、新政権の政策の結果は、すぐにはわかりませんが、かけ離れてはいません。労働争議を避けるため、新政権はアジェンデ政権下で合意されたすべての労働契約を無効にしました。たとえば、ダウ社の契約には「すべてのプラスチックのスクラップは労働組合に与えられ、労働組合はそれを販売する。『この条項は変更したい』と会社側の担当者は述べている。『スクラップしか生産しない明らかなインセンティブになる』と」

そしてサンチアゴの一大繊維企業の例があります。「会社の1,300名の従業員との契約は倒産を保障するようなものだ。繊維工場の従業員は、生地の一定量を賃金の一部として受け取り、37パーセント割引で無制限に購入できる。その価格では会社は損失となる。アジェンデ政権下で従業員は闇市で生地を売り、莫大な利益をあげ、かれらはアジェンデ政府支持の重要な支持基盤だった」

このような政策のもとで、一企業、あるいは国や人類が、いったいどれだけ生きのびられるでしょう? 今日、答えがみえていない人がほとんどですが、見えている人もいます。物質的な欠乏はそれよりずっと根深く、平等主義の政府が招き、取り返しがつかなくなるまで一般人が無視しつづけたある欠乏の結果です。「チリでのマルクス主義の実験により技師や専門家の不足が深刻になった。何千人もの技術者たちがアジェンデ政権の期間に出国した。軍事政府はインセンティブを提供しているが、かれらは戻ってきてはおらず、より高い報酬の仕事をもとめてさらに多くの人材が海外に流出している……会社役員によれば、『ここチリでは、良い人材がより高い報酬を得るべきという事実に慣れなければならない』」

だがここアメリカでは、そうであるべきではないという考え方に慣れろと言われています。

いわゆる「良い人材」などないと、バーガー教授は、あるいはガンズ教授やロールズ教授は声高に言います。良い人材だとしても、そうでない者たちを搾取しているのだと。「重要人物」などおらず、誰もが本質的に平等だとバーガー教授は言います。いや、ロールズ教授によれば、不公平に知性をもって有利に生まれた者がおり、そうでない者たちに贖うべきだとのことです。ガンズ教授によれば、私たちはさらなる平等を求めています。スプリンクラー装置を考案した人間と可燃性の化学物質のまわりでタバコを吸う人間が同等の報酬、同等の影響力をもち、科学と生産の共同管理において同等の声を持つべきだというのです。

「頭脳流出」という言葉は世界で広く知られています。これはさまざまな政府が認識し始めている問題であり、有能な人々を祖国に縛りつけることで解決しようとしていますが、依然として社会理論家は知性と生産の間には何のも関係もないと考えています。最高の人材が――地球上の隅々から、あらゆる奴隷小屋から??自由を求めて流出しています。奴隷監督に協力しないことは彼らがとれる最も崇高な道徳行為であり、ついでに言えば、人類に与えうる最大の奉仕ですが、彼らはそれを知りません。彼らに敬意を表し、価値を認め、重要性を認める声すら上がってきません。知ることが生業である人たち??世界の窮状を懸念すると公言する人たちはただ傍観しています。知識人は目を逸らし、理解することも拒否します。現実的な人たちは理解はしてもやはり沈黙しています。

生産施設は赤字で運営できないとわからず、チリの工場に押しかけて闇市で祝祭に興じる欲に駆られた暴徒を責めることはできません。上級国民がもっと平等になる権利があると教えているのですから。すべてのものには値段があること、そして今日彼らが盗み、差し押さえ、強奪したものは、明日の彼ら自身の飢えによって償われることがわからない野蛮人を責めることはできません。会社や大学、新聞、国会にいる上級国民が、そう教えたがらないならば。

こうした人々は何をあてにしているのでしょう。チリの工場が倒産しても、平等化推進者たちは別の工場を探して略奪するでしょう。その工場が潰れはじめれば、銀行から融資を受けます。銀行にお金がなければ、政府の融資を受けるでしょう。政府にお金がなければ、外国の政府から融資を受けるでしょう。もし外国政府にお金がなければ、すべての政府が米国から融資を受けることになるでしょう。

彼らが知らないことは──この国もですが──米国が破綻しているということです。

人が行使しようとしまいと、この世には間違いなく正義が存在します。能力のある人間の恨みは晴らされます。現実が復讐者となるのです。その武器はゆっくり、静かに、目に見えない形で打撃を与え、人はその影響──荒廃した町を見て、後に残る悲痛な呻きを聞いて初めてその怖さに気づきます。その武器こそ、インフレーションです。

