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PLAYBOYインタビュー:アイン・ランド

「オブジェクティビズム運動」を生んだベストセラー作家とのストレート・トーク

アイン・ランド。このひたむきに怒れる58歳の女性は、今日のアメリカでもっとも舌鋒鋭い――そしてもっとも重要な――知的発言者の一人だ。彼女は、ことによるとこの十年でもっとも激しく批判され、かつもっとも熱烈に賞賛されたベストセラー、『肩をすくめるアトラス』の著者だ。6年前に出版されたこの小説は、これまでに120万部が売れ、今やこの国でもっとも話題に上る小説の一つになっている。アイン・ランドについて議論するサークルが、あちこちの大学にある。大学教授たちが、授業で彼女の思想について論じている。ナサニエル・ブランデン研究所が主催する講座に、ニューヨークからロスアンジェルスまで、全米30都市で2500人以上が参加し、この小説で示された原理を解説する講義やテープに耳を傾けている。月刊誌「ザ・オブジェクティビスト・ニュースレター」には、何千人もの購読者がいる。そこではランド女史や彼女の門下生が、経済から美学まで、あらゆることを論じている。彼女の前回のベストセラー『水源』の販売部数は200万部近くに達している。
小説がこれほどの連鎖反応を起こすのは、異常なことだ。『肩をすくめるアトラス』がこれを起こしたのは、驚嘆すべきことだ。というのもこの本は、“頭脳の人”がストライキを起こしたらどうなるかを描くパノラマ的小説なのだが、1168ページもあるのだ。この小説は長々とした、ときに複雑な哲学的章句で満たされている。そして多くの人々の怒りを買わずにはいない考えで溢れている――ランド本人と同じように。これほどの成功にもかかわらず、文芸エスタブリッシュメントは彼女をアウトサイダー視している。評論家たちはほぼ一人残らずこの小説を無視するか、さもなくば罵倒している。哲学界でも彼女はよそ者扱いだ。『肩をすくめるアトラス』は、小説であるのと同じくらい哲学書でもあるのだが。リベラル派は、彼女の名前を出しただけで顔をしかめる。だが保守派も、彼女が話し始めると苦々しい顔になる。というのもアイン・ランドは、人が好むと好まざるとを問わず、無比無類なのだ。疑いの余地なく、修正の余地なく、妥協の余地なく、独自なのだ。
彼女は、近年のアメリカ社会の動きを嫌悪している。その政治を、その経済を、そのセックス、女性、ビジネス、アート、宗教への態度を、嫌悪している。要するに彼女は、まぶたひとつ動かさず断固として、「私はこの2500年の文化的伝統に挑んでいる」と宣言している。本気でそう言ってるのだ。
射抜(いぬ)くような褐色の目と、コンピューターのように切れる頭脳を持った黒髪の女性、アイン・ランドは、ロシアのサンクトペテルブルクで小事業を営む一家に生まれた。サンクトペテルブルクで、彼女はロシア革命の真っただ中を生きた。彼女は共産主義とその哲学を嫌悪しながら、レニングラード大学に通った。1926年、彼女はなんとかソ連を出国し、シカゴの遠縁の家に数ヶ月滞在した後、ハリウッドの住人になった。彼女はずっと作家になることを夢見ていた。フィクション作家になるには、彼女の英語力は少々不十分だった。そこでサイレント映画のあらすじを考える仕事を見つけ、新しい言語をマスターしていった。ときどきは失業もしながら、映画エキストラ、ウェイトレス、新聞の販売員、映画撮影スタジオの衣装係などさまざまな仕事をした。
そして1936年、最初の小説である『われら生きるもの』を書き上げた。ソビエトロシアを舞台にし、全体主義を批判する小説だ。この小説は、ほとんど注目を集めなかった。2年後、彼女は『アンセム』を書き上げた。「私」という一人称が根絶され、集団主義的な「我々」という一人称だけが使われるようになった社会を描く短編小説だ。その5年後、12の出版社から出版を拒否された末にようやく世に出たのが、己の個人性をかけて闘う一人の建築家を描いた小説、『水源』である。この小説は全米でベストセラーになり、後に映画化された。
その後10年近くをかけ、彼女は『肩をすくめるアトラス』を書き上げた。彼女はこの作品を単なる小説ではなく、アメリカ社会が進む道をまさに逆転させる哲学の具体化と見なしている。すなわち、アメリカを完全な――19世紀のそれよりさらに純粋な――自由放任資本主義の国に変えることを目指す哲学だ。だが彼女の哲学――この哲学を彼女は「オブジェクティビズム(客観主義)」と呼ぶ――の射程は、政治経済にとどまらない。この哲学の焦点は、新しい倫理の提示なのだ。この倫理を彼女は、「合理的な自己利益の道徳」と定義している。
現在アイン・ランドは、マンハッタン東30番代丁目の質素なアパートで、画家の夫フランク・オコナーと暮らしている。彼女は次の小説を構想するのと並行して、認識論の著作を出す長期プロジェクトを進めている。どちらの執筆も全米での多忙な講演スケジュールで遮られるが、彼女は仕事時間の――そして溢れるエネルギーの――ほとんどを、小さな青緑色の書斎で費やしている。そこで彼女は執筆の大半を行う――すべて手書きで。
本誌インタビュアー、アルビン・トフラーとの知的刺激溢(あふ)れる対話の中で、ランド女史は彼女の作品と見解について、明確かつ真剣に語った。彼女は次々投げかけられる質問に、一音一音が明確で抑揚の少ない、ロシアなまりの低い声で答え続けた。ブルーとシルバーのシガレットホルダーに差した巻きタバコを吹かす間以外、彼女の言葉は止まることがなかった。シガレットホルダーは熱心なファンから贈られたもので、彼女のイニシャルと、『肩をすくめるアトラス』の3人の主人公の名前と、無数の小さなドルマークが彫られている。ドルマークは『肩をすくめるアトラス』の中で「自由な取引の、それゆえ自由な思考の」象徴とされている。

PLAYBOY
あなたの小説やエッセイ、特に議論の的になっているベストセラー『肩をすくめるアトラス』は、注意深く設計された、一貫性のある世界観を提示しています。これらの作品は事実上、一つの包括的な哲学体系の表明になっています。あなたはこの新しい哲学によって、何を達成しようとしているのですか。
ランド
私は人々――考えることを厭(いと)わない人々――に、一貫した合理的な人生観を提供しようとしています。
PLAYBOY
オブジェクティビズムは、どのような前提の上に成立していますか。オブジェクティビズムは何を起点としていますか。
ランド
オブジェクティビズムは、〈存在は存在する(existence exists)〉という公理から始まります。これは、「客観的現実は、いかなる認識主体からも独立して、認識主体の感情、感覚、願望、希望、恐れとは無関係に存在する」という意味です。オブジェクティビズムでは、理性が人間にとって、現実を把握する唯一の手段であり、行動における唯一の指針であると考えます。私が「理性」というのは、「感覚から提供される材料を識別し統合する能力」という意味です。
PLAYBOY
『肩をすくめるアトラス』で、主人公のジョン・ゴールトがこう宣言します。「己の人生とその愛によって──私は誓う──私は決して他人のために生きることはなく、他人に私のために生きることを求めない」。これはあなたの基本原理とどう関連しますか。
ランド
ジョン・ゴールトの宣言は、オブジェクティビズムの倫理をドラマ的に概括したものです。どんな倫理体系も、自覚的にせよ無自覚にせよ、何らかの形而上学を基礎・起点にしています。オブジェクティビズムの形而上学的基礎から導かれる倫理は、こう主張します。すなわち、「理性が人間の基本的生存手段である限り、合理性は人間にとって最高の美徳である。自分の頭脳を使うこと――すなわち現実を知覚し、知覚した現実に従って行動すること――は、人間にとって道徳的義務なのである」と。オブジェクティビズムの倫理における価値の基準は、人間の命です。すなわち、人間が人間として生き延びることです。あるいは、本質的に理性的存在である人間が、その本質にふさわしく生き延びるために必要とされることです。オブジェクティビズムの倫理のエッセンスを要約すれば、「人は自分自身のために存在する」、「自分自身の幸福を追究することが、人にとって最高の道徳的目的である」、「自分を他人の犠牲にしてはならないし、他人を自分の犠牲にしてもならない」となります。ジョン・ゴールトの宣言が概括しているのは、この最後の部分です。
PLAYBOY
個人の行動に関しては、ここからどのような道徳が導かれますか?
