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「肩をすくめるアトラス」訳者解説

アイン・ランドとその時代

アイン・ランドは一九〇五年にサンクトペテルブルクに生まれ、当時にしては裕福なブルジョア家庭で育った。農村部では革命の足音が聞こえていたものの、首都ペテルブルクは絢爛たる帝政ロシアの最後の光彩を放っていた。ランドも少女時代から、ツルゲーネフ、トルストイら自然派の小説よりもロマン派のユゴーなどを好んで読んでいたという。
一九一七年の十月革命でサンクトペテルブルクがボルシェビキの支配下におかれると、ランドの父の薬局も国有化され、共産化がはじまった。だがランドが嫌悪したのは共産化のもたらした暴力や困窮よりもむしろそのイデオロギーだった。早い時期から思想を生涯のテーマにすると決意していたランドは、ペトログラード大学で歴史を専攻し、必須科目としてではあったが共産主義の思想史も学んだ。古代哲学ではプラトンに反発する一方、アリストテレスに心酔した。そして大学を主席で卒業したものの、すでに高学歴が有利にはたらく社会ではなく、卒業後はじめて得た仕事は市内のツアーガイドだった。
 一九二五年、家族のもとに革命の混乱で消息の途絶えていたシカゴの親戚から便りが届く。ランドは母親に頼みこんで、渡航許可を得る準備を始めた。九歳の頃から作家を目指していたランドだが、まずは貯金するためにハリウッドで脚本を書くと決め、ペトログラードの映画学校に入学した。やがてシカゴの親戚から財政的援助の保障を得て、米国訪問のビザを手にすると翌年、単身アメリカへ渡った。
しばらくランドはシカゴの親戚と生活をともにしたが、やがて映画館を経営していたかれらのつてでセシル・B・デミル・スタジオの知人への紹介状を手にハリウッドへ向かった。そして到着の二日後にスタジオの門を偶然通りがかったデミルにひろわれ、撮影中の『キング・オブ・キングス』でエキストラとして採用される。さらに脚本の仕事を与えられるものの、スタジオが閉鎖されると失業し、ウェイトレスとして働きながら書きつづけた。また一九二九年、同じく『キング・オブ・キングス』のエキストラだったフランク・オコーナーと結婚し、二年後アメリカに帰化する。
雑多な臨時の仕事の合間に、ロシアの現実についての小説を書くべきだという周囲の励ましもあって、ランドは革命後のロシアを舞台にした『我・生けるもの』(We the Living)を執筆しはじめた。だが時間の捻出は容易ではなかった。そこでランドは小説の執筆を中断し、『赤い人質』(Red Pawn)、『ペントハウスの伝説』(Penthouse Legend)の二本の脚本を売り、当座の資金を得たりもした。
四年をついやした処女作『我・生けるもの』は一九三三年に完成した。その三年後になってようやく三千部で出版されたが、書評は芳しくなく、売れ足も鈍く、口コミで評判が広がったころには、出版元が活版を破壊したあとだった。だがこの小説の完成は、ロシア体験のトラウマと決別する転機ともなり、ランドは選択と信念によるアメリカ人として、アメリカを舞台に小説を書くことになる。建築家フランク・ロイド・ライトをモデルにし、六年の歳月をかけ、一九四三年に出版された『摩天楼』(The Fountainhead)はベストセラーとなり、一九四九年にキング・ビダー監督によってゲイリー・クーパー主演で映画化され、ランドの作家としての地位をゆるぎないものにした。
渡米当時は生活も苦しく、アメリカ国内の政治情勢には疎かった。だがルーズベルトのニューディールに代表される社会主義的政策を危惧しはじめたランドは、経済理論を学習し、保守思想に傾倒した。執筆を中断し、ルーズベルトの対抗馬ウェンデル・ウィルキーの選挙運動に身を投じたりもした。アメリカの保守派の思想家や政治家と交流を持つのもこのころからだ。そのころランドが認めて支援した経済学者には当時無名のオーストリア学派のルートヴィヒ・フォン・ミーゼスがいる。