インフレーションはほぼ誰も理解できないという事実によって可能となった人災です。犯罪にしてはあまりに規模が壮大なため、その大きさが盾となっています。被害者の頭脳の統合能力は、その犯罪の壮大さ──そして見ための複雑さ──を前に損なわれ、犯罪が公然と行われることを許しています。何世紀にもわたって、インフレは次々と国を破壊してきましたが、人は何も学ばず、抵抗もせず──屠殺される動物のようにではなく、なお悪いことに、畜殺者を求めて押し寄せる動物のように滅びていくのです。

インフレーションの前提条件は心理認識論的(サイコ-エピステモロジカル)であり、インフレーションは概念的な繋がりが切れたことにより生み出された知覚的な幻想の下に隠されている申しあげても何を言っているかおわかりにならないかもしれません。今からご説明してみせましょう。

まず、物事の最初から始めましょう。人間である以上、一日一度は食事をしなければならないという事実に注目しましょう。現代アメリカの都市では、これは大きな問題ではありません。食べ物はポケットの中に小銭の形で入れておくことができます。何も考えずに食事を抜き、お腹が空いたらサンドイッチを食べたり、缶詰を開ければよく、それはいつも手に入るはずです。

しかし食べる必要性が、自然の中でどんな意味を持つかを推測してみてください。つまり、あなたが原始の荒野に一人ぼっちでいる場合です。自然の最後通告である空腹は、毎日あなたに要求してきますが、その要求をすぐに満たすことはできません。時間と道具が必要です。狩りをするにも、武器を作るにも時間がかかります。また、他にも必要なものがあります。衣服が必要ですが、ヒョウを殺して皮を手に入れるには時間がかかります。住むところも必要ですが、小屋を建てるにも時間がかかりますし、建てている間の食料も必要です。日々の肉体のニーズを満たすために、あなたの時間はすべて吸い取られてしまいます。時間はあなたの生存の代価であり、前払いしなければならないことに注目してください。

もし、あなたが一人ではなく十人いたとしても違いがあるでしょうか?もし百人いたら?千人?十万人?数字に惑わされてはいけません。自然に関しては、事実は無情で変わりません。社会的には、人間が多ければ、ある人は他人を奴隷にして労せず生きていけるかもしれませんが、十分な数の人が捕らえられなければ、みなさんは全員滅び、続いて支配者も滅びます。

この問題は、農業を発見するとより明確になります。あなたは種を植え、数ヶ月後に収穫することで、より安全に、より快適に生き延びることができます。ただし、自然界の二つの絶対条件を守る限りにおいてはです。次の収穫まで食べられるだけの収穫物を保存しなければなりませんし、何よりも次の収穫物を植えるだけの種を保存しなければなりません。自分の食料が足りなくなるかもしれず、節約しなければならなくなり半分空腹になっても、死を覚悟して、貯蔵した種には手をつけてはいけません。手をつけたら終わりです。

農業は文明化への第一歩ですが、それは人間の概念的発展の著しい進歩が必要だからです。狩猟民の知覚的な、有形のものに縛られた精神では完全に理解できなかった二つの重要な基本概念、すなわち時間と貯蓄を理解することが必要だったのです。この二つの概念を理解すれば、人間が生きていくため必須の「時間・貯蓄・生産」の三条件を理解したことになります。みなさんは、生産は瞬間的なものではなく連続したプロセスであり、前の生産によって支えられているという事実を理解しています。「貯蔵された種」という概念は、この三つの本質を統合したものであり、農業だけでなく、ずっと広く、あらゆる形態の生産的な仕事に適用されるものです。未開人の不安定なその日暮らしのレベルを超えるには貯蓄が必要です。貯蓄があれば時間が稼げるのです。

みなさんが自立した農業を営んでいるならば、穀物を貯蔵しています。収穫の良い年の収穫物を貯蔵しておけば、悪い年を乗り越えることができますし、生産量を増やしてより大きな畑に植えるために種を貯蔵する必要があります。食料供給が安全であればあるほど、衣服、住むところ、井戸、家畜、そして何よりも鋤などの道具を維持したり改善したりするための時間を確保することができます。他の農民と取引ができることを発見したとき、みなさんは巨大な進歩を遂げます。それは、高度な文明への道、すなわち分業の発見につながります。例えば、百人いたとすると、それぞれ皆が必要とする道具の生産に特化することを学び、生産した商品を直接の物々交換で取引します。全員が自分の仕事に精通し、生産性が向上し、その結果、自分の時間がより良い利益をもたらすことになります。