ランド
それは『肩をすくめるアトラス』に詳しく書いてあります。
PLAYBOY
『肩をすくめるアトラス』のヒロインは、作中の表現によれば、「生来の罪悪という感覚を覚えることができない」人物です。罪悪の概念なしに、道徳体系が成立しますか。
ランド
あなたが引用した箇所で重要なのは、「生来の」という言葉です。「生来の罪悪」というのは、自分の行為の正当性を判定する能力を意味しません。正しくない行為をしてしまった場合に、そのことを後悔する能力も意味しません。「生来の罪悪」が意味するのは、「人間は本質的に邪悪で罪深い」ということです。
PLAYBOY
つまり原罪のことですか?
ランド
そうです。原罪という考え方こそ、『肩をすくめるアトラス』のヒロインが決して容認できないものです。感情として経験することさえできないものです。私自身もそうですし、オブジェクティビストなら全員そうです。原罪という考え方こそ、道徳を無意味にするものです。もし人間が生来罪深い生きものであるなら、人間はそのことについていかなる選択肢も持たないことになります。選択肢を持たないなら、この問題は、道徳の領域に属さないことになります。道徳は、人間の自由意志の領域にのみ属します。つまり、自分に選択の余地がある行為にのみ属するものです。人間は生まれつき罪深いと見なすことは、名辞の矛盾なのです。『肩をすくめるアトラス』のヒロインは、特定の行為について罪悪感を持つことはできるでしょう。ただ彼女は、高い道徳性と自尊心を持つ女性ですから、罪悪となる行為は決してしないように努めるでしょう。彼女は、完全に道徳的に行動するでしょう。ですから、自分が犯してもいない罪を罪として受け入れることもないでしょう。
PLAYBOY
『肩をすくめるアトラス』で、主要登場人物の一人がこう尋ねられます。「もっとも堕落した人ってどんな人?」と。彼の答えは驚くべきものです。それはサディストでも、殺人者でも、セックス狂でも、独裁者でもなく、「目的のない人」だと言うのです。しかしほとんどの人は、明確に定義された目的なしに人生を生きているように見えます。こういった人たちを、あなたは堕落していると見なすのですか?
ランド
ええ。ある程度は。
PLAYBOY
なぜです?
ランド
彼らの人格のまさにその面こそが、あなたが今述べた悪すべての根本原因だからです。サディズム、独裁、あらゆる形態の悪は、人間が現実から逃避したことの結果です。彼が思考しなかったことの結果です。目的を持たない人間は、その場限りの感情や不明瞭な衝動に流される人間であり、いかなる悪でもなし得る人間なのです。なぜならそのような人は、自分の人生のコントロールを完全に失っているのですから。自分の人生をコントロール下に置くためには、目的を――生産的な目的を――持つ必要があります。
PLAYBOY
ヒトラーやスターリンは――独裁者の例としてこの二人を挙げますが――自分の人生をコントロール下に置いていなかったのでしょうか。彼らは、明確な目的を持っていなかったのでしょうか。
ランド
まったくそのとおりです。二人とも、文字通りの精神異常者として死んでいるではありませんか。彼らは自尊心を欠く人間でした。そしてそれゆえに、あらゆる存在を憎んだのです。彼らの心理は事実上、『肩をすくめるアトラス』の登場人物ジェームズ・タッガートの人格に要約されています。目的を持たないにもかかわらず、行動せずにはいられない人物、他者を破壊するために行動する人物です。これは生産的な目的、創造的な目的とは異なるものです。
PLAYBOY
単一の、明確に定義された目的に従って人生を組織すると、自分の世界が極端にせばまりはしませんか。
ランド
まった逆です。中心的目的は、人生における他のすべての関心を統合する役目を果たします。中心的目的を持つことで、自分にとっての価値のヒエラルキー、つまり重要性の序列が確立されます。無意味な内的葛藤から解放され、人生を幅広いスケールで楽しめるようになります。人生の喜びを、自分の思考が及ぶ限りの領域に広げることができます。一方、目的を持たない人は、混沌に迷い込みます。彼は何が自分にとっての価値なのかがわかりません。どう判断すればよいのかもわかりません。自分にとって何が重要で、何が重要でないのかもわかりません。そしてそれゆえに、偶然の刺激や、その場の気まぐれに流され続けることになります。そのような人は、何ものも楽しむことができません。自分にとっての価値を探すことに生涯を費やしながら、死ぬまで見つけることができないのです。
PLAYBOY
人生から気まぐれを排除する試み、完全に合理的に行動しようとする試みは、まったくうるおいのない、喜びのない生き方につながるとは考えられませんか。
ランド
おっしゃる意味がまったくわかりません。言葉の定義をはっきりさせましょう。理性は、人間が知識を得る手段です。理性という能力によって、人間は客観的現実を把握できるのです。合理的に行動するとは、現実と調和して行動するということです。感情は、認識の手段ではありません。あなたがどう感じるかは、客観的現実について何ごとも教えません。現実に対するあなた自身の評価に関して、なにがしかのことを教えるだけです。感情は、あなたの価値判断の結果なのです。感情は、あなたの基本的前提によって引き起こされるのです。基本的前提は、本人が自覚している場合もありますし、自覚していない場合もあります。基本的前提は正しい場合もあれば、誤っている場合もあります。気まぐれとは、その原因を本人が知りもしなければ、知る気にもならない感情です。ということは「気まぐれに従って行動する」とは何を意味することになりますか? 自分が何に取り組んでいるのかも、自分が何を成し遂げたいのかも、自分の動機か何なのかもまったくわからずに、ゾンビのように行動するということです。これは、一時的な錯乱状態で行動するということです。これをあなたは、「うるおいある」だとか「喜びある」とか呼ぶのですか? そんな状態からしたたり落ちるのは、血液くらいだと思いますよ。客観的現実に逆らって得られる結果は、破壊だけです。
PLAYBOY
感情は、まったく無視すべきものなのですか? 人生から完全に排除すべきものなのですか?