ランドの反共産思想はワシントンでも知られるようになり、一九四七年、下院の非米活動委員会(HUAC)では友好的証人の一人としてロナルド・レーガンらとともに親ソビエト映画を糾弾する証言をした。だがランドは保守派の政財界人の多くが、政治経済の議論に終始していることに不満をいだいていた。ランドにとって共産主義に対する資本主義の有効性の論証は終わっていた。証明されなければならないのは資本主義の道徳的正統性だ。『摩天楼』の映画が公開されると、ランドは思想小説『肩をすくめるアトラス』の執筆にとりかかった。
ランドは資本主義経済が社会主義政策の導入によって衰退していく様子を、全産業に関わる鉄道を中心に据えて具体的に描くことでイデオロギーと経済活動、思想と現実のつながりを示そうとした。さらに思想の適用を、セックスから喫煙にいたる生活のあらゆる範囲にまで拡大させていった。その大胆なアリストテレスとハーレクインの組み合わせが、彼女の哲学をアメリカの大衆に受け入れられるものにしたのかもしれない。構想から十四年後の一九五七年、『肩をすくめるアトラス』が出版されると、例によって知識人やメディアからは酷評されたが、やはり口コミが評判を呼んでベストセラーとなった。
ランドの著作に心酔した若者たちは、大学のキャンパスで彼女の思想を語りはじめた。『摩天楼』を読んだUCLAの学生、ナタニエル・ブルメンタルもその一人だった。彼は同じく熱心なファンであったバーバラ・ワイドマンを伴い、カリフォルニアのランド宅を訪ねた。ランドはその後二人と親しくつきあうようになり、二人がニューヨークに引っ越すと、後を追うように夫フランクを連れてニューヨークに居を移した。まもなくブルメンタルとワイドマンは結婚し、ランドにちなんでブランドン姓を名乗った。
やがてブランドン夫妻を中心として『摩天楼』を読んだ若いファンらがマンハッタンのランドのアパートに集うようになった。かれらは毎週土曜日の夜、遅くまで哲学や政治経済について語り、『肩をすくめるアトラス』の原稿をランドが朗読するのを聴いた。常連にはFRB議長のアラン・グリーンスパンもいた。アイン・ランドに出会うまでに、彼はすでにアダム・スミス的な意味で、つまり理論構造と市場効率がすぐれていたために自由企業説を信じていた。だがランドと出会ったことによって、資本主義は効率的であるばかりでなく、道徳的でもあると確信するようになった。
『肩をすくめるアトラス』の出版後、こうした取り巻きが中心となって、オブジェクティヴィズムと名づけられたランドの哲学を講義するナタニエル・ブランドン研究所(NBI)をたちあげた。全米のNBIには狂信的なランドファンがつどい、カルトと揶揄されるまでになった。だが長年密かに続いていたランドとブランドンの愛人関係がナタニエルの若い女性との恋愛によって破局をむかえると、ランドは彼に破門を言い渡し、NBIは解体する。信者たちは行き場をなくし、オブジェクティヴィズムがアメリカの知的メインストリームに受け入れられることはついになかった。
ランドの著書を愛したのは学生ばかりではない。財界人や軍人にも愛読者は多かった。米国金融改革会議で、ウェスト・ポイントの陸軍士官学校で、ランドは熱烈な歓迎をうけた。ランドを思想的母とあおいだグリーンスパンは、ニクソン政権につづきフォード政権でも経済顧問の要職にあった。だがランドの晩年は、知的な意味で孤独であり、幻滅の連続だった。彼女の思想はアカデミックな世界においても文学界においても異端扱いされ、政界では宗教を否定したために保守派から敬遠され、過激な資本主義のためにリベラルから嫌悪され、極端であるためにその中間からも疎まれ、居場所はなかった。たまに論文やコラムを書くほかに、公の場に出ることは年々少なくなっていった。一九八二年、ランドはニューヨークの自宅で死去した。