自立した農業では、みなさんの貯蓄は主に貯蔵された穀物や食料品でしたが、穀物や食料品は腐りやすく日持ちしないので、貯蓄できない分は食べていました。つまり時間の範囲が限られていました。今や、あなたははるか先を見通せるようになっています。あなたは食料倉庫を増築しなくてもよく、穀物を保存期間の長い商品と交換し、必要な時に食料と交換すればよいのです。しかし、どの商品がよいのでしょうか?このようにして、次の巨大な発見に到達します。交換のための道具を発明するのです。それが通貨です。

通貨は、高いレベルの生産性を達成し、人生を長期的にコントロールできるようになった人間の道具です。通貨は単なる交換の道具ではなく、より重要なのは、消費を遅らせて将来の生産のための時間を稼ぐ貯蓄の道具なのです。この要件を満たすためには、お金は、腐らず、希少で、均質で、容易に保存でき、価値の大きな変動を受けず、取引相手の間で常に需要がある何らかの物質的な商品でなければなりません。そこで、金を通貨とすることにしたのです。金の通貨はそれ自体が有形の価値であり、実際に生産された富の証です。商品の代金として金貨を受け取れば、実際に商品を買い手に届け、単純な物々交換と同様に安全な取引ができます。貯蓄を金貨の形で保管する場合、金貨はあなたが実際に生産した道具を表し、その道具は他の生産者のために時間を買うことに使われ、生産プロセスを継続させるため、あなたはいつでも金貨を道具と交換することができるのです。

ここで、百人の勤勉で繁栄し、前進する人々からなるあなたのコミュニティに何が起こるかを予想してみてください。もしある男がみなさんの市場で、金によってではなく紙によって取引することを許可されたとしたら、つまり、彼が物質的な商品ではなく、実際に生産した商品でもなく、彼の将来の生産に対する約束手形だけで支払ったとしたら。この男はあなたの商品を受け取ったものの、それを自分の生産を支えるために使わず、全く生産せず、単に道具を消費するだけです。そしてより多くの商品を手に入れるために、より高い金額を再び約束手形で支払います。また、彼はみなさんの市場を拡大する最高の顧客であることを保証します。

やがて、あるとき、農業でなんとかやっている若者が洪水にみまわれ、あなたから穀物を買おうとしましたが価格が上がっており、あなたには余剰の穀物がないので、彼は破産してしまいます。そして若者がお金を借りていた酪農家は損失を補填するために牛乳の値段を上げ、牛乳が必要な野菜農家はいつも買っていた卵を買うのをやめ、養鶏家は餌を買えないために鶏を何羽か殺し、アルファルファ農家は卵についた高い値段を払えなくなり、貯蔵していた種をいくらか売り払い、作付けを縮小します。酪農家はアルファルファの値段が高くなって困るので、鍛冶屋への注文をキャンセルします。あなたはずっと貯金を貯め新しい鋤を買おうとしていましたが、鍛冶屋は倒産してしまいました。そして全員が「最高の顧客」に約束手形を差し出すと、それは彼の将来の生産に対する約束手形ではなく、みなさんの生産に対する約束手形であることがわかりました。──ですがみなさんには生産するすべがありません。土地も建物もありますが、冬を越すための食料も、植えつける種もありません。

そのコミュニティが千人の農家で構成されていたとしても、何か違いがあるでしょうか? 十万人なら? 百万人なら? 二億一千百万人なら? 地球全体なら? 荒廃がどれだけ広がろうと、いかなる製品であろうと、いかに複雑な取引であろうと、読者の皆さん、これがインフレーションの原因であり、パターンであり、結果なのです。

不渡り小切手で合法的に取引を行う権限を自分に与えられる機関は政府だけです。そして政府はみなさんが知ることも同意することもなくみなさんの将来を担保にできる唯一の機関です。政府の証券(および紙幣)は将来の税収、つまり、みなさんの将来の生産に対する約束手形なのです。

ここで、即物的にしかものごとを理解できない未開人の精神を、近代の工業文明の中に放り込んだと想像してください。彼が知的な未開人であれば多少の知識は得られるでしょうが、「信用」と「市場」という二つの概念は掴めないでしょう。