ランド
もちろん違います。ただ、その本来の地位にとどまらせるべきであるだけです。感情は、人間の価値前提の自動反応であり、自動的な結果なのです。結果であって、原因ではないのです。人間の理性と感情の正しい関係を把握していれば、両者の間には、いかなる必然的な衝突も対立もありません。合理的な人は、自分の感情の源泉を、つまり感情が生まれる元になった基本的前提を知っています。あるいは、知ろうと努めています。自分の前提が誤っていたら、それを修正します。自分でも説明がつかない感情、自分でも意味がわからない感情に基づいて行動したりはしません。状況を評価するにあたっては、なぜ自分がそのように反応するのかを知っています。自分が正しいかどうかも知っています。合理的な人に内なる葛藤はありません。彼の思考と感情は統合されています。彼の意識は完全に調和しています。彼にとって自分の感情は敵ではなく、人生を楽しむための手段なのです。ただし指針ではありません。指針になるのは自分の頭脳です。この関係を逆にすることはできません。自分の感情を原因として扱い、自分の思考を受動的な結果として扱うなら――つまり感情に従い、感情を無理やり合理化し正当化するためだけに思考を用いるなら――彼は不道徳に行動することになります。悲惨、失敗、敗北に運命づけられ、破壊――つまり自分の破壊と他人の破壊――以外の何ごとも達成しないことになります。
PLAYBOY
あなたの哲学によると、仕事と達成は人生の最高の目標です。友情や家族の温かい絆(きずな)により大きな充足を見出す人を、あなたは不道徳と見なすのですか。
ランド
友情や家族の絆(きずな)のようなものを、自分の生産的な仕事より上位に位置づけるなら、そうですね。そのような人は不道徳です。友情、家族生活、人間関係は、人生の最重要事項ではありません。他人を第一に位置づける人、自分の創造的な仕事より上位に位置づける人は、感情的寄生者なのです。他方、自分の仕事を第一に位置づければ、自分の仕事と人間関係の喜びの間に何の衝突もありません。
PLAYBOY
女性も男性と同様、仕事を中心に自分の人生を組織すべきだと思いますか。もしそうなら、どのような種類の仕事に?
ランド
もちろんそう思います。私は、女性は人間であると信じます。男性にとって適切であることは、女性にとっても適切なのです。基本原理は同じなのです。ある男性がどのような種類の仕事をすべきかについて、私はとやかく言おうとは思いません。女性についても同じことです。女性だけに向く仕事というのは、特にありません。女性も男性とまったく同じように、自分の目的と前提に従って仕事を選べばいいのです。
PLAYBOY
キャリアではなく家庭に専念する女性は、あなたの考えでは不道徳なのですか。
ランド
不道徳ではありません。実利的でないとは言えます。子供がまだ幼い間を除き、家事はフルタイムの職業にはなり得ませんから。ただし、家族を欲し、たとえば一時的に家事を自分のキャリアにしたいと望むなら、それは適切なことになり得るでしょう――一つのキャリアとして家事に取り組むなら、ですが。つまり、その問題について研究するなら、子供を育てるにあたって依拠する規則と原理を明確にするなら、自分の任務に知的に取り組むなら、です。家事は非常に責任ある任務であり、非常に重要な任務です。ただしそれは、感情的な耽溺としてではなく、科学として取り組む場合に限ります。
PLAYBOY
仕事への情熱だけに駆(か)られる合理的人物にとって、恋愛は人生のどこに位置づけられるのですか?
ランド
そのような人物にとって、恋愛は最高の報酬です。深い恋愛を経験できる人間だけが、仕事への情熱に駆(か)られることができるのです。なぜなら愛は、自尊心の経験であり、個人の人格のもっとも深い価値の経験だからです。人はこうした価値を共有する人物と恋に落ちます。明確に定義された価値も、特性も持たない人は、他人に惹かれることもありません。この点について、私は『水源』の主人公のこの台詞を引用したく思います。読者にしばしば引用されている台詞です。「『I love you』と言うためには、まず『I』をどう言うべきかがわからなければならない」。
PLAYBOY
あなたは、自己の幸福こそが最高の目的であり、自己犠牲は悪であると考えています。これは仕事だけでなく、愛にも当てはまりますか。
ランド
愛にこそ、他の何よりも当てはまります。あなたが誰かを愛しているということは、その人物があなたにとって、そしてあなたの人生にとって、個人的に、自己本位に、きわめて重要であるということです。もしあなたが無私であるなら、あなたは自分が愛する人との交際からも、その人の存在からも、いかなる個人的な喜びも幸福も得ないということになります。「その人物があなたを必要としている」ということに対する自己犠牲的な哀れみだけが、あなたの動機だということになります。こんな考え方を喜ぶ人も、受け入れる人もいないことは、わざわざ指摘するまでもありません。愛は自己犠牲ではなく、あなた自身にとっての必要と価値の、もっとも奥深い肯定なのです。あなたが愛する人を必要とするのは、あなた自身の幸福のためです。そしてそのことこそが、あなたがその人物に与え得る最高の賞賛なのであり、最高の贈り物なのです。
PLAYBOY
肉体的な愛は醜(みにく)い、もしくは悪であるというピューリタン的な考え方を、あなたは非難しています。あなたは、「無差別な欲望と見境ない耽溺は、セックスと自己を罪悪視する者にのみ可能だ」と書いています。あなたは、セックスへの選択的で分別ある耽溺は道徳的だと言うのですか。
ランド
むしろ「選択的で分別ある性生活は耽溺ではない」と言います。「耽溺」という言葉は、それが軽く、無頓着に行われる行為であることを含意します。私は、セックスは人間生活のもっとも重要な側面の一つであり、それゆえに、決して軽く無頓着にアプローチしてはならないものであると言います。性的関係は、人間に見いだされる中でもっとも崇高な価値を基盤にしてのみ、適切なのです。セックスは、価値に対する反応以外の何ものであってもならないのです。だからこそ私は、相手を選ばないセックスを不道徳と見なすのです。セックスが悪だからではなく、セックスが善であり重要だからこそ、そのように見なすのです。
PLAYBOY
そうするとあなたの見解では、セックスは結婚しているパートナー間でのみ行われるべきであるということになりますか。
ランド
必ずしもそうではありません。セックスは、きわめて真剣な関係においてのみ行われるべきものです。この関係が結婚という形式をとるべきかどうかは、2人の人生の状況と文脈によります。私は、結婚を非常に重要な制度と考えます。しかし結婚が重要であるのは、お互いにとって、相手が残りの全人生を一緒に過ごしたいパートナーである場合だけです。これは、誰にとっても自動的には確信できない問題です。相手が自分にとって最終的な選択だと確信できるなら、もちろん結婚は望ましい状態です。しかしこれは、完全な確信に至らない関係が不適切であることを意味しません。婚外交渉か、それとも結婚かは、当事者2人の知識と立場次第であって、当事者以外が判断すべきことではないと私は考えます。それが互いにとって真剣な関係であり、価値に基づく関係であるなら、婚外交渉と結婚のどちらも道徳的です。
PLAYBOY
あなたは啓蒙利己主義の提唱者の一人として、快楽主義的な自己満足の追求に人生を捧げることをどう思いますか。
ランド
私は、快楽主義の哲学には根本的に反対です。快楽主義は、「自分に快楽を与えるものはすべて善である」という思想です。つまり、喜びが道徳の基準なのです。オブジェクティビズムでは、「善は合理的な価値基準によって定義されなければならない」と考えます。「喜びは第一原因ではなく、結果に過ぎない」と考えます。「道徳的と見なせるのは、合理的な価値判断によって得られる喜びだけである」と考えます。「喜びそれ自体は行動の指針にならず、道徳の基準にもならない」と考えます。喜びを道徳の基準にするということは、意識的に選んだ価値だろうが無意識に選んだ価値だろうが、合理的に選んだ価値だろうが不合理に選んだ価値だろうが、自分が選んだ価値はすべて正しく道徳的であるということです。これは、自分の思考ではなく、その時々の感覚や、感情や、気まぐれを指針にして生きるということです。私の哲学は、快楽主義とは逆です。私は、行き当たりばったりの、恣意的な、主観的な手段で人が幸福になることはできないと考えています。人は、合理的な価値に基づいてのみ幸福になれるのです。「合理的な価値」というのは、人が勝手に、当てずっぽうに合理的と主張するものではありません。何が合理的な基準であり、何が追求すべき合理的な価値であるかを決めるのは、倫理に関する科学の領域なのです。
PLAYBOY
女たちを追いかけ回すことに自分の時間を費やす男は、「自分自身を軽蔑している」とあなたは述べています。詳しく説明してください。
ランド
このタイプの男性は、セックスの因果関係を逆にしているのです。セックスは人の自尊心の現れであり、自己価値の現れです。ところが自分に価値を見出さない男は、このプロセスを逆にしようとします。セックスを獲得することで、自尊心を得ようとするのです。そんなことは不可能です。彼に価値を認める女が何人いようと、彼が自己の価値を得ることはできません。これこそが、そうした男が虚しくも試みていることなのです。
PLAYBOY
「セックスは理性とは無関係」という考え方を、あなたは攻撃しています。しかしセックスは、非理性的で生物学的な本能なのでは?