ランド思想のひろがり

ニューヨークの葬儀場には、ランドの死を悼む知人やファン八百人が列した。かつて大学のカフェテリアでランドの思想を語った若者たちは、アメリカの政治経済をになうようになっていた。六十年代にMITの学生だったロバート・プールは、一九六四年のゴールドウォーターの選挙運動の最中に、陣営で盛んに議論されていた『肩をすくめるアトラス』を読んでランド思想に心酔した。修士号を取得後、国防総省高等計画研究局の独立部門であるGRCで研究員を勤めるかたわらリバタリアン系のリーズン誌に論文を寄稿するなどしていたが、同誌が廃刊においこまれそうになるとこれを引き継ぎ、一九七八年にリーズン財団をたちあげ、航空管制システムの民営化をとなえるなど、運輸業界の規制緩和を促進する力となった。レーガン政権では民営化チームの顧問を務め、ブッシュ政権でもインフラ民営化の政策立案に関わっている。
ランドの思想的洗礼をうけて後に経済政策に直接かかわった人物の中には、前述のアラン・グリーンスパン議長のほかにも、レーガン政権で国内経済政策を担当したマーティン・アンダソンがいる。一九八一年のニューヨーク・タイムズ紙によれば、レーガンの政治組織内の人間にもっとも大きく影響した作家はアイン・ランドその人だった。一九九六年の予備選挙を覚えている読者ならば、スティーブ・フォーブズのレトリックが、ランドの台詞と重なるのではないか。現職議員も含め、ランドに影響された政治家は少なくない。またワシントンの保守系シンクタンクのケイトー研究所などはランドファンの巣でもある。
一九九五年、欧米数ヶ国の投資家がエコノミスト誌に全面広告を載せ、「アイン・ランドの理想と原則に基づく」ユートピアを設立する基金を設けてレッセフェール・シティーと名づけた共同体を作ろうと呼びかけた。百平方マイルの土地を長期で借り受け、本書のゴールト峡谷をモデルにした完全な自由市場によって機能する無政府のアトランティスを実現させようというのだ。呼びかけに対し一年のうちに二千四百人の個人が反響を寄せ、拠出金の五千ドル小切手を送ってきた投資家は三百五十人を数えたという。レッセフェール・シティーは実現にいたらないまま
二〇〇二年に解散したが、ビジネスマンや投資家のなかにランドマニアが潜伏していることは確かなようだ。
一九九一年にアメリカの議会図書館が行った調査では、『肩をすくめるアトラス』が二十世紀アメリカで聖書についで読者の人生に影響を与えた本とされている。デザイナーのラルフ・ローレンを奮いたたせたのもランドの小説だった。野球のカル・リプケン・ジュニア、テニスの女王であったビリー・ジーン・キング、俳優のジム・キャリー、漫画『スパイダー・マン』に本書を登場させた原作者の一人スティーブ・ディックもランドファンだ。ラッシュのアルバム『西暦二一一二』が一九三八年のランドの短編『賛歌』(Anthem)からインスピレーションを得たものであることはよく知られている。
だが没後二十年の今日に至るまで、年間五十万部ともいわれるランドの著書の売上げを支えてきたのは、彼女が小説で描いたアトラスたちよりもむしろ、通常思想はおろか読書にすらほとんど縁のない普通の人びとだったのではなかろうか。その感動は哲学などおよそ縁がないと思っていた学生やビジネスマンや主婦が、人に勧められてなんとなく読みはじめ、いつのまにか惹きこまれ、夜を徹してむさぼり読み、つぎに本から目をあげて自分の生活や周囲の人びとを見たときに、これまでの風景が物理的な存在以上の意味をもちはじめる哲学体験ではなかったか。
アメリカにはそうしてランド作品を通り過ぎてきた大勢の人たちがいた。キャンパスで、街で、職場で、ランドへの様々な思いをきかされた。そうした普通の人びとが、それぞれにランドの思想に影響され、アメリカの政治と思想のイメージを少しずつ変えてきたのではなかったか。ワシントン・ポスト紙のウィリアム・パワーズ記者は、一九九六年の特集記事のなかで、「彼女の思想は本質的に我々の思想なのであり、われわれ現代アメリカ人の生きかたを形づくってきた思想であるともいえる」と述べている。
むろんこれがアメリカの主流だといえば激しく異議をとなえるアメリカ人のほうが多いはずだ。とりわけ宗教観についてのランドの見方はいまも異端中の異端であり、敬虔なアメリカ人の多くがランドを敬遠する一因ともなっている。それでも徹底した個人主義と能力主義、小さな政府志向などはアメリカ的前提の核であることにかわりはない。ランドの思想はその源泉ではなかったにしても、アメリカを見つめる外国人にひとつの切り口を提供してくれる。フランシスコ・ダンコニアの金銭についての演説やラグネル・ダナショールドの政府観などからは、身近にいるアメリカ人を理解するヒントを得ることができる。
  冷戦は終わり、機関車の時代は過ぎ、アメリカの製鉄業は衰退した。だがランドの人気は衰える気配がない。処女作『我・生けるもの』は一九六〇年に再出版され、今日までの発行部数はアメリカ国内だけで二百万部以上に達している。『摩天楼』は四百万部、『肩をすくめるアトラス』は五百万部以上の売り上げを記録し、『肩をすくめるアトラス』は、アマゾンの利用者によって二十世紀の十冊にもランクインしている。サイン本や初版本は、現在も数百ドルから数千ドルで取引され、最近の自筆原稿のオークションでは『肩をすくめるアトラス』の三十頁が二十万ドル余りで競り落とされたという。死後の生を否定したランドだが、その思想はまた別の生を得て、アメリカと世界に広がりつづけている。
近年では作家ランドについても多くの著作がものされている。『肩をすくめるアトラス』については『ゴッドファーザー』のアルバート・ラディーが以前から映画化への熱意を表しているが、こちらはまだ時間がかかりそうである。
邦訳の編集は岩谷健一氏が担当した。製鉄プロセスに関しては新日本製鐵OBの竹井良夫氏、君津製鐵所広報部森下綾子氏にご教示いただいた。二十世紀の機関車については、梅小路蒸気機関車館の大野宏之副館長に助言いただいた。またランドの全作品を集めたCD-ROMの作者であるフィル・オリバー氏に原文のデジタル版をいただいた。ほかにも大勢の方々の協力と励ましによって『肩をすくめるアトラス』の邦訳版が刊行されることになった。改めて御礼申しあげたい。


訳者