彼は、人が小切手と呼ばれる紙片を提示するだけで食物や衣服、あらゆる物を手に入れられると気づき、富豪の指示で超高層ビルや巨大な工場が地面から生まれ、その帳簿係が魔法の数字をある人の帳簿から別の人の帳簿へ、また別の人の帳簿へと付け替え続けていることに気づきます。これはついていけない速さで行われているので、彼はスピードこそが紙の魔法の力の秘密であり、小切手が手から手へと十分な速さで渡される限り誰もが働き、生産し、繁栄すると結論づけました。この発見を活字にしたら、ジョン・メイナード・ケインズに先を越されたと気づくでしょう。

デパートには素晴らしい商品が溢れているのに、人々はそれを買っていないらしい。「なぜだろう?」と彼は売場責任者に尋ねます。「市場が足りない」と売場責任者はいいます。「市場って?」 彼はたずねます。彼の新しい先生は答えます。「商品は人々が消費するために生産され、世界を動かすのは消費者ですが、十分な消費者がいないのです」 「そういうことか」と野蛮人は新しいアイデアに目を輝かせました。翌日、彼は大きな教育財団から小切手を手に入れ、飛行機をチャーターして飛び立ち、しばらくして裸足の部族全員を連れて戻ってきました。「みんないくらでも消費するよ」 彼は友人の売場責任者に言い、「まだまだいる。君ももうすぐ給料が上がるぞ」と。しかしその店はすぐに倒産してしまいます。

その貧しい未開人は、この結果を理解することはできません。なぜなら自分の考えには実に多くの人が賛同してくれており、その中には「消費主義」の呪文を唱えたロムニー知事(注: George Rom-ney)や、消費者の権利のために戦ったネーダー戦士(注:Ralph Nader)、消費者へのサービスについての公式を唱えた大企業の指導者、議会の長、ホワイトハウスの長、ヨーロッパのすべての政府の長、そして数多の教授という高貴な部族の長たちが大勢いるからです。

その野蛮人のメンタリティが一世紀近くにわたって西洋文明を支配してきたと理解するのは私たちには難しいかもしれません。

いま現在より先を見通すこと、原因を探ったり結果を予測したりすることは不可能と大学で教わった現代人は、文脈を無視することを普通の認識方法として身につけています。失敗を免れないであろう小さな町の商店主を観察すると、彼らはやはり客がいないことが唯一の問題であり、販売している商品やそれらの商品がどこから来たかという問題は関係ないと信じています。商品はあり、これからもずっとあると。したがって──生産者ではなく、消費者が経済の原動力であると結論づけているのです。消費者に信用、すなわち貯蓄を提供しようと彼らは進言します。商品の市場を拡大するために。

しかし実際には、消費者はただ消費者というだけではいかなる市場も形成しえず、単なる消費者は経済学とは無関係です。自然界が「消費者」という生まれながらの肩書きを与えることはありません。それは、生産によって、自ら獲得しなければならない肩書きなのです。市場を構成するのは生産者──製品やサービスを製品やサービスと交換する人間だけです。生産者は市場の「供給」を担い、消費者は市場の「需要」を担います。需要と供給の法則には、両方の役割に同じ人が関与するという暗黙の下位概念があります。この部分が忘れられたり無視されたり回避されたりすると今日のような経済状況になるのです。

成功した生産者は、市場における消費者としての自分の力を委ねることで、多くの人、例えば自分の子供たちを支援することができます。その能力は無限と言えるでしょうか? 自立した農場では、何人の男性を養うことができるでしょうか? もっと原始的な時代には、農民は農業労働力、生産的な助けを得るために、大家族を育てていました。すなわち、生産の支援をする者を。どうすれば生産力のない者を自分の努力で養うことができるでしょうか? もしも人数が無限であれば、需要が供給を上回れば──現在のように、需要が命令になってしまえば──そのためには、ストックされている種を使い切らなければなりません。これこそが今、この国で進行しているプロセスです。

それを実現できる機関はただひとつ、政府です。政府は「利他主義」という悪質な教義の助けを借りてそれを隠蔽しようとしています。利他主義を利用して利益を得ている人々、つまり福祉の受益者は、一部は被害者であり、一部は政府の国家主義政策の粉飾です。ですが、もし人々が野蛮人が理解できなかったもう一つの概念を理解していれば、政府とて誤魔化しきれない概念があります。それが「信用」の概念です。