ランド
違います。まず人はいかなる本能も有しません。セックスは生理的には、肉体が持つ機能の一つに過ぎません。しかし人がどのようにこの機能を行使し、誰に魅力を認めるかは、その人の価値基準に依存します。価値基準は、その人が持つ前提に依存します。前提は本人に自覚されている場合もあれば、自覚されていない場合もあります。自覚されていようがいまいが、人の選択は、本人が持つ前提によって決まります。だから人がどのような性生活を送るかは、本人の哲学に依存するのです。
PLAYBOY
人間には強力で、非理性的で、生物的な衝動があるのでは?
ランド
いいえ。人間には生まれつきの生理機構があり、生まれつきの生理的欲求があります。しかし生理的欲求の満たし方については、人間が生まれつき持っている知識は何もありません。たとえば、人間は食物を必要としています。人間は飢えを覚えます。しかし人間は、餓死しないためには、まずこの飢えを飢えとして認識し、自分が食物を必要としていることを認識し、食物を確保する方法を学習しなければなりません。飢えという欲求は、その満たし方を人間に教えないのです。人間には生まれつきの生理的欲求と心理的欲求がありますが、どちらの欲求も、自分の理性を駆使することなしには、わかることも満たすこともできないのです。人間は、合理的存在としての自分にとって何が正しく何が間違っているのかを、自分で発見しなければなりません。いわゆる衝動は、人間に何をすべきかを教えないのです。
PLAYBOY
あなたは『肩をすくめるアトラス』で、「すべての問題には相反する二つの立場がある。一方は正しく、もう一方は誤りだが、中間は常に悪である」と書いています。これは「黒か白か」の価値観では?
ランド
まったくその通りです。私は断固として「黒か白か」の世界観を唱えます。定義をはっきりさせましょう。「黒か白か」という表現で意味されているのは何でしょう? 善と悪です。何であれ、何かを灰色、つまり中間とするためには、何が黒で何が白なのかを知らなければなりません。灰色は、両者の混合に過ぎないのですから。一方の選択肢が善で、他方の選択肢が悪であることが明らかなときに、両者の混合が正当化されることは決してありません。悪であるとわかっていることを、たとえ部分的にでも選択することは、決して正当化されません。
PLAYBOY
ではあなたは、絶対的なものがあると信じるわけですね?
ランド
その通りです。
PLAYBOY
そうすると、オブジェクティビズムはドグマと呼ばれても仕方ないのでは?
ランド
いいえ。ドグマというのは、信仰に基づいて受け入れられる教義です。つまり合理的に正当化されない教義、あるいは、合理的な証拠に反して受け入れられる教義です。ドグマというのは、盲目的信仰の対象です。オブジェクティビズムは、その正反対です。「真であることを理性という手段で示せない観念や信念は、いかなるものであれ受け入れてはならない」とオブジェクティビズムは教えるのです。
PLAYBOY
オブジェクティズムも、広く受け入れられればドグマ化し得るのでは?
ランド
しません。オブジェクティビズムという哲学自体が、この哲学をドグマとして利用しようと試みる者に対する防御になるのです。オブジェクティビズムは、自分の頭脳を使うことを要求します。ですからオブジェクティビズムの概略的な原則を取り上げ、思考も識別もなしに自己の具体的なあり方に適用しようとする者は、それが不可能なことだと気づきます。そうなると、オブジェクティビズムを拒否するか、適用するかのどちらかを選ぶほかなくなります。「適用する」というのは、つまりオブジェクティビズムの原則を自分の人生の具体的な問題に当てはめるためには、自分自身の頭脳を、自分自身の思考を使わなければならないということです。
PLAYBOY
あなたは、信仰に反対すると言いました。あなたは神の存在を信じますか?
ランド
まったく信じません。
PLAYBOY
あなたはこう言ったとされています。「十字架は拷問の象徴、つまり理想を非理想の犠牲にすることの象徴だ。私はドルマークのほうがいい」と。あなたはキリスト教の2千年の歴史を、本当に「拷問」という言葉で要約できると思うのですか?
ランド
まず、私はそのような発言はしていません。そういうスタイルを私は用いません。表現の仕方としても、思考の仕方としてもです。「私はドルマークの方がいい」なんて、安っぽいナンセンスです。そんなことは言いません。お持ちの本に書き込んでおいてください。その引用文の出所は知りませんが、ドルマーク意味については、『肩をすくめるアトラス』のストーリーの中で明確に説明しました。ドルマークは、自由な取引の象徴であり、そしてそれゆえに、自由な思考の象徴なのです。自由な思考と自由な経済は、互いの帰結なのです。どちらも他方なしには存在し得ません。自由な国の通貨の象徴としてのドルマークは、自由な思考の象徴なのです。それだけではありません。まだ証明されていませんが、ドルマークの由来は、アメリカ合衆国United Statesの頭文字USであるという有力な説もあります。ドルマークについてはこれくらいでいいでしょう。
十字架について話してほしいのでしたね。私が十字架を「理想を非理想の犠牲にすることの象徴」と見なしているというのは、その通りです。実際そうではありませんか? キリスト教の哲学において、キリストは理想の人間です。彼は、人々が模範とすべきものを体現しています。ところがキリスト教の神話によれば、彼は自分自身の罪のためでなく、理想の人間ではない人々の罪のために、十字架にかけられて死んだのです。言い換えれば、道徳的に完全な者が、不道徳な者たち、本来犠牲になるべき者たちの犠牲にされたのです。もし私がキリスト教徒なら、これほど私を憤らせることはないでしょう。これは、理想を非理想の犠牲にするという思想です。美徳を悪徳の犠牲にするという思想です。そして人々は、このシンボルの名のもとに、自分より劣った者たちのために自分自身を犠牲にすることを求められているのです。このシンボルは、まさにこのように使われているのです。これは拷問です。
PLAYBOY
あなたの考えでは、宗教が人間生活に建設的な価値を提供したことなど、これまでなかった?
