• TwitterTwitter
  • FacebookFacebook
  • YouTubeYouTube

『アンセム』著者まえがき


この物語は一九三七年に書かれた。

 今回の出版にあたり初版を編集したが、編集は文体の変更にとどめた。一部の表現を変え、無駄な言葉を削ったが、追加・省略したアイディアや出来事はない。内容と構造には手を入れていない。物語は初版のままである。目鼻立ちは整えたが、背骨も、魂も、いっさい修正していない。どちらにも修正は不要だった。
 初版が出版されたとき、この物語を読んで私にこう言った者たちがいる。集団主義の思想を、私はフェアに扱っていない。これは集団主義が説いていることでも、意図していることでもない。集団主義者たちはこんなことを主張しているわけではない。誰もこんなことは言っていない、と。
 私は次の指摘をするだけだ。「生産の目的を、利益ではなく効用に」というスローガンは、今やあたりまえの言い回し、適切な望ましい目標を述べた言い回しとして、大多数の人々に受け入れられている。このスローガンに何か知的に理解可能な意味があるとすれば、「個人が働く動機は自分自身の必要、欲求、利益ではなく、他人の必要でなければならない」という思想以外の何だろう? 
 労働の強制的な徴用は、今や地球上のすべての国で実施ないし主張されている。その根拠になっているのが「『ある個人がどこで他人の役に立てるか』を決める資格を最も有するのは国家であり、その際考慮すべきは『他人の役に立つかどうか』のみであり、本人自身の目的、希望、幸福は何の重要性もないこととして無視すべきである」という思想以外の何だろう?
 〈使命評議会〉は、〈優生評議会〉は、そして〈世界評議会〉を含むあらゆる種類の〈評議会〉は、現に存在するのだ。そしてこれらがまだ我々に対する全面的な権力を握っていないとすれば、それはその意図がないからなのか?
「社会の利益」「社会の目的」「社会の目標」といった言葉は、すでに日常語になっている。あらゆる活動や存在について社会的な正当化が必要とされることが、今やあたりまえと見なされている。どれほどあさましい計画も、とにかく「公益」のためだと主張しさえすれば提案者は敬意をもって傾聴され、賛同されている。
 この世界がどの方向に向かっているかに目を塞(ふさ)ぐ者たちの擁護は、九年前なら可能と考えられたかもしれない――私はそう考えないが。今日、証拠は露骨なまでに明らかになった。かかる者たちの擁護はもはや不可能だ。この世界が向かっている方向をいまだに認めない者は目が見えないか、無知であるかのどちらかである。
 今日最も罪が重いのは、集団主義を道徳的怠慢によって受け入れる者たちである。すなわち、自分が受け入れているものの本質をはっきり自分自身に認めるのを拒むことで、立場を明らかにする必要性から逃れようとする者たち――明確に奴隷制の実現を目的として立案された政策を支持しながら、「自分は自由を愛する」という空虚な主張を、「自由」という言葉に何ら具体的な意味を持たせることもなく隠れ蓑にすれる者たち――思想の内容は精査される必要がなく、原則は定義される必要がなく、事実は自分の目をつむることで除去できると信じる者たちである。彼らは気がつくと自分がいるのが血なまぐさい廃墟と強制収容所の世界になっていたとき、こう泣いて叫べば道徳的責任から逃れられると信じている。「でもこんなつもりじゃなかったんだ!」
 奴隷制を望む者たちは、自分たちが望む制度を潔く正しい名称で呼ぶべきだ。自分たちが主張あるいは許容していることの完全な意味に、彼らは向き合わなければならない。集団主義の、その法的含意の、それが依拠する原則の、そしてそうした原則が最終的にもたらす結果の、完全な、正確な、具体的な意味に。
 彼らは向き合わなければならない。そしてこれが彼らの望むことなのかどうか、判断しなければならない。

  ――アイン・ランド

  一九四六年四月