原始的な農村での、貯蓄という、ストックシードの機能を理解しているなら、同じ原理を複雑な産業経済に適用してみましょう。

富は、生産されたものの消費されていない財を表します。直接的な物々交換の観点からすると、人は自分の富をどうするでしょうか。例えば成功した靴メーカーが生産量を増やしたいと考えているとします。彼の資産は靴であり、消費者として必要なものと靴の一部を交換する一方で、大量の靴を保存し、新しい工場を建設するための建材、機械、労働力と交換しています。そのためには原材料と、より多くの靴を製造するために雇う労働力が必要です。お金はこの取引を容易にしますが、その性質を変えることはできません。自分のプロジェクトに必要なすべての物理的な商品やサービスが実際に存在し、取引可能であることと同様に、彼の支払いは物理的な商品(この場合は靴)の形で実在しなければなりません。紙幣(あるいは金貨)を交換しても、必要な物理的なものがそこになく、お金と引き換えに手に入れることができなければ、関係者の誰にとっても意味がありません。

ある人が自分の商品を一度に消費せず、将来のために貯めておくと、生産量を増やしたいのか、貯金(お金の形で保有)で生活したいのかにかかわらず、必要なときに必要なものと交換できることを期待しているのです。これは、彼が生産の連続プロセスに頼っていることを意味します。そのためには生産量を増やすために貯蓄された商品が途切れることなく流れてくる必要があります。この流れが「投資資金」であり、産業のストックシードです。お金持ちが人にお金を貸すとき、人に貸すのは自分が消費していない財なのです。

これが「投資」という概念の意味です。自然の摂理では時間を先払いしなければならないのに、どうやって生産を始めるのだろうと思っていたら、これは人間がそれを可能にする恩恵的なプロセスだったのです。成功した人間は、有望な初心者に(あるいは評判の良い生産者に)自分の商品を貸します。利息の支払いと引き換えに。その支払いは、彼が負っているリスクに対するものであり、農場でも工場でも、自然は人間の成功を保証してくれません。事業が失敗した場合、商品が生産的な見返りなしに消費されたことを意味するため、投資家は資金を失うことになります。事業が成功した場合、生産者は投資によって得られた新しい商品、つまり利益から利子を支払います。

何より、このプロセスは消費ではなく生産に必要な資金調達にのみ適用され──その成功は投資家の人の感情や希望や夢への共感ではなく、生産能力についての判断にかかっていることに注目し、しっかり心に留めおく必要があります。

それこそが「信用」という言葉の意味なのです。数え切れないほどのバリエーションと用途がある「信用」は「お金」を意味しています。すなわち、ある生産者(またはグループ)が他の生産者に貸し出した未消費の商品で将来の生産から返済されるものです。自動車の購入のような消費目的のための信用供与であっても、借り手の生産実績や見通しに基づいて行われます。信用は──野蛮人が信じていたように──原因と結果を逆転させ、消費を生産の源に変える魔法の紙切れではありません。

消費は生産の最終的な要因であって直接の要因ではありません。直接の要因は貯蓄であり、これは消費でないもの、消費されていない商品を表していると言えます。消費は生産の帰結であり、生産プロセスに関する限りにおいては行き止まりです。生産量が少なく、稼いだお金をすべて消費してしまう労働者は、経済的には自立していますが、将来の生産には何の貢献もしていません。ささやかな貯金をしている労働者、巨額の投資をしている大富豪(そしてその間にいるすべての人)が未来に資金を供給する人たちなのです。生産せずに消費する人間は、生活保護受給者であろうと、金持ちのプレイボーイであろうと、寄生虫なのです。

産業経済は非常に複雑です。時間の計算、運動の計算、信用の計算、そして長い連続した契約のやりとりが必要です。この複雑さはシステムの大きな長所であると同時に脆弱性の原因でもあります。その脆弱性とは心理認識論的なものです。人間の頭脳もコンピュータも──設計者も──その複雑さを細部まで把握することはできません。それを支配する原理を把握するだけでも抽象化の大技が必要です。ここで人間の統合能力の概念的なつながりが崩れるのです。ほとんどの人は自分の住む町の経済の仕組みを把握することができません。ましてや国や世界の経済を把握することなどできません。今日の思考力を縮小させる反概念的な教育の影響で多くの人は経済問題を目先の具体的な事象で捉えがちです。彼らの給料、家主、そして街角の食料品店から。最も悲惨な、現実との結びつきを失った損失は「お金が現存するが消費されていない商品を表す」という概念が失われたことです。

このシステムの複雑さは、時として怪しげな人物の活動の一時的な隠れ蓑にもなります。働かずにローンを組んで贅沢な生活をし、その返済のために別の場所でローンを組み、その返済のためにまた別のローンを組む、といった相場師の話を聞いたことがあるでしょう。彼のやり方が永遠に続くわけはなく、いずれ破綻することはわかっているはずです。しかし、その相場を操るのが政府である場合はどうでしょう?