ランド
「宗教としての宗教が」ということならその通りです。つまり「盲目的な信念」、「客観的現実や合理的結論に裏付けられない、これらに反する信念」が、人間生活に建設的な価値を提供したことはありません。信仰それ自体は、人間生活にきわめて有害なものです。信仰は、理性の否認です。ただ忘れてはならないのは、宗教が哲学の原初形態だったことです。この世界を説明しようとする最初の試みは、宗教によってなされたということです。人類が哲学を持つほど発達する以前は、人間生活に関する一貫した準拠枠や、道徳的価値の基準は、宗教によって与えられていたということです。哲学同様、宗教の中には、道徳的に非常に価値あることを教えるものもあります。そうした宗教が良い影響を与える可能性、あるいは適切な指針を与える可能性もあります。ただしその文脈が非常に矛盾していて、依拠する土台が――言い方に迷いますが――非常に危険、あるいは有害なのです。つまり、信仰が土台になっているのです。
PLAYBOY
そうすると、もし「十字架のシンボル」と「ドルのシンボル」のいずれかを選ばなければならないとしたら、あなたはドルを選ぶわけですか。
ランド
そういう選択を、私は受け入れません。表現を変えるべきです。もし信仰と理性のいずれかを選ばなければならないとしたら、私は、そんな選択があり得るとさえ思わないでしょう。人間は理性を選択するものです。
PLAYBOY
フォードやロックフェラーのような裕福な事業家が、財産を慈善事業に投じるのは不道徳だと思いますか。
ランド
いいえ。彼らがそれを望むなら、そうすることが彼らの権利です。慈善に関する私の見解は、非常にシンプルです。私は、慈善を主たる美徳とは見なしません。なにより私は、慈善を道徳的義務とは見なしません。他人を助けて悪いことは何もありません。ただしそれは、相手が助けるに値する人であり、かつ相手を助ける余裕があなたにある場合だけです。私の見解では、慈善は中心的な問題ではありません。私が闘っているのは、慈善が道徳的義務であり、慈善が重要な美徳であるとする思想です。
PLAYBOY
同情は、あなたの哲学ではどう位置づけられるのですか。
ランド
同情が正当であるのは、罪のない犠牲者に向けられる場合だけです。道徳的に有罪な者への同情は、不当です。拷問の犠牲者に同情を覚えるなら、拷問の命令者には同情を覚えられないはずです。もし拷問の命令者に同情を覚えるなら、それは拷問の犠牲者に対する道徳的背信です。
PLAYBOY
他人を守るために、銃弾の前に飛び込んで自身を犠牲にするのは、オブジェクティビズムの原則に反しますか?
ランド
いいえ。それは状況によります。もし私の夫に銃弾が向けられたら、私は銃弾の前に飛び込みます。自分が価値を置くものを守るために死ぬことは、自己犠牲ではありません。その価値があまりにも大きい場合、人はそれなしに生き続けたいとは思わないものです。愛する人のための自己犠牲に見えるあらゆる行為に、これは当てはまります。
PLAYBOY
あなたは、あなたの大義のためなら進んで死にますか? あなたに賛同する人は、あなたの大義のために進んで死ぬべきですか? 真に非自己犠牲的なオブジェクティビストにとって、死んで守るに値する大義は存在し得ますか?
ランド
その答えは『肩をすくめるアトラス』で明らかにしてあります。この作品で詳しく説明したように、人は自分にとっての価値のために生きなければなりません。必要なときは、自分にとっての価値を守るために闘わなければなりません。なぜなら人が生きることのすべては、価値の達成で成り立っているからです。人間は、自動的に生きるものではありません。人間は、合理的存在たるにふさわしく生きなければなりません。合理的存在にもとるいかなる生き方も、受け入れてはならないのです。人間は、獣(けもの)として生きることはできません。食物のようなもっともシンプルな価値でさえ、人間が考え出し、植え付け、作り出さなければなりません。もっと興味を引く、もっと重要な価値についても同じことです。あらゆる価値は、人間が獲得し、維持しなければならないものです。自分にとっての価値が脅かされたときは、合理的存在にふさわしく生きる権利をかけ、進んで闘わなければなりません。必要なら、進んで死ななければなりません。オブジェクティビズムのためなら、進んで死ぬかとお尋ねでしたね? 死にますとも。でも私にとってはるかに重要なのは、オブジェクティビズムのために進んで生きることです。そしてそのほうがずっと難しいのです。
PLAYBOY
あなたは理性を強調する中で、現代の作家や小説家や詩人について、彼らの多くが自ら認める神秘主義者、もしくはいわゆる非合理主義者であるとして、彼らとは哲学的に相(あい)容(い)れないとしています。これはなぜですか。
ランド
なぜなら芸術には哲学的土台があり、今日支配的な哲学潮流は、ある種の新神秘主義だからです。芸術は、芸術家の根底的な人間観と存在観の投影です。ほとんどの芸術家は、自分で独自の哲学を築きません。だから自分が生きる時代に支配的な哲学の影響を、自覚的にあるいは無自覚のうちに吸収するのです。今日の文学のほとんどは、今日の哲学の忠実な反映です。実際その通りではありませんか!
PLAYBOY
しかし、作家は自分の時代を映すべきなのでは?
ランド
いいえ。作家は知の領域で、時代の能動的主導者たるべきです。いかなる潮流の受動的追従者にもなるべきではありません。作家は、自分の文化における諸価値の形成者たるべきです。人生における価値目標を映し、具体化すべきです。これが、文学におけるロマン主義のエッセンスです。ロマン主義のエッセンスは、今日の文学シーンからは消滅しかけています。
PLAYBOY
文学的には、我々は今どこにいるのでしょう。
ランド
自然主義のどん詰まりです。自然主義では、作家は自分の周りでたまたま目にしたものを、何であれ無批判に書き綴(つづ)る、受動的な写真家あるいはレポーターにならなければならないとされます。ロマン主義では、作家は物ごとを、現にあるがままの姿ではなく、アリストテレスの言葉を使うなら、「あり得る姿、あるべき姿」において提示しなければならないと考えます。
PLAYBOY
あなたは最後のロマン主義者なのですか。
ランド
「またはその最初の復活」です。『肩をすくめるアトラス』の登場人物の台詞を借りるなら。
PLAYBOY
現在の文学全般をどう評価しますか。
ランド
哲学的には不道徳、美学的には死ぬほど退屈です。文学は、堕落の研究を専らとするドブにまで成り下がりつつあります。堕落ほど退屈なものはありません。
PLAYBOY
尊敬する小説家はいますか。
ランド
ええ。ヴィクトル・ユーゴーを。
PLAYBOY
現代の小説家では?