政府は生産的な企業ではありません。政府は何も生産しません。その正当な機能、すなわち警察、軍隊、法廷に関しては、生産的な経済に必要なサービスを提供しています。政府がこれらの機能を超えてしまうと、経済の破壊者になります。

政府には、生産者が支払う税以外の収入源がありません。その束縛を解き、しばし現実に定められた限界から解放されるために、政府は民間の相場師が夢想だにしない規模の信用詐欺ゲームを始めます。政府は今日みなさんからお金を借り、それは明日みなさんから借りるお金で返済され、さらに明後日みなさんから借りるお金で返済され、というように繰り返しながら続くのです。これは「赤字国債」と呼ばれています。これを可能にしているのは政府がモノとカネのつながりを断ち切っているからです。政府は紙幣を発行し、それを実際に存在する商品の一時預かり証として使用します──しかし、そのお金はいかなる商品の裏付けも、金(ゴールド)の裏付けもありません。それはみなさんの財と引き換えにみなさんに発行された約束手形であり、みなさんの将来の生産物から(税金というかたちで)みなさんが支払うことになっているのです。

みなさんのお金はどこに行くのでしょう? どこにも行きません。まずお金は他のことへの利他的な言い訳と粉飾決算を確立するため、つまり、補助金付きの消費システムを確立することになります。生産せずに消費する人間の「福祉」階級を確立し、縮小された生産量に課される広がり続ける行き詰まりを作るのです。そしてそのお金で、他の圧力団体を犠牲にしてある圧力団体に補助金を出したり──彼らの票を買ったり──官僚やその友人たちの気まぐれで思いついたプロジェクトに資金を提供したり、そのプロジェクトの失敗の代償として別のプロジェクトを始めたりするのです。福祉の受給者は、生産者の負担のなかでもっとも悪い部分ではありません──最悪なのは官僚たち──生産を規制する権限を与えられている役人たちです。彼らは単なる非生産的消費者ではありません。彼らの仕事は、生産者が生産することをどんどん困難にし、最終的には不可能にすることなのです。(彼らのほとんどは、すべての生産者を生活保護受給者の立場に置くことを究極の目標としている者たちです。)

政府は、崩壊しつつある企業を救うために他の企業の崩壊を犠牲にしてもがいている間に、負債を抱え込み、損失を切り替え、ローンにローンを重ね、将来と将来の未来を担保にするプロセスを加速させています。事態が悪化するにつれ、政府はこのプロセスを縮小するのではなく、拡大することで自らを守っているのです。このプロセスはグローバルなものになります。海外援助、外国政府への未払い融資、他の福祉国家への補助金、国連への補助金、世界銀行への補助金、外国の生産者への補助金、外国の消費者が私たちの財を消費できるようにするための債権が含まれると同時に──すべての費用を負担しているアメリカの生産者は保護されないまま放置され、その財産は、地球上のどこかの伝染病の温床に潜んでいる首長によっても差し押さえられ、たとえば中東の石油の場合のように、自分たちが生み出した富やエネルギーを逆手に取られてしまうのです。

このような支出の乱痴気騒ぎが、現在の生産量から賄えると思いますか? いや、状況はそれよりもずっと悪いといえます。政府は、この国の貯蔵された種を消費しているのです──つまり工業生産の貯蔵された種(ストック・シード)である投資資本、つまり生産を維持するために必要な貯蓄を。この貯蓄は紙ではなく、現物です。民間の信用が複雑に絡み合っていても、ある形、ある場所、ある場所で、金融取引を裏付ける実際の物が存在するという事実によって、経済は維持されていたのです。その保護が破られた後もずっと続いていました。今日、その財はほとんどなくなってしまったのです。