ランド
いません。いわゆる純文学で、私が尊敬していると言える作家は一人もいません。むしろ大衆文学の方が私は好きです。今日の大衆文学は、ロマン主義の現代における名残(なご)りです。私のお気に入りはミッキー・スピレインです。
PLAYBOY
なぜミッキー・スピレインが好きなんですか?
ランド
彼が本質的にモラリストだからです。彼は探偵小説という素朴な形式で、善と悪の対立を「黒か白か」で提示しています。黒と白のどちらともつかないような、気味の悪い無節操者を彼は描きません。彼は妥協の余地のない対立を描きます。彼は作家として、プロット構造づくりが素晴らしく巧みです。プロット構造を、私は文学のもっとも重要な側面と見なしています。
PLAYBOY
フォークナーについてはどう思いますか。
ランド
それほどいいとは思いません。名文家ではあります。ただ内容に読むべきものがほとんどありません。だから彼の作品はほとんど読んでいません。
PLAYBOY
ナボコフはどうでしょう。
ランド
彼の作品は1冊と半分しか読んでいません。半分だけ読んだのは『ロリータ』です。とても最後までは読めませんでした。文章は素晴らしく上手いです。非常に美しい文章を書きます。ただ彼の主題、生に対する感性、そして人間観はあまりにも邪悪です。どれほど芸術的技量が高くても、あの邪悪さは正当化されません。
PLAYBOY
小説家としてのあなたの主たる執筆目的は、哲学なのですか。
ランド
いいえ。私の主たる目的は、理想の人間の提示です。人間の「あり得る姿、あるべき姿」を示すことです。哲学は、この目的のための必須手段です。
PLAYBOY
あなたの初期の小説『アンセム』で、主人公が「選択するのは私の意志なのだ。私の意志の選択こそ、私が服する唯一の命令なのだ」と宣言する場面があります。これは無政府主義ではありませんか? 自分自身の欲求や意志こそ、人が服すべき唯一の法なのですか?
ランド
それは違います。これは、『アンセム』のストーリー全体の中で解(かい)されるべき詩的表現です。人が服すべきなのは、自分自身の合理的判断です。私は「自由意志」という言葉を、一般に用いられているのとはまったく違った意味で使っています。自由意志は、人間の考える能力、そして考えない能力で成り立っています。思考という行為は、人間にとって第一の選択行為です。合理的な人は、決して欲望や気まぐれに従って行動しません。自分の合理的判断に基づく価値に従ってのみ行動します。これが、合理的な人が服する唯一の権威です。これは無政府状態を意味しません。なぜなら、自由で文明的な社会に生きることを望む限り、人は法律を遵守するのが合理的だからです。「法律が客観的で、合理的で、妥当であるならば」という条件付きではありますが。この問題については、「政府の必要性と適正な機能」というテーマで「ザ・オブジェクティビスト・ニュースレター」に論考を書きました。
PLAYBOY
あなたの見解では、政府の適正な機能とは?
ランド
基本的には一つしかありません。すなわち、個人の権利の保護です。権利の侵害は、物理的な強制力と、そのいくつかの派生物によってのみ可能です。ですから政府の適正な機能は、物理的な強制力を自分から行使してくる者から、人々を守ることなのです。言い換えれば、人々を犯罪者から守ることです。自由な社会においては、強制力は、自分から強制力を行使した者に対する応酬としてのみ、行使が許されます。これが、政府の適正な役目です。強制力の使用から人々を守る、警察官の役目です。
PLAYBOY
強制力に対する応酬としてしか強制力を使えないとすると、たとえば政府には、徴税や徴兵のために強制力を行使する権利はないのですか。
ランド
原則として納税は、他のあらゆること同様、自発的であるべきだと私は信じています。ただしこれをどう実現するかは、非常に複雑な問題です。いくつかの方法を提案することはできますが、それが最終的な回答だと主張するつもりはありません。たとえばヨーロッパの多くの国で採用されている公営宝くじは、自発的納税を可能にする良い方法の一つです。他にも良い方法はあります。自分が実際に必要としているものには、人々は進んで対価を払うものですし、また払うことが当然です。たとえば保険がそうです。同じように納税も、政府の適切なサービスに対する自発的な支払いであるべきです。当然ながら、納税の方法が現実に問題になるのは、遠い将来のことです。完全に自由な社会制度の確立に人々が取り組み始めたときのことです。これは最初にではなく、最後に唱えるべき改革でしょう。徴兵について言えば、これは不当で、憲法に反する制度です。徴兵は、「自分自身の命に対する権利」という基本的権利を侵害する制度です。自分の大義のために他人を闘わせ、他人を死なせる権利など誰にもありません。非自発的な労役を人々に強制する権利など、いかなる国家にもありません。軍隊は、完全に志願に基づく組織であるべきです。軍事の専門家に聞けば、「義勇軍こそ最強の軍である」と口を揃えるでしょう。
PLAYBOY
他の公共サービスについてはどうです? たとえば郵便などは、政府の正当な機能ですか?
ランド
はっきりさせておきましょう。私の立場は完全に一貫しています。郵便だけではありません。道路も、学校も、すべて私有・私営であるべきです。私は、国家と経済の分離を主張しています。国家は、強制力の行使を伴う問題だけに関与すべきです。これは、警察、軍隊、そして紛争を調停する法廷だけに関与すべきであるということです。それ以外の問題には、国家はいっさい関与すべきではないということです。これら以外のことは、すべて民営化されるべきであり、民営化された方がはるかにうまくいくのです。
PLAYBOY
新たに作らなければならない政府部門や、政府機関はありますか。
ランド
いいえ。それから、そういう議論を私に持ちかけるのは無意味です。私は、政府機構の設計者ではありません。ユートピアの構想に忙しいわけでもありません。私は、実践への適用が明白な原則について語っているのです。「最初に武力を行使することに反対する」と私が述べたら、それ以上何を議論する必要がありますか?
PLAYBOY
外交における武力については、どうお考えです? あなたは第二次世界大戦中、「自由主義国はナチス・ドイツに侵攻する権利がある」と言いましたね。
ランド
言いました。
PLAYBOY
それから、「今日の自由主義国には、ソビエトロシアや、キューバや、その他の『奴隷収容所』国に侵攻する道徳的な――義務はないにせよ――権利がある」とも。正しいですか?
ランド
正しいです。独裁国は、つまり自国民の権利を侵害する国は法益外(アウトロー)なのです。そういう国はいかなる権利も主張できません。
PLAYBOY
現時点でも、米国がキューバやソ連を侵攻することを支持しますか?
ランド
現時点では支持しません。それが必要だとは思いません。それより、ソ連が何よりも恐れる政策を支持したいです。つまり、経済的ボイコットです。私はキューバの封鎖と、ソビエトロシアに対する経済的ボイコットを主張します。実行すれば、一人のアメリカ人の命も失うことなく両体制を崩壊させることができるでしょう。
PLAYBOY
米国の国際連合からの脱退に賛成しますか。
ランド
賛成します。史上最悪の侵略国であり、史上もっとも残虐な虐殺国であるソビエトロシアをその一員としながら、「世界平和と人権のための組織」を騙(かた)るあのグロテスクな虚構を、私は認めません。「ソビエトロシアを人権保護者に含む人権保護」など、人権という概念と、そのような組織の是認を求められるあらゆる者の知性に対する侮辱です。自由主義国が独裁政権に協力すべきでないのは、個人が犯罪者に協力すべきでないのとまったく同じことです。
PLAYBOY
ロシアとの国交断絶を支持しますか。
ランド
しますとも。
PLAYBOY
最近調印された核実験禁止条約についてはどう考えますか。
ランド
この問題については、バリー・ゴールドウォーター上院議員の議会での演説に賛同します。水爆の開発者であるエドワード・テラー博士は、軍事に関する権威であり、何よりも科学に関するもっとも信頼できる権威ですが、彼はこの条約が単に無意味であるだけでなく、アメリカの防衛を確実に脅かすものであると証言しています。
PLAYBOY
ゴールドウォーター上院議員がこの7月に共和党の大統領候補に指名されたら、あなたは彼に投票しますか。
ランド
現時点では、イエスです。「現時点では」というのは、「このインタビューが録音されている時点では」ということです。彼に賛同できない点は数多くあります。しかし彼の対外政策については、大筋で賛同します。現時点で選択可能な候補の中では、バリー・ゴールドウォーターが最善と考えます。もっともな政策要綱、あるいは少なくとも一貫性らしきもののある政策要綱を彼が発表すれば、私は彼に投票します。
PLAYBOY
リチャード・ニクソンはどうですか?
ランド
支持しません。妥協屋や追随屋には、私は誰であれ反対します。ニクソン氏はおそらく究極の妥協屋・追随屋です。
PLAYBOY
ジョンソン大統領については?
ランド
彼については特に意見はありません。
PLAYBOY
あなたは公然たる反共主義者であり、反社会主義者であり、反リベラル派です。しかしあなたは、保守派と呼ばれることも否定しています。実際あなたのもっとも激しい批判のいくつかは、保守派に向けたものです。あなたの政治的立ち位置は、実際どこにあるのでしょう?
ランド
一つ訂正。私は自分の立場を、否定によっては表明しません。私は、自由放任資本主義の唱導者です。個人の権利の――それ以外の権利はありませんが――唱導者です。そして、個人の自由の唱導者です。だからこそ私は、個人を集団の犠牲にすることを是とするあらゆる主義に反対するのです。共産主義、社会主義、福祉国家、ファシズム、ナチズム、現代リベラリズム、すべてそうです。保守派とは、混合経済を唱導し、福祉国家を唱導する人々です。リベラル派との違いは程度の差であり、原理の違いではありません。
PLAYBOY
あなたは、アメリカが知的破綻に苦しんでいると述べています。「ナショナル・レビュー」誌のような右派論壇も、あなたは「知的破綻」に含めますか。「ナショナル・レビュー」誌は、あなたの言う「国家主義」に力強く抵抗してはいませんか。
ランド
私は「ナショナル・レビュー」を、アメリカで最悪かつもっとも危険な雑誌と見なしています。あの雑誌が行っている資本主義擁護は、資本主義の信用を失墜させ、資本主義を破壊するだけです。理由を聞きたいですか?
PLAYBOY
お願いします。
ランド
なぜならあの雑誌が、資本主義を宗教に結びつけているからです。「ナショナル・レビュー」のイデオロギー的立場は、つまるところこうです。「自由と資本主義を受け入れるためには、人は神を信じなければならない。もしくは、何らかの形の宗教、何らかの形の超自然的な神秘主義を信じなければならない」。これは、「資本主義を擁護できる合理的根拠は存在しない」というのと同じことです。つまり「理性は資本主義の敵である」、「奴隷社会や独裁制は合理的体制である」、「神秘的信仰に依拠してのみ、人は自由の価値を信じることができる」と彼らは主張しているのです。これほど資本主義の名誉を損なう主張がなされたことは、かつてありません。事実はまったく逆です。資本主義は、理性によって擁護し正当化できる唯一の体制なのです。
PLAYBOY
あなたはネルソン・ロックフェラー知事を、「福祉国家への反対者を、すべて奇人と一緒に扱っている」と批判しました。彼の批判が何よりもジョン・バーチ・ソサエティに向けられていたことは、彼の発言から明らかです。あなたはジョン・バーチ・ソサエティと一緒に扱われたら怒りを覚えますか。彼らを「変人」と見なしますか。それとも、彼らを良き勢力と見なしますか。
ランド
誰と一緒に扱われても、私は怒りを覚えます。定義を明確にせず、まったく異なる人々を一緒に扱って誹謗中傷する近ごろのやり方に、私は怒りを覚えます。ロックフェラー知事の、あの批判の対象と意味を明らかにしない中傷戦術に、私は怒りを覚えます。繰り返しますが、私は誰とも一緒に扱われたくありません。もちろんジョン・バーチ・ソサエティともです。彼らを変人と見なすかといえば、必ずしもそうとは限りません。彼らの問題は、具体的で明確に定義された政治哲学があるようには見えないところです。だから彼らの中には変人もいれば、善良な市民もいることでしょう。私がジョン・バーチ・ソサエティを不毛だと思うのは、彼らが資本主義を唱導しているのではなく、単に共産主義に反対しているだけだからです。私が見るところ彼らは、今日の世界の悲惨な状態が、共産主義者の陰謀によって引き起こされていると信じています。これはナイーブで皮相な、子供じみた考えです。たかだか陰謀で滅びる国家はありません。国家は思想によって滅びるのです。バーチ主義者たちは、非知性主義でも反知性主義でもありません。彼らは思想を重視しないのです。今日の世界における大きな闘いが、哲学的対立、イデオロギー的対立であることを、彼らは理解しないのです。
PLAYBOY
今のアメリカで、あなたが認める政治団体はありますか。
ランド
政治団体では――一つもないですね。今、完全に一貫した政治団体がありますか? あからさまな矛盾を指針とし、唱導する政治団体ばかりです。
PLAYBOY
あなた自身に政治的な野心はないのですか。選挙への立候補を考えたことはないのですか。
ランド
まったくありません。そんなことを私に期待するほど、あなたは私を嫌ってないはずです。
PLAYBOY
しかし政治への関心はあるのでは? 少なくとも政治理論への関心は。
ランド
こう答えさせてください。私がソビエトロシアからここに来たとき、私はただ一つの理由で政治に関心を持っていました。いつか政治に関心を持つ必要がない日が来るように、というのがその理由です。私は、自分自身の関心や目標を、自由に追求できる社会を確保したかったのです。私の関心や目標が、政府の干渉で潰されることはない――私の人生、仕事、そして未来が、国家や気まぐれな独裁者の意のままにされることはない――そう確信できる社会を、私は確保したかったのです。私のこの態度は、今も変わりません。ただ、今ではわかっています。そのような社会は、いまだ実現されていない理想なのだということを。そのような社会を、私に代わって他人に実現してもらうことはできないことを。そして私は――すべての責任ある市民は――そのような社会の実現のために力を尽くさなければならないことを。言い換えれば、私はただ、自由の確保のためだけに政治に関心があるのです。
PLAYBOY
あなたの作品を通じて、あなたはこう主張しています。今の世の中のあり方は、資本主義国においてさえ、個人を埋没させ自発性を押し殺すものになっていると。『肩をすくめるアトラス』では、ジョン・ゴールトの主導で頭脳の人々のストライキが行われ、集産主義社会が崩壊します。芸術家や、知識人や、創造的事業家たちが、この小説のように自分の才能を社会から引き揚げるべき時代は、すでに到来していると思いますか。
ランド
いいえ。そのような時代にはまだなっていません。説明する前に、あなたの質問に一箇所訂正が必要です。私たちが生きる今日の社会は、資本主義社会ではありません。これは混合経済です。つまり自由と統制の混合です。この混合経済は、現在支配的な潮流によって、独裁制へと向かっています。『肩をすくめるアトラス』でストライキが決行されたのは、社会が独裁制の段階に到達したときです。もしそのような段階に到達することがあれば、そのときこそストライキに入るべきです。それまでは、ストライキに入るべきではありません。
PLAYBOY
独裁制の定義は?