食べるパンがないとき、一枚の紙キレがあなたを食べさせてくれることはありません。購入する鉄骨がないとき、工場が建設されることはありません。革も機械も燃料もないとき、靴を作ることはできません。

今日の経済は、様々な商品が突然、予測不可能なほどに不足すると言われています。これは、これから起こるであろうことの前兆です。経済学者たちは、今日の問題の性質に困惑しているといいます。なぜインフレが不況を伴うのか──ケインズ主義の教義に反することが彼らには理解できず、「スタグフレーション」という馬鹿げた名前をつけました。彼らの理論は、貨幣が現物を表す限りにおいてのみ機能するという事実──通貨供給量の増加がある段階になると、政府が国家の投資資金を消費し始め、生産が不可能になるという事実を無視しています。

現在の米国の有形固定資産投資総額は──1968年のドル換算で──3.1兆ドルと推定されています。政府の支出が続けば、その驚異的な富はあなたを救うことはできません。壮大な超高層ビルや巨大な工場、豊かな農地は残ったとしても──燃料がなく、電気がなく、交通機関がなく、鉄がなく、紙がなく、次の収穫を植えるための種もないとすれば何も残らないのです。

もしその時が来れば、政府はこれまで暗黙のうちに行動してきた前提を明示的に宣言するでしょう。その唯一の「資本資産」があなただということです。あなたはもうこれ以上働くことができないがゆえに、政府に乗っ取られ──代替工業生産へと行き着く坂道で働かされることになるでしょう。技術的エネルギーの唯一の代替物は、奴隷の肉体労働です。これが、経済破綻が独裁政権につながる方法です──ドイツやロシアで起こったような。政府の計画が人類の生存の問題を解決すると考える人がいるなら、半世紀にわたる完全な独裁の後、ソビエト・ロシアが、アメリカの小麦とアメリカの産業「ノウハウ」を懇願していることをよく見てください。

独裁者がこの国を支配することは、当面は不可能です。可能なのは、内戦という盲目的なカオスです。

このように、経済の破綻が近づいているときに、知識人たちは平等主義的な考え方を説いています。政府支出の削減が急務となれば、彼らは福祉事業の拡大を要求します。生産能力のある人間がどうしても必要な時には、無能な人間に対する平等性を要求します。国が資本の蓄積を必要とするとき、彼らは金持ちを救済することを要求します。国がより多くの貯蓄を必要とするとき、彼らは「所得の再分配」を要求します。彼らが要求するのは、より多くの雇用とより少ない利益──より多くの雇用とより少ない工場──より多くの雇用と、燃料もなく、石油もなく、石炭もなく、「公害」もないこと──そして何よりも、雇用や工場、生産者に何が起ころうとも、より多くの消費者に無料でより多くの商品を提供することです。

彼らのケインズ経済学の結果は、すべての工業国を破壊していますが、彼らは基本的な仮説を疑うことを拒否しています。ソビエト・ロシアの、ナチス・ドイツの、共産主義中国の、マルクス主義チリの、社会主義英国の例が彼らの周りにあふれているにもかかわらず、彼らは見ようとも学ぼうともしません。今日、生産は世界の緊急課題であり、飢餓の危機が世界に広がっています。知識人は、無限の豊かさを生みだすことができ、また実際に生みだした唯一の経済システムを知っていますが、それについては何も考えず、まるで存在しなかったかのように沈黙を守っています。知的リーダーとしての役割を果たせない彼らを責めることほとんど無意味ですが、彼らの身の丈の小ささには悄然とするほかはありません。

この国の未来に希望はないのでしょうか? いいえ、あります。この国には、国民の無比の生産能力という資産が残っています。この能力が解放されれば、崩壊を回避するチャンスがあるかもしれません。一朝一夕に理想に到達できるとは思えませんが、せめてその名称を明らかにしなければなりません。わたしたちは、オープンであることや真実であることを求めているあらゆる政治的宗派の知識人たちが必死になって隠そうとしている秘密を、この国に明らかにしなければなりません──その奇跡的な生産システムの名称こそ「資本主義」であることを。

税金や国の再建といったことに関して、わたくしは、その方法はともかく、その目標において『肩をすくめるアトラス』に登場する最高の経済学者はラグネル・ダナショールドであると申し上げておきましょう。


『誰のための哲学か(原題 Philosophy: Who Needs It )』より米国ARIの許可を得て翻訳・公開
訳:脇坂あゆみ・宮崎哲弥・内藤明宏・河村直希