ランド
独裁制とは、個人の権利を認めない国家です。人々に対して、政府が全面的な、無制限の権力を持つ国家です。
PLAYBOY
あなたの定義では、混合経済と独裁制はどこで区別されますか。
ランド
独裁制には4つの特質があります。「一党制」、「政治犯の無審理での処刑」、「私有財産の収用ないし国有化」、そして「検閲」です。特に最後です。人々が自由に語り書くことができる限り、検閲が存在しない限り、まだ社会を改革するチャンスはあります。あるいは、社会が進む道を変えるチャンスはあります。もし検閲制度が敷かれたら、そのときこそ知性のストライキを実行すべきです。つまり、社会体制へのいかなる形での協力も拒むべきです。
PLAYBOY
あなたが望ましいと見なす社会変革のために、ストライキ以外でなされるべきことはありますか。
ランド
社会の動向は、思想が決めます。社会体制を生み出すのも壊すのも思想です。だから正しい思想、正しい哲学を唱導し、流布(るふ)する必要があります。今の世界の惨状は、資本主義の毀損(きそん)を含めて、利他主義・集団主義の哲学が引き起こしたものです。利他主義こそ、人類が捨て去るべきものです。
PLAYBOY
利他主義の定義は?
ランド
利他主義とは、「人間には自分自身のために存在する権利がない」、「人間の存在は他者への奉仕によってのみ正当化される」、そして「自己犠牲は人間にとって最高の道徳的義務であり、価値であり、美徳である」と考える道徳体系です。これは集団主義の道徳的基盤であり、あらゆる独裁制の道徳的基盤です。自由と資本主義を追求するためには、非神秘的、非利他的な、合理的な道徳律が必要です。すなわち、「人間は生贄(いけにえ)ではない」、「人間には、自分を他人の犠牲にすることもなく、他人を自分の犠牲にすることもなく、自分自身のために存在する権利がある」と考える道徳が必要です。言い換えれば、今日喫緊に必要とされているのは、オブジェクティビズムの倫理なのです。
PLAYBOY
ということは、望ましい社会変革のために用いるべき手段は、教育的あるいは宣伝的手法であるということですか。
ランド
その通りです。
PLAYBOY
あなたを批判する人たちは、オブジェクティビズムの道徳原理や政治原理は、アメリカ思想の本流から外れるものだと批判しています。これについてはどう思いますか。
ランド
「思想の本流」などという概念を、私は理解も承認もしません。そういう概念は、独裁国ならあり得るでしょう。集団主義の社会では、思想が統制され、集団の本流というものがたしかに存在します。それは思想の本流ではなく、スローガンの本流です。アメリカには、そのようなものは存在しません。かつて存在したこともありません。ただその表現が、イノベーターや、異端児や、何であれ独自のものを提供できる人を、表舞台から排除するために使われているのは知っています。私はイノベーターです。これは傑出を示す呼称であり、名誉の呼称です。隠匿(いんとく)や弁明の対象ではありません。新しいアイデア、価値あるアイデアを提供する者は、必ず知的現状の外に立ちます。現状は――「本流」なるものであることを除いては――いかなる流れでもありません。よどんだ沼です。イノベーターこそが、人類を前進させるのです。
PLAYBOY
哲学としてのオブジェクティビズムは、最終的に世界を席巻(せっけん)すると思いますか。
ランド
そのような質問には、誰も答えられません。人間には自由意志があります。ある時点の人間、もしくはある世代の人間が、合理的になることを選択する保証はありません。それに、哲学が「世界を席巻(せっけん)する」必要もありません。あなたの質問を少し変えて、「オブジェクティビズムは未来の哲学になると思うか」と聞かれたら、私はイエスと答えます。ただし条件付きです。人類が理性に依拠することを選ぶなら――独裁制によって滅ぼされず、再び暗黒時代に陥ることがなければ――考える時間を持てるほど十分長く自由でい続けたら――。そうすればオブジェクティビズムこそ、人類が受け入れる哲学になるでしょう。
PLAYBOY
なぜです?
ランド
歴史上、人間が自由であった時代において、勝利したのは常にもっとも合理的な哲学でした。「オブジェクティビズムが勝利する」と私が言うのは、この観点からです。しかし保証はありません。この点について、決定論的な必然性はありません。
PLAYBOY
あなたは今の世の中のあり方に対して、極めて批判的です。あなたは著作で、社会のあり方だけでなく、ほとんどの人々の働き方、考え方、愛し方までをも根本的に変える提起をしています。あなたは、人類の未来に対して楽観的ですか?
ランド
ええ。私は楽観的です。集団主義は、知的権威や道徳的理想としては、すでに死にました。しかし自由や個人主義、そしてこれらの政治的表現である資本主義は、まだ発見さえされていません。人類にはこれらを発見できるだけの時間があると、私は信じています。今日の死にゆく集団主義の哲学が、堕落、無力、絶望のカルト以外の何ものも生み出していないことは明らかです。現代の芸術や文学を見てください。そこでは人間が、失敗、挫折、破滅を運命づけられた、無力で無思慮な生き物として描かれています。こんなものは、集団主義者たちの心理的告白ではあっても、人間の真の姿ではありません。こんなものが人間の真の姿なら、私たちは決して洞窟を出て文明を築かなかったでしょう。しかし私たちは洞窟を出たのです。文明を築いたのです。あなたの周りを見てください。歴史を見てください。見えるでしょう。人間の頭脳が成し遂げてきたことが。人間の、偉大さへと向かう無限の潜在力が。それを可能にしているのが、人間の頭脳であることが。人間は、本質的に無力な怪物などではなく、ただ思考を放棄した場合のみ、そうした無力な怪物になってしまうことが。では偉大さとは? と聞かれたら、私はこう答えます。それはジョン・ゴールトの3つの基本的価値――すなわち理性、目的、自尊心――に従って生きる能力であると。


底本:Playboy, March 1964 Volume 11, Number 3, HMH Publishing, pp. 35-64
翻訳:佐々木一郎 